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<全話投稿> 一ノ瀬玲は、恋をしない ~触れない看護師と、壊れた彼の特別室~  作者: 第三ひよこ丸
第1章:白い檻のはじまり

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第03話 最悪の第一印象

 正式に担当として受け持ち、翌日の朝を迎えた。私はいつものように病室へ入り、日課となった確認作業を始める。電子カルテの画面を見つめながら、私は事務的な口調で彼に問いかけた。


 「痛みはどうですか? 吐き気はありませんか?」


 彼は窓の外へ視線を向けたまま、短く頷くだけだ。返事は必要最低限。私との間に言葉のやり取りを求めていないのが、痛いほど伝わってくる。私はトレイに置いたコップを手に取り、彼に水を飲ませようと歩み寄った。


 すると、彼は私の手からコップを奪うように、力なく動かそうとする。


 「……自分でやります」


 その言葉は、彼なりの精一杯の抵抗だった。他人の介助を拒むことで、自分の中にある自立という最後のプライドを繋ぎ止めようとしているのだろう。でも、その無理な動作によって、彼の身体はすぐにバランスを失い、ベッドの上で崩れそうになる。私は反射的に彼の上体を支え、コップを取り上げた。


 「今は無理です。まだ腕に負担をかけるべきではありません」


 その瞬間、九条さんの顔が明らかに歪む。痛みのせいではない。もっと別の、内側からせり上がってくるような屈辱の色が、彼の瞳に浮かんでいる。彼は荒い息を吐きながら、私を睨みつけてくる。


 「……分かってます。できないのくらい、俺が一番よく分かってる」


 その言葉には、自分自身に対する激しい嫌悪が混じっている。

 空気が止まる。

 病室内の時間が、一瞬だけ硬質に凍りついたかのように錯覚してしまう。

 私は何も言えなかった。ただ、彼を支えていた手から力を抜き、ゆっくりと彼を寝かせることしかできない。

 何か間違えたのだろうか。私の対応には、看護師として教わった通りの手順しかなかった。だけど、何が悪かったのか、今の私には全く分からなかった。


 彼の中に渦巻くこの感情は、ただの苛立ちではない。これまで自分の力だけで問題を解決し、誰にも頼らずに生きてきた男が、突然その手段を奪われたときに見せる、むき出しの恐怖だと。

 

 私は、その恐怖を正面から見てしまった気がした。彼は自分が自分でなくなること、他者の介入によって自分の領域を侵されることを、何よりも恐れている。

 

 私にとっての生存戦略が自分を檻に閉じ込めることなら、彼にとってのそれは、誰にも依存しないという強い意志を突き通すことなのかもしれない。


 「……すみません。無理をさせました」


 私は謝罪の言葉を口にしたけれど、それは彼を納得させるためのものではない。私自身が、この場をやり過ごすために選んだ安易な手段にしか過ぎない。

 

 彼は視線を天井に向けたまま、再び何も言わなくなった。彼が何を考えているのか、今の私には想像がつかない。

 

 ただ、彼にとって私が、自分の無力さを突きつけてくる敵のように映っていることだけは確かだ。私はコップを元の場所に戻し、ナースステーションへ戻るための準備を整える。廊下へと出るための扉が、背後で静かに閉まる音がした。


 

 ナースステーションへ戻りながら、私は先ほどの彼の表情を脳内で反芻する。なぜあんなにも傷ついた顔をしたのだろう。ただ、水を飲ませようとしただけなのに。私は看護師として、正しい処置をしたはずだ。それなのに、胸の奥には何かがひっかかったまま消えない。この違和感こそが、彼が私に突きつけた”壁”の正体なのだろうか。


 病院の中には、様々な形の絶望が転がっている。昨日までできていたことが、今日からできなくなる。そんな喪失感を、私はこれまで何度も見てきた。しかし、彼が見せる拒絶は、それらとは少し違う質感を持っている。それは、彼自身の存在そのものを守るための、最後の砦なのだ。私は、その砦を壊そうとしているのかもしれない。無意識のうちに、私の日常的な看護が、彼のプライドという土台を削り取っているのかもしれない。


 私は、記録用のパソコンに向かい、キーボードを叩く。彼とのやり取りを短く記すが、どうしても手が止まってしまう。

 

 今の私は、彼に対してどう接するべきなのだろう。事務的に振る舞えば振る舞うほど、彼は傷つき、私を敵だと認識する。かといって、親身に寄り添えば、私の中に眠る罪悪感が目を覚まし、私自身の平穏を脅かすことになる。私は、看護師という職業を選んだとき、こうした葛藤をすべて切り離したはずだった。


 ふと、窓の外を見ると、神戸の空は今日も青い。その青さは、誰の心にも寄り添うことなく、ただそこにある。私もまた、そんな存在でありたかった。誰かの人生に関わりながら、自分自身は決して変質しない。そんな理想を、私はいつの間にか追いかけていたのかもしれない。

 

 だが、彼は違う。彼は、自分という存在が変質していくことに、誰よりも敏感に反応している。


 

 ナースコールが鳴る。誰かが、私を呼んでいる。私は深呼吸をして、表情を整え、また、いつもの人形に戻る時間だ。次の患者の元へ向かい、私はただの看護師としての役割を演じきらなければならない。それが、今の私にできる唯一の誠実さなのだと、自分に言い聞かせながら。

 

 この特別室での日々は、まだ始まったばかりだ。彼がこの先、自分の無力さとどう向き合っていくのか。私は、看護師という特権を利用して、その結末を見届けることになるのだろう。



 彼の言葉が耳から離れない。『分かってます。できないのくらい』。その言葉には、自分への訣別のようにも聞こえた。

 

 彼は、自分の能力を頼りに生きてきた人間だ。他者に頼ることは、自分のアイデンティティを否定することに等しい。私の看護は、そのアイデンティティを、知らず知らずのうちに踏みにじっているのではないか。そう考えると、急に足元が不安定になったような感覚に襲われる。私は、正しい看護をしているつもりだった。だがしかし、その”正しさ”が、彼にとっては残酷な暴力になっているとしたら。


 看護師として働くことは、誰かを救うことだと信じている。あるいは、誰かの平穏に貢献することだと。その信念が、今、根底から揺らぎ始めている。

 

 私は、彼を支えたいのか、それとも自分の業務を完遂したいだけなのか。その境界線さえ、今の私には曖昧だ。

 

 私は、自分の感情を凍らせることで、この仕事と向き合ってきた。感情を持たなければ、誰かを傷つけることもない。誰の平穏を壊すこともない。そうやって、自分を守ってきた。だが、それは本当に平穏だったのだろうか。ただの、感情の抜け殻になっていただけではないだろうか。


 特別室の彼と私。


 二人は、鏡合わせのようにして向き合っている。彼は他者との接触を拒むことで、私は自分との接触を拒むことで、それぞれが独立した檻の中にいる。

 

 その二つの檻が、偶然にも隣り合わせになっただけだ。それなのに、私はなぜか、その壁を突き破りたいという衝動を感じてしまう。

 

 そんな自分を、私は必死に抑え込む。ここで扉を開けてはならない。もし開けてしまえば、その先にあるのは、私が最も恐れている、『誰かの中心で、何かを壊してしまう』という経験の繰り返しなのだから。


 私は、自分が抱えるこの臆病さを、彼に悟られたくない。だからこそ、私は余計に冷たい仮面を被る。事務的に、効率的に、そして無機質に。

 

 そうすることでしか、私は自分を保てないのだ。彼は、私のそんな態度を見抜いているのかもしれない。だからこそ、彼は私を敵だと感じ、攻撃的な態度をとる。私と同じような傷を持つ者同士が、互いの傷を刺激し合っている。そんな滑稽な状況に、私は自分でも呆れてしまう。私たちは、病院という檻の中で、ただ互いを拒絶し合うためだけの存在なのだろうか。


 そんなことを考えていると、ナースステーションの電話が鳴った。受話器を取ると、特別室からのコールだった。

 

 私は、心臓が跳ね上がるのを感じる。また、何か起きたのだろうか? それとも、彼はまた私に、自分の無力を突きつけてくるのだろうか?

 

 私は、逃げ出したい衝動を抑え、電話を切る。そして、再び特別室へと向かう。扉の向こうには、彼がいる。私は、自分を檻の中に閉じ込め、また、彼という名の鏡と対峙する準備を整える。


 これが、私の看護師としての日常なのだ。誰かの痛みを受け止め、自分の中にある痛みと重ね合わせ、それでも何も言わずに立ち去る。それが、私の誠実さであり、私の限界なのだ。

 

 彼が何を求めているのかは分からない。私に何ができるのかも分からない。ただ、今この瞬間、私は彼の元へ行かなければならない。それが、私の役目なのだから。それが、看護師の役目なのだから。

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