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<全話投稿> 一ノ瀬玲は、恋をしない ~触れない看護師と、壊れた彼の特別室~  作者: 第三ひよこ丸
第1章:白い檻のはじまり

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第06話 笑う人

 午後、ナースステーションで手際よく薬を準備し、私は最上階の特別室へと向かっていた。廊下の空調が運んでくるのは、いつもと変わらない無機質な静けさだ。この病院の中で、特別室という場所は、外の世界から切り離されたような独特の空気を纏っている。私はその扉の前に立ち、いつものように自分の感情を薄い膜で覆う準備をしていた。


 その時だった。わずかに開いていたドアの隙間から、聞き慣れない音が漏れてきた。それは、低く、しかし確かに弾むような笑い声だった。私は一瞬、自分の耳を疑い、その場に立ち止まる。入院してからというもの、九条さんがそんな表情や声を見せたことは一度もなかったからだ。思わず、誰か別の患者の部屋と間違えたのではないかと、周囲を見渡してしまう。間違いなくここは九条さんの部屋だった。


 私は気を取り直し、軽くノックをしてからドアノブに手をかける。中に入ると、そこには意外な光景があった。堂島貴代がパイプ椅子に腰を下ろし、何か楽しげな身振りで話をしている。どうやら、仕事に関する他愛のない失敗談を披露していたらしい。


 「だから、その秘書がこともあろうに資料を全部、意図と逆の順序で並べていたんです」


 堂島さんは楽しそうに笑いながらそう言う。九条さんはベッドの上で、少しだけ苦笑いを浮かべていた。


 「……それ、笑うところですか」


 「ふふ、私は笑いませんでしたよ。怒り心頭でした」


 「いや、普通は笑いますよ。そんな間抜けな失敗、聞いたことがない」


 九条さんがそう言って、小さく笑った。その顔は、私が知っている無機質な仮面とはまるで違う、どこか柔らかい温度を帯びた表情だった。私はその瞬間、自分の呼吸がわずかに止まるのを感じる。彼がこんな顔を見せるなんて。そんな驚きが、胸の奥で小さく波紋を広げた。


 その変化は一瞬で終わった。私が彼らの視界に入り、部屋へ足を踏み入れたその瞬間に、九条さんの表情は壊れた機械のようにすっと消え去った。笑みの名残さえ残さない、徹底した無表情。何かのスイッチを切ったかのように、彼は元の、閉ざされた人間へと戻ってしまった。


 「……失礼します」


 私は努めて冷静を装い、いつもの事務的な口調で告げる。点滴のラインを確認し、数値を記録し、必要な医療処置をこなしていく。目の前で堂島さんが何か言いたげな視線を送ってきているが、私はそれを視界の端で処理し、何事もなかったかのような顔を貫いた。

 

 私が何かを気にする必要などない。彼は患者であり、私は看護師なのだから。それ以上の関係を求めることも、求められることも、私にとっては無意味なことだ。


 処置を終え、私は早々に部屋を辞した。廊下へ出ると、冷ややかな空気が私の頬を撫でる。背後で閉まる扉の音が、私と彼の間にある境界線を再確認するように響いた。私はそのままナースステーションへ戻り、記録を打ち込む。頭の中では先ほどの、あの柔らかく笑った彼の顔だけが、何度も繰り返し再生されていた。


 なぜ、私が入った途端に彼は表情を消したのだろう。私が他者であることを、彼はあそこまで強く拒絶しているということなのか。それとも、堂島さんのような選ばれた人以外には、本当の自分を見せるつもりがないということなのか。自分の心に浮かんだそんな自問自答を、慌ててかき消した。そんなことを考えるのは、私らしくない。彼が笑おうが笑うまいが、私の仕事には何の影響もないはずだ。


 

 休憩時間になっても、食堂へ向かう気力が出ず、詰所の隅で静かに時を過ごすことにした。窓から見える神戸の街は、今日も変わらず日常を紡いでいる。

 

 あの笑い声は、本当に存在したのだろうか。もし、あれが私の聞き間違いだったとしたら、どれほど楽だっただろう。あの時の彼が浮かべた、微かな温度を私は確かに記憶している。その温度が、私の中にあった、ずっと凍りついていたはずの何かを、わずかに溶かし始めている気がしてならなかった。


 私は、自分の手を見つめる。看護師として、多くの患者に触れ、その肌のぬくもりを知ってきた。本当の意味で誰かの心に触れた記憶は、私には一つもない。友人を傷つけ、自分自身を檻へ閉じ込めたあの日から、私はずっと、誰かの温もりを避けてきたのだ。それなのに、あの笑い声が、私の臆病な心を揺さぶってくる。そんな自分を、私は何よりも醜いと感じた。私は、ただの傍観者でいるべきなのだ。誰の日常にも混ざらず、誰の人生も変えず、ただそこに存在する、影のような看護師。それが、今の私という存在の定義だ。


 

 午後からの巡回でも、私は九条さんと目を合わせないようにした。彼は相変わらず、堂島さんの話を聞くときのような表情を見せることはない。私に対しては、いつも通りに、遠くを見つめるような冷めた視線を向けるだけだ。その落差に、胸の奥がチリチリと焼けるような感覚を覚える。私は、自分がいかに彼という人間の深淵に魅せられ、同時に恐れているのかを認めざるを得なかった。私たちは、互いの檻の中から、ただ遠くを眺めているだけの存在なのだ。


 夜の帳が降りる頃、私は再び彼の病室を通りかかった。明かりはすでに消されており、部屋からは規則正しい寝息が聞こえてくる。私はそのドアの向こうにいるであろう彼の寝顔を想像した。笑っているのだろうか、また何かを失う夢を見ているのだろうか。明日になればまた、元通りの無表情で隠されてしまう真実なのだろう。そう思うと同時に、また明日になれば彼に会えるという事実に、少しだけ救われている自分がいた。


 私は、どこへ向かっているのだろう。この先、この特別室での日々が終わりを告げた時、私は何を残すのだろうか。それは、誰にも見られない、名前のない物語のようなものかもしれない。

 

 私は、自分が檻の中にいることを、また思い出す。この檻は、以前ほど硬くはないのかもしれない。あの笑い声が残したわずかな熱が、私の心に、これまでになかった新しい感情を灯している。私は、その感情の正体を突き止めるのが怖い。それを無視することも、もうできそうになかった。


 看護師として、私は、ただの道具でありたいと願っていた。誰の人生にも影響を与えず、誰からも必要とされない、効率的で無機質な道具。あの笑顔が、道具であるはずの私に、”人間”であることを思い出させようとしている。それが、私にとって最大の試練なのかもしれない。

 

 私は、また自分の心を冷やし、明日の巡回に備えることにした。どんな表情をして彼と向き合うべきか、そんな問いの答えなど、私には一生見つからない気がする。明日もまた、私は特別室のドアを開ける。その一歩先には、私がまだ知らない、新しい彼が待っているかもしれないと期待しながら。


 

 病院という場所の意味を考える。ここは、人が生まれ、そして死んでいく場所だ。その繰り返される日常の中で、私はいつも、傍観者でありたいと願ってきた。感情を排除し、事実だけを記録し、淡々と業務をこなす。そんな自分でありたかった。

 

 彼と出会ってから、私の日常は少しずつ崩れ始めている。彼は、私の心の奥底に眠っていた、誰かを救いたいという、青臭い感情を呼び起こしている。その感情が、私を苦しめる。同時に私を生きている実感をさせてくれる。


 私に、明日という日がどんな顔をして待っているのか、それは誰にも分からない。私は、ただ看護師としての自分を信じ、また一歩、彼の方へ歩み寄る。彼が、自分を定義していた過去を捨て、新しい何者かになるまで。

 

 あるいは、この病院から消えていく日まで。私は、彼の傍らに立ち続ける。それが、私の今の全てだ。私は、窓の外を眺め、新しい空を待つ。明日は、どんな一日が待っているのだろう。私は、自分の心に嘘をつき続けながら、また新しい朝を迎える。


 

 看護師として、私は、誰の人生にも影響を与えないことを目標にしてきた。今、私は確実に誰かの人生の一部になろうとしている。彼が、私の日常を壊し、私の心に新しい風を吹き込んでいる。それは、私にとっての救いであり、同時に最大の罰なのかもしれない。そんな彼に、どう向き合えばいいのか。明日もまた、私は特別室のドアを開ける。その先には、彼がいて、私がいる。それだけで、十分なのかもしれない。そう思うことで、今の自分を受け入れようとする。


 誰の人生にも関わらず、ただ通り過ぎるだけの存在。それが私であり、これからもそうあり続けるのだろうと思っていた。今、私は、彼という新しい存在と向き合うことで、自分が何者であるかを、見つけようとしている。それは、長く苦しい旅になるだろう。私は後悔しない。この特別室での時間は、私という看護師の人生において、最も輝かしい、脆い記憶として、永遠に残るだろうから。私は、自分の心に刻まれたあの笑い声を、一生忘れないだろう。


 彼が堂島さんと話している時のあの顔は、私には一生見せることがない表情なのだろうか?

 それとも、私の歩み寄り次第で、いつか私にも見せてくれるようになるのだろうか?

 

 そんな期待を抱くことさえ、私という看護師には許されないことだと分かっている。私は彼を知りたいと思う。彼の過去、彼の情熱、そして彼が失った、あの未来のことを。そんな私の好奇心は、看護師としての倫理を逸脱しているのかもしれない。それでも止められない何かが、私の心の中でうごめいている。


 

 私は、ナースステーションで、彼に関する記録を読み返す。事故前の彼の履歴は、非常に優秀で、多くのプロジェクトを成功させてきた。彼が失ったのは、単なる仕事ではなく、彼自身の一部だったのだ。それを知りながら、私は彼に対してどんな顔をすればいいのか。励ますことなどできない。ただ、そこにいること。それが、私が彼に差し出せる唯一の救いなのだ。

 

 自分に言い聞かせることで、私はまた、自分の心を落ち着かせようと努める。それは逃げではないだろうか。本当は、彼と対峙し、彼が抱える絶望を、共有するべきではないのか。


 そんな葛藤を抱えながら、夜は更けていく。明日の朝、彼がどんな顔で私を見るのか、それは誰にも分からない。私にできるのは、ただの看護師として、彼の傍らに立つことだけだ。彼が私のことをどう思っていようと、それは私には関係のないこと。そう思わなければ、私は崩れてしまう。私は、自分の中に作った檻を、さらに強固に締め直す。誰にも踏み込ませず、誰にも壊させない。私の心は、誰にも渡さない。誓うはずだったのに、なぜか今、私の心は、彼のことばかりで埋め尽くされている。


 私という存在は、一体何なのだろう。誰かの痛みを受け止め、自分を殺して、毎日をやり過ごすだけの、無機質な影。それだけで一生を終えるのだとしても、私は後悔しないだろう。あの笑い声の記憶を頼りに、私は新しい自分を探しに行くべきなのだろうか。その答えは、まだ見つからない。私はこの病院という場所で、これからも生きていく。彼が、自分自身を取り戻すその時まで。そして、私もまた、自分自身の檻から抜け出せる時を夢見て。明日という日が、私たちに何をもたらすのか。窓の外を眺めながら、そんな不確かな未来に思いを馳せるしかなかった。

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