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<全話投稿> 一ノ瀬玲は、恋をしない ~触れない看護師と、壊れた彼の特別室~  作者: 第三ひよこ丸
第1章:白い檻のはじまり

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第02話 謝罪する女

 午後になると、一人の女性が病室へやってきた。廊下に響くヒールの音は、まるで指揮者のタクトのように規則正しく、迷いのないリズムを刻んでいる。

 

 扉が開かれると同時に、病室の空気は一変した。一般病棟とは異なる、洗練された高級な香水の残り香が漂い、特別室の無機質な空間を埋め尽くす。

 

 オーダーメイドらしいスーツを着た、背筋の伸びた人だった。堂島貴代。事故の相手側の会社社長として、彼女は連日この場所を訪れている。その立ち居振る舞いには一切の無駄がなく、彼女が部屋に入ると、周囲の光景さえも彼女のために配置された背景のように見えてくる。


 私は点滴交換をしながら、できるだけ存在感を消していた。彼女たちの視界に入らないように、医療機器の数値を確認するふりをする。聞くつもりはなかった。でも病室は狭い。彼女たちの吐息や、僅かな衣擦れの音さえも、耳の奥へと入り込んでくる。


 堂島さんは、九条さんのベッドサイドで深く頭を下げた。


 「申し訳ありませんでした」


 その言葉は低く、そして驚くほど真っ直ぐに響いた。事故原因は専属運転手の居眠り運転。保険対応も法的手続きも進んでいるはずだ。でも堂島さんは毎日来ていた。九条さんは顔を背けたまま、冷たく言い放つ。


 「慰謝料も保険も出るんですよね。なら十分です。もう帰ってください」


 私は、九条さんが激昂するのではないかと思っていた。以前の経験からくる予測だった。予想に反して、どこか諦めたような、底の抜けた声だった。堂島さんは顔を上げないまま、静かに言葉を重ねる。


 「十分ではありません。あなたから日常を奪いました」


 長い沈黙が流れる。

 心電図モニターの電子音が、かえってこの沈黙を際立たせている。私は何となく思う。『この二人、なんだか変だ』と。

 

 九条さんは、まるで壊れた人形のような表情で天井を見つめている。堂島さんは、まるでお気に入りの道具を失った子供のような瞳で、九条さんを見つめている。彼女の眼差しには、謝罪という言葉だけでは括りきれない、もっと粘着質な何かが見えるようだ。


 「私の運転手の不手際で、あなたの人生を停滞させてしまいました。その責任を、私は最後まで果たすつもりです」


 九条さんはその言葉を、鼻で笑った。


 「責任だなんて、いい響きですね。結局は、会社を守るための儀式でしょう?」


 彼はギプスに覆われた腕を、不自由そうにベッドの上で動かした。その動作から伝わるのは、やり場のない苛立ちと、自分の尊厳を守ろうとする必死の抵抗に思える。堂島さんは、九条さんの棘のある言葉を正面から受け止め、眉一つ動かさない。


 「あなたがそう思うなら、それでも構いません。でも、私があなたを追いかけているのは、会社のためだけではないのです」


 その言葉は、まるで確信に満ちた宣告のように聞こえる。

 私は点滴の滴る速度を確認しながら、自分の呼吸を整える。この場にいることが、ひどく場違いに感じてしまった。

 

 本来、看護師である私は、患者の容態を見守ることが仕事だ。ここでは二人の間に漂う、奇妙な力関係に巻き込まれているような気がしてならない。

 堂島さんは、手にした鞄から名刺を取り出し、サイドテーブルの隅にそっと置いた。


 「また明日、来ます」


 「……何度来ても、無駄ですよ」


 九条さんはそう呟いたが、彼の声は先ほどよりもわずかに震えていた。堂島さんは満足したように口元を綻ばせ、一礼して去っていく。残されたのは、重苦しい余韻だけ。

 

 九条さんは再び視線を窓の外へ移し、海に浮かぶ貨物船を追っている。私は点滴のルートに異常がないことを確認すると、さりげなく言葉をかけた。


 「九条様、点滴の滴下速度を確認しました。気分が悪い時はすぐに教えてくださいね」


 彼は私の声に反応せず、ただ小さく頷くだけだった。窓の外は、夕暮れに染まりかけている。神戸の街が、少しずつ淡いオレンジ色に溶けていく。私は、この特別室の空気に馴染めない自分を感じていた。一般病棟の忙しなさとは違う、ここでは時間が止まっているような気がする。誰かが誰かの時間を奪い、誰かがそれを必死に取り戻そうとする。それは日常の風景でありながら、どこか歪なやり取りだ。私は自分のカルテを抱え直し、出口へ向かう。


 「……あの人、毎日来るんですか」


 九条さんの背中から、そんな独り言のような問いかけが聞こえた。私は一瞬だけ立ち止まり、背中越しに答える。


 「そうですね。九条様の担当医からも、特に面会をお断りする指示は出ていません」


 彼はそれ以上、何も言わなかった。私は扉を開け、廊下へ出ると冷たい空気が頬を撫でる。ナースステーションへ戻るまでの短い廊下で、私は深呼吸をした。自分の内側にある檻は、まだ閉じたままだ。誰かに必要とされることを拒み、誰かが必要とすることを遠ざける。そんな私が、この二人の歪な関係をどう見ていたのか。それは、私自身もよく分からない。明日もまた、この特別室には同じ空気が流れるのだろう。私は自分の足音を確かめながら、またいつもの表情を整えて歩き出す。



 堂島貴代という存在は、この病院の特別室という閉鎖空間において、最も異質な調和をもたらしている。彼女が纏うスーツの生地、漂う香水の香り、そして一切の迷いを感じさせない足取り。それら全てが、私の日常とは対極にある洗練を象徴していた。

 

 一方の九条さんは、事故による不自由さという枷をはめられ、世界との接続を拒んでいる。両者の対比は極端でありながら、なぜか磁石のように引き合っている。私はそれを、看護師という特権的な傍観者の立場から見つめている。

 

 それは安全地帯からの観察であり、同時に絶対に関与してはならない境界線でもある。もし私がこの二人の中に深く足を踏み入れれば、これまで必死に積み上げてきた私の何事もない日常は、一瞬で瓦解してしまうだろう。


 私はステーションへ戻り、再びカルテに目を落とす。九条さん、二十七歳。彼の情報は無機質な文字の羅列に過ぎないが、その背景には間違いなく血の通った生活があったはずだ。フリーランスのエンジニアとして、黙々とシステムと向き合い、エラーを一つずつ潰していく。そんな彼の日常に、突然の他者の介入が押し寄せている。それも、ただの介入ではない。生活の基盤そのものを揺るがすような、圧倒的な他者からの熱量だ。

 

 堂島貴代の献身は、彼にとって慈愛ではなく、侵略に近いのかもしれない。そう思えば、彼の頑なな拒絶も理解できるような気がした。


 

 夜勤の先輩が、私の様子を不思議そうに眺めている。私は意識的に表情を平坦に保ち、次の点滴準備に取り掛かった。誰かに何かを悟られることは、最も避けるべきことだ。

 

 私が抱えるこの歪な孤独と、彼らの関係の歪さが、もし混じり合ったとしたら。そんな恐ろしい想像を、私は速やかに頭の外へと放り出す。今はただ、医療従事者としての務めを果たす。それ以外の選択肢など、私には存在しないのだから。

 

 廊下の窓から見える神戸の夜景は、今日も無慈悲なまでに美しい。その光の海の中で、誰かが泣き、誰かが叫び、そして誰かがただ無言で耐えている。私もその中の一人だ。ただ、その泣き声を飲み込む術を知っているというだけの違いでしかない。


 明日の面会時間になれば、また彼女はやってくるだろう。同じ時間に、同じ場所に、そして同じ熱量を持って。

 

 そのとき、九条さんの仮面はどのような亀裂を見せるのか。私は看護師として、その亀裂の行く末をただ記録するだけだ。誰に感情を寄せることもなく、誰を救うこともない。ただそこにある現実を、あるがままに受け入れる。それが私の、この病院における唯一の誠実な距離感なのだ。


 私はステーションの照明を背に、また次の患者の部屋へと向かう。誰の人生にも関わらず、ただ通り過ぎるだけの存在。

 それが私の一ノ瀬玲なのだから。

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