第04話 第一回手術
手術の当日は、病院特有の忙しなさが一層強まっている。
朝から複数の検査や術前処置に追われ、九条さんの姿は午前中にはもう私の視界から消えていた。手術室へ運ばれる彼の表情は、相変わらず張り詰めた硬さを湛えていたけれど、その瞳の奥には少しだけ、避けられない運命を受け入れるような諦めが混じっているように見えた。
私はその背中を廊下の角で見送り、自分の持ち場へと戻る。麻酔が切れるまでの数時間は、彼にとって長く苦しい時間になるはずだ。それでも、私には何もできない。ただ淡々と業務をこなし、彼が戻ってくるのを待つだけである。
病棟の空気が落ち着きを取り戻し、夜の静けさが廊下を覆い始めた頃だった。ナースステーションのカウンターに置いてあるモニターから、特定の部屋を示す電子音が響く。
特別室からの呼び出しだ。私はカルテを手に取り、足早に廊下を進む。扉を開けて室内に入ると、薄暗い照明の中で九条さんが苦しそうに肩を上下させていた。彼の顔色は青白く、額にはびっしょりと冷や汗が浮かんでいる。昼間のような刺々しさは消え去り、ただ痛みと戦う一人の人間としての弱さが、そこにはあった。
麻酔が切れるとともに、患部を焼くような猛烈な痛みが彼を襲っていることは一目瞭然だった。身体を強張らせ、奥歯を噛みしめるその姿は、痛みを外に出さないように必死で耐えている証拠だ。私は彼の手を握らず、あくまで業務としてシーツの状態を確認する。
「九条様、痛いですよね」
私がそう問いかけると、彼は驚いたように目を見開いた。痛みを隠そうとしていた彼にとって、私の言葉は不意を突くものだったのだろう。「大丈夫、です」と掠れた声で無理に微笑もうとするが、その強張った表情が痛みの深刻さを物語っている。
「術後ですから、痛みがあるのは当然です。無理をすると回復が遅れますから、我慢しないで教えてくださいね。痛みを伝えることは、わがままではなく治癒のための重要なプロセスなんですから」
私は彼が『迷惑をかけたくない』という思いを抱えていることを察し、看護師としての確固たる意志を込めて告げる。
痛みを我慢して頑張ることは決して美徳ではない。あなたの回復が何よりも優先されるべき目的であり、そのために私たちがここにいるのだ。何かあれば迷わずナースコールを押すこと。それが、患者としてあなたができる最も正しい選択なのだと。
彼が私の言葉を反芻するように静かになったのを確認し、私はすぐさま医師へ連絡を入れた。術後の経過と患者の様子を正確に伝え、先回りしたアセスメントとして鎮痛剤の使用を提案する。
「医師に伝えてきます。予定通り鎮痛剤を使用しましょう。少しでも楽になるはずですから」
医療者が最も恐れるのは、患者が痛みを隠したまま疲弊し、心身ともに消耗してしまうことだ。
私は処置の合間に、彼の手元にあるナースコールをそっと枕元へ近づけた。その後、枕の位置を数センチだけ調整し、血圧計の数値を読み取る。点滴のチューブにねじれがないかを確認し、ガーゼで彼の額の汗を丁寧に拭き取る。無駄な会話はせず、ただ必要なことだけを積み重ねる。そうすることで、彼の焦燥を少しでもなだめることができるからだ。
数分間、私は彼の傍らでじっと動きを見守った。やがて荒かった呼吸が少しずつ落ち着き、彼が目元を軽く動かす。薬が効いてきたのか、痛みの波が少し引いたのかもしれない。私は一通り必要な処置を終え、立ち上がった。
「これでしばらく様子を見てください。何かあったらすぐにナースコールを」
部屋を出ようとした、その時だった。彼は顔を背けたまま、かすれた声で呟いた。
「……ありがとうございます」
私はその言葉に、一瞬だけ足を止める。あれほど頑なだった彼が、弱っているとはいえ素直に感謝を口にする。ちゃんとお礼を言える人なんだ、という当たり前の事実に、私は驚きを感じる。
彼はきっと、これまで自分の力だけで全てを完結させ、他者に頼ることを避けて生きてきたのだろう。だからこそ、自分の限界を突きつけられたこの瞬間に、自分以外の何かに触れたのかもしれない。私は小さく一礼し、何も言わずに病室を出た。
翌朝、ナースステーションで申し送りを聞きながら、私は今日の巡回スケジュールを確認していた。あの夜の感謝の言葉が、何かのきっかけになるかもしれないと、少しだけ期待していた自分に気づく。だが、私の期待は裏切られた。
扉を開けて中に入ると、そこにはいつもの九条さんがいた。窓の外の海を鋭い目つきで睨みつけ、私の挨拶に対しても無言で頷くのみ。まるで、昨夜の弱音や感謝の言葉など、最初から存在しなかったかのような態度だ。あの夜の彼は夢だったのではないかと思うほど、以前の空気感が部屋全体に戻っている。
私は気にするふりもせず、事務的に検温と血圧測定を済ませる。彼の身体は昨日よりも少しだけ血色が戻っており、順調な回復を感じさせる。それなのに、私たちの間にある心の距離は、昨日よりもさらに広がっているような気がしてならない。
彼は、自分が弱さを見せたことを恥じているのだろうか。他人に依存する自分を許せず、再び鎧を纏うことで均衡を保とうとしているのかもしれない。
私は、そんな彼の心理を推し量るような真似はしない。看護師として、彼の健康を見守るのが私の役目だ。そこに個人的な感情を持ち込むことは、私自身を守るためにも避けるべきだ。
昼食の時間になると、私は再び彼の元を訪れた。彼はまだ食事を自分で摂ることはできないため、私が介助を行う必要がある。昨日までは拒絶気味だった介助にも、彼は今日は無言で従った。ただ、その表情は能面のように無機質で、何を考えているのかを一切読み取らせない。
私はスプーンにのせた粥をゆっくりと口元へ運ぶ。咀嚼するたびに喉が上下する様子を、ただ視界の端に収める。この時間は、私にとって最も緊張を強いられる。彼の存在を意識しすぎないよう、私は自分の呼吸を制御することに必死だった。
「……味は、どうですか?」
思わず口から出た言葉に、自分でも驚く。食事の感想など、看護師として必要のない会話だ。九条さんはゆっくりと口を開き、スプーンを受け取った後に言った。
「悪くない。……昨日よりは、マシだ」
短い言葉だった。でも、それは彼なりに私を認めたという証なのかもしれない。私はそれ以上何も聞かず、残りの食事をすべて食べさせた。彼が食事を終えると、私はすぐに食器を下げて部屋を出る。廊下を歩きながら、私は自分の胸の鼓動が少し速いことに気づく。彼とのわずかなやり取りが、私の中にある壁に、小さなひび割れを入れている気がした。
午後の巡回は、他の患者たちの対応で慌ただしく過ぎていった。神戸の街には夕暮れが近づき、窓の外の空が鮮やかな茜色に染まり始めている。私はナースステーションに戻り、記録を打ち込みながら一息つく。
同僚の看護師が、私の様子を不思議そうに見てくる。私はいつもの無機質な笑顔を浮かべ、忙しいふりをしてその視線から逃げた。誰かに自分をさらけ出すことは、私にとって最も恐ろしいことだ。でも、今の私の心の中には、昨夜の彼の「ありがとう」が、いつまでも消えずに残っている。
夜、私は一人で当直室へ向かう。静かな廊下を歩いていると、自分の足音だけが壁に反響して帰ってくる。この感覚は、私自身が檻の中にいることを、改めて実感させる。誰かに必要とされることを拒み、自分が必要とすることを遠ざける。それが、これまでの私の生き方だった。でも、もしその檻が壊れてしまったら、私はどうなるのだろう。そんなことを考えるのは、今の私にはまだ早すぎるのかもしれない。
明日はまた、彼の手術後の経過を確認し、リハビリの説明をする必要がある。彼が少しずつ回復していくにつれ、私たちは以前よりも少しだけ言葉を交わすようになるのだろうか? それとも、彼はまた自分だけの殻の中に閉じこもってしまうのだろうか?
私には分からない。ただ、一つだけ確かなことは、彼と私の間にあるこの歪な距離感は、今この瞬間も確実に変化し続けているということだ。私は、自分の感情に蓋をして、また新しい一日を待つことにした。それが、看護師としての私にできる、唯一の誠実な距離なのだから。
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