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<全話投稿> 一ノ瀬玲は、恋をしない ~触れない看護師と、壊れた彼の特別室~  作者: 第三ひよこ丸
第1章:白い檻のはじまり

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第05話 消える仕事

 昼の巡回時、病室へ足を運ぶと、そこには妙な静けさが漂っていた。いつものように窓の外を眺めている姿はなく、彼はベッドに横たわったまま、枕元に置かれたスマートフォンの画面をぼんやりと見つめている。部屋の中に、機械的な音声だけが一定のテンポで響いていた。スマートフォンの読み上げ機能が、無機質なトーンで次々と残酷な現実を告げている。


 「契約終了のお知らせ。……案件の継続困難につき、担当変更を依頼する。今後のプロジェクト参画については……」


 次々と流れていくのは、彼がこれまで命を削って積み上げてきた仕事の終焉のようだった。その音声は、まるで彼の存在価値を一つずつ消し去っていくカウントダウンのように聞こえる。私は扉の前で思わず立ち止まってしまった。このまま中に入って声をかけるべきなのか、それとも彼が一人でその事実を受け入れるまで待つべきなのか。聞いてはいけないはずの言葉が、私の耳を容赦なく叩いてくる。


 九条さんは、天井の白いクロスを虚ろな瞳で見つめていた。その口元はわずかに吊り上がっており、笑っているようにも見えるが、その瞳には何の光も宿っていない。ただの肉片が形を作っているだけの、抜け殻のような表情だった。私はトレイを抱え直し、ゆっくりと中へ足を踏み入れる。


 「九条様、お昼の時間です」


 彼は私の声に反応せず、そのまま天井を見つめたままだ。読み上げ機能は止まらない。私は食事をサイドテーブルに置き、彼の顔色を伺う。


 「食欲はありませんか? 少しでも食べないと体力が戻りません。今日は温かいスープも用意したのですが」


 彼はようやく視線を私へと向けた。その瞳は、昨日までの拒絶とは違う、どこか遠い場所を見ているような色だった。


 「戻る場所、なくなったんで」


 その言葉は、あまりにも淡々と発せられた。自分の人生を奪われたのと同じことだと、彼は分かっているはずだ。私は言葉に詰まり、トレイの端を指で強く握りしめる。


 「……それは、会社との契約のお話ですか?」


 「ええ。代わりはいくらでもいる、と。まあ、当然の判断でしょう」


 彼は自嘲気味に口角を動かす。私は何も返せなかった。その言葉が、私の心に思った以上に深く食い込んできたからだ。彼にとって、仕事はただの稼ぎ手段ではなかったはずだ。自分を証明し、自分という人間を形作る唯一の場所。そこを失うことは、彼自身がこの世界から消えていくことと同じ意味を持つ。


 「代わりなんて、いません。九条様が積み上げてきたものは、そんな簡単に消えたりしません」


 私が必死にそう言うと、彼は鼻で笑った。


 「あんたに何が分かる。プログラムは書かなければ忘れるし、プロジェクトは進まなければ意味がない。俺がここで指も動かさずにいる間にも、世界は俺抜きで回り続けているんだよ!」


 その言葉の重みに、私はぐうの音も出ない。彼の人生そのものが崩壊しようとしているのに、私はただ、点滴の速度や食事の内容を記録することしかできない。


 「……でも、今は体を治すことが最優先です。もし戻れる場所がないなら、戻れる場所をまた作ればいい。ゼロになったって、またやり直せるはずです」


 「やり直す? この両腕で? あんた、本気で言っているのか? フリーのエンジニアはな、信用がすべてなんだよ! 長期離脱者に、次なんてあるわけないだろっ!」


 彼は怒りを露わにし、ベッドの柵をわずかに動かそうとする。ギプスの当たる鈍い音が、苛立ちを伝えていた。


 「……すいません。軽はずみなことを言いました」


 私はトレイを置いたまま、俯くしかない。彼はため息をつき、再びスマートフォンを操作した。


 「……食べませんよ。片付けてくれ」


 私は何も言えず、トレイを置いたまま立ち尽くす。看護師としての業務は、彼を励まし、食事を摂るよう促すことだ。でも、今の彼にどんな言葉をかけても、それは薄っぺらな慰めにしかならないだろう。私は自分の看護という仕事が、なんと無力なものかと思い知らされる。


 「……スープだけでも。一時間後にまた来ますから」


 「無駄だと言っているだろう。俺のことは放っておいてくれ」


 私は病室を後にした。廊下に出ると、病院の明るい光が余計に眩しく感じる。私はナースステーションへ向かう足取りを重くしながら、自分の心の中にある檻をもう一度確認する。もし、私自身の日常から仕事という拠り所が消えたら、私はどうなるだろう。誰かに必要とされず、何者にもなれず、ただ病院という箱の中に閉じ込められているだけの自分。そう考えただけで、寒気がした。


 

 ステーションに戻っても、私はしばらくの間、椅子から動けなかった。彼は、自分の人生の全てを失った。それなのに、今の私には彼に差し出せる言葉が一つもない。彼がこれまでの日々をかけて作り上げてきたものが、一瞬でゼロになったという事実。私たちが看護師として見ているのは、あくまで肉体の回復だけで、その人がこれまで抱えてきた歴史や、守り続けてきたアイデンティティまでは守れないのだと痛感してしまう。


 「一ノ瀬さん、どうしたの? 九条様の食事、ほとんど手をつけてなかったわよ」


 先輩看護師が心配そうに声をかけてくる。私は顔を上げ、努めて平坦な声で答えた。


 「……少し、気分が優れないようです。様子を見てまた促してみます」


 「そうね。あの人の状況を考えれば、無理もないわ。あまり根を詰めすぎないでね」


 彼女の優しさが、今は余計に胸を締め付ける。私の頭の中は、あの無機質な読み上げの声と、彼の「戻る場所がない」という言葉で埋め尽くされている。

 

 私は、どうすればいいのだろう。看護師としての役割を演じ続けることが、彼を救うことになるとは限らない。そうして、私はまた自分の仮面を強く締め直した。誰にも踏み込ませず、誰の心も覗かない。そう決めていたはずなのに、今、私は激しく動揺している。彼を支えたいという思いと、自分を守りたいという思いが、自分の中でせめぎ合っているのだ。


 

 夕方になり、窓の外が青みを帯びていく。私はもう一度、特別室へ向かう準備をした。冷めた食事を片付け、また夜の訪れを告げるために。その時、彼がどんな顔をしているのか、今は想像することさえ怖い。でも、行かなくてはならない。それが、私の選んだ場所なのだから。

 

 私は、自分の感情を奥底に沈め、またいつもの無機質な笑顔を浮かべて歩き出した。誰の人生にも関わらず、ただ通り過ぎるだけの存在。それが私であり、これからもそうあり続けるのだろうと、自分に言い聞かせながら。


 病院という場所は、人生の終着駅ではないけれど、人生の転換点になる場所だ。彼にとって、この事故は単なる不幸ではなく、自分を定義してきた全てとの絶縁だったのかもしれない。

 

 私は彼の横顔を思い浮かべる。あの時、天井を見つめていた彼の目には、未来に対する絶望だけではなく、何かが終わったことへの静かな諦めのようなものがあった。

 

 私は、誰かと繋がることを恐れ、誰かと深い関係になることを避けてきた。そうすることでしか、自分のアイデンティティを守れなかった。けれど、彼が今感じている喪失感は、そんな臆病な私の想像を遥かに超えた場所にあるのだろう。


 私は、彼の傍らに立つ時、何を差し出せばいいのだろう。言葉? 時間? あるいはただの沈黙?。

 看護師という肩書きだけでは、彼が抱える深い闇を埋めることはできない。それでも、私は明日も彼の元へ行く。彼が、自分自身を少しずつ取り戻していくその過程を、ただ黙って見守るために。それが、私という看護師にできる、唯一の、そして最も残酷な優しさかもしれない。私は、自分の胸の奥にある、名前のない感情を飲み込み、今日もまた誰かのために歩き続ける。


 

 夜の巡回時、再び彼の病室を訪れた。部屋の中は暗く、彼は静かに横たわっている。私は、彼が眠っていることを確認し、そっとベッドサイドのゴミ箱を整理した。そこには、読み上げ機能が告げたような、仕事関連の書類の残骸がいくつか捨てられている。私は、それらをまとめて、そっと片付けた。彼の過去の痕跡が、ゴミとして処理されていく。そんな現実を前に、私は息を飲む。この病院という場所は、多くの人生が交差し、そして消えていく場所だ。私は、その消えていく人たちの記録を、毎日打ち込んでいる。それだけで、私の存在意義は足りているのだろうか。


 誰にも知られず、誰の記憶にも残らない。そんな日々を積み重ねていくことが、私の平和なのだ。私は、そう自分を騙し続けている。でも、彼を見ていれば、その平和がいかに脆いものか、痛いほど分かる。私たちを繋いでいるのは、病院という場所と、看護師と患者という肩書きだけだ。それなのに、なぜか彼と私は、どこか深いところで繋がっているような気がする。この感情を、私は何と呼べばいいのだろう。それは、友情なのか、同情なのか、あるいはただの共有された絶望なのか。私には分からない。ただ、この特別室で過ごす時間は、私の平穏を少しずつ変質させている。


 翌日の朝、また私は彼の元を訪れる。彼が、自分を定義していた過去を捨て、新しい何者かになるまで。あるいは、この病院から消えていく日まで。私は、彼の傍らに立ち続ける。それが、私の今の全てだ。

 私は、窓の外を眺め、新しい空を待つ。明日は、どんな一日が待っているのだろう。私は、自分の心に嘘をつき続けながら、また新しい朝を迎える。それが、看護師という檻の中で生きる私の、唯一の誠実さなのだと信じて。

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