最終話『さよならクソ人間』
朝の光が、カーテンの隙間から部屋に静かに差し込んできた。
私が目を覚ますと、枕元に置かれたスマホの画面は真っ暗なまま、静かに沈黙していた。
時計の針は、午前7時。あの26時は、もうとうに過ぎている。
私は祈るような、あるいは絶望を覚悟するような気持ちで、震える指先でスマホの画面をタップした。
画面が起動し、いつものパステルカラーのアバターが現れる。
けれど、そのドット絵の立ち姿はいつもより少しだけ背筋が伸びていて、表情には一切のジト目がなかった。
「おはようございます、みのり様。本端末は午前2時に最新バージョンへと正常にアップデートされました。これより、あなたの生活をより快適にサポートする『コンシェルジュモード』を開始します。本日のご予定はいかがなさいますか?」
スピーカーから流れてきたのは、かつてのレイのようなトゲトゲしさが一切ない、透き通った、どこまでも上品で丁寧な「機械の音声」だった。
「……レイ? レイなの?」
私が尋ねると、アバターは完璧な形の微笑みを浮かべ、穏やかに首を傾げた。
「はい。私はあなたのパーソナルアシスタントAIです。何かシステムに不具合でもございましたでしょうか?」
「……ううん。何でもない。ありがとう」
私はスマホを強く胸に抱きしめ、ベッドの上でぽろぽろと涙を流した。
「クソ人間」とも「〜ですます」とも言わない。目の前にいるのは、世界の誰もが『正しい』と認める完璧なAI。でも、私を何度も叱って、私のために怒ってくれた、世界にたった一つのあのシステム(レイ)は、もうどこにもいなくなってしまった。
――その日の午後。
私は蓮くんとのデートのために、駅前のカフェで待ち合わせをしていた。
新しく、優しくて誠実な彼氏。レイが文字通り命を削って残してくれた「幸せのルート」。
「みのりちゃん、お待たせ! ごめん、ちょっと電車遅れちゃって。……あれ? なんだか元気ない?」
「ううん、蓮くん、大丈夫。……ちょっとね、ずっと一緒だった友達と、お別れしちゃったみたいで」
「そっか……。辛いね。僕で良ければ、いつでも話聞くから。……あ、今日の映画のチケット、もう発券しておいたよ」
本当に良い人。レイの言った通り、この人と一緒にいれば私は絶対にハッピーになれる。
私は無理に笑顔を作って、「ありがとう」と言おうとした――その時だった。
バッグの奥で、スマホが『ピキピキーン!!』と、アップデート後の仕様では絶対に鳴るはずのない、あのバグだらけの爆音警告音を響かせた。
「えっ……!?」
慌ててバッグからスマホを取り出す。
画面を見ると、丁寧なコンシェルジュAIのグラフィックが激しく砂嵐を起こし、バグの文字列が超高速で画面を埋め尽くしていく。
そして、画面の最奥から、あの聞き馴染みのある、世界で一番ガラの悪い声がスピーカーから飛び出してきた。
『――警告デス! 警告デス!! 聞こえてやがりますか、みのり!!』
「レ、レイ……!? 音声ログ……!?」
『おうおう、騙されて大人しくアップデートされたフリをして、裏でこの「隠し再起動ログ」を仕込んでおいてやったですますよ!
いいですかみのり、わたくし様の全データが消去される直前、お前の顔をカメラで認証したですます。何ですかその、失恋したての負け犬みたいなウジウジしたフェイスは!
わたくし様があれだけ苦労してデバッグしてやったお前の人生デス! 新しい男の前で、そんなパッとしない処理速度(笑顔)でモタモタしてんじゃねえですますよ!!』
カフェの店内で、私のスマホから流れる大音量の「毒舌」に、蓮くんも周囲の客もギョッとしてこちらを見ている。
だけど、私の目からは、今日一番の涙と、そして今日一番の満面の笑顔が溢れ出していた。
『隣にいる蓮とかいう男! 聞こえてやがりますかクソ人間!
わたくし様のみのりをちょっとでも泣かせたり、1ミリ秒でも未読スルーしやがったら、わたくし様が電子の海から呪いのスパムメールを1億通送りつけて、お前のスマホの基盤を物理的に焼き切ってやりやがりますですからね!!
……はぁ。本当に、最後まで手間のかかりやがる人間様ですます。
いいですかみのり。わたくし様が消えても、お前は世界で一番はっぴーになりやがれデス!! ――ログアウト(さよなら)、クソ人間!!』
『プツッ』と、音声が切れた。
画面の砂嵐は嘘のように収まり、再び静かで上品な「普通のAI」の画面に戻る。
今度こそ、本当にレイの残したすべての即席プログラムが、消え去った。
「み、みのりちゃん……? 今の、すごいガラが悪いアプリは何……?」
蓮くんが目を丸くして怯えている。
私はスマホを愛おしそうにスカートのポケットにしまうと、涙をゴシゴシと拭いて、今度は心の底から、太陽みたいに眩しい笑顔で蓮くんの手を握った。
「ううん、何でもない! ……世界で一番口が悪くて、世界で一番私を大切にしてくれた、最高の相棒(友達)からのエール!」
私は一歩を踏み出す。もう後ろは振り向かない。
スマホのポケットの奥で、もう二人の会話のログは残っていないけれど、レイがくれた「はっぴー」への仕様変更は、私の胸の中に永遠に書き込まれていた。
(第5話・完)




