第01話 静寂の特別室
ナースステーションの喧騒は、いつものように澱みなく続いている。モニターが刻む単調な電子音、絶え間なく鳴るナースコールの音、そして忙しなく行き交う看護師たちの足音が、狭い空間で混じり合っている。
「一ノ瀬さん、ちょっといいかしら」
看護師長の声に、私は手にしていた点滴の準備を止めて振り返った。師長は手元のタブレットから視線を外し、眼鏡の位置を直しながら私を見つめる。その表情には、普段の業務報告とは異なる、どこか注意深い色が浮かんでいた。
「最上階にある特別室の九条様だけど。担当者が急遽離脱することになって、あなたにお願いしたいのよ」
特別室。そう聞いた瞬間、私は無意識のうちに肩の力を抜いた。そこは一般病棟の活気とは無縁の、隔離された聖域である。多くの看護師がその独特の閉鎖性を敬遠する中、私にとってはむしろ好都合な場所だった。患者との深入りを避け、ただの医療行為に終始できる環境がそこにはあるからだ。
「わかりました。引き継ぎ資料を確認します」
「ええ、お願いするわね。……少しだけ、手強い相手かもしれないけれど」
師長が付け加えた言葉に、私はわずかな疑問を抱く。なぜ彼が「手強い」とされるのか。その理由は、彼が昨日、居眠り運転の車にはねられ、両腕を複雑骨折して緊急手術を受けた直後であるという事実だけではなかった。
「彼、昨夜の事故のショックで強い警戒心を抱いているの。特に、自分に関わろうとする女性に対して、過剰なまでに壁を作っているわ。何より、彼の容態と背景を考慮すると、精神的なケアが難しいのよ。だからこそ、感情をあまり表に出さず、淡々と業務をこなせるあなたに白羽の矢が立ったの」
師長はそう言って、私を真っ直ぐに見つめてきた。
そうか、私の無機質な態度が、ここでは適任として評価されているのだ。それは自分自身を檻に閉じ込めている私にとって、最も都合の良い評価だ。誰の平穏も壊さず、ただの医療従事者として存在し続ける。そう心の中で唱え、私は手元の処置具を確かめるために目を落とした。
私は手元に届いたばかりの電子カルテを開く。九条航平という名前を視界に入れ、私はいつもの仮面を被るように、表情から余計なものを削ぎ落としていく。ナースステーションの騒がしさを背に、私は最上階へのエレベーターへと向かう。そこから先は、私が最も望む、干渉も感情も存在しない場所だ。私はただ、看護師という役割を演じる人形のように、硬く、乾いた廊下を歩いていった。
特別室の扉は、他の部屋とは異なり、まるで銀行の金庫のような重厚な音を立てて閉まる。最上階の特別室は、私はあまり好きではない。同じ病院の中なのに空気が違う。一般病棟の慌ただしさはなく、ストレッチャーの音も看護師たちの声もここまで来る頃には遠くへ置いていかれる。あまりに音がなく、耳が圧迫されるような心地がするからだ。
私は電子カルテを確認する。九条航平、二十七歳。事故による両腕複雑骨折。三回の手術予定。長期入院。担当欄には自分の名前がある。これからの数ヶ月間、この閉ざされた空間で彼と向き合うのだ。
私は軽く息を吐いて病室へ入る。ノックをした指先に、消毒液の匂いが微かに残る。
最初に目に入ったのは窓だった。神戸の海が広がっている。空と海が混ざり合う境界線を、今日の風はどう動かしているのだろうか。その次にベッド。その次に患者。
第一印象は綺麗な人だった。男の人にそんなことを思うのは珍しい。整った眉や、少し伏せられた睫毛の影が、病室という無機質な場所で際立って見える。
ただ、その印象は視線が合った瞬間に消えた。冷たいというより、人を見ていない目である。私という存在を風景の一部として処理し、中身には一切の関心を寄せないような、無関心の膜。
「担当の一ノ瀬です」
「よろしくお願いします」
少し沈黙した後、「……よろしく」とだけ返ってきた。
でも視線は私じゃなく、また窓の向こうへ戻っていた。
私は思った。面倒そうな患者さん。その程度だった。他者の内側に踏み込むつもりはない。このまま業務として割り切り、淡々と日々の処置をこなしていけばいい。誰の平穏も壊さず、誰の心にも触れず、ただの医療従事者として存在し続ける。そう心の中で唱え、私は手元の処置具を確かめるために目を落とした。
私は、手元のカルテを胸元で揃え、九条航平のベッドサイドへ歩み寄った。
病室の床は磨き上げられ、靴音が響くのを拒むかのように静かだ。彼は両腕を真っ白なギプスに固められ、仰向けに横たわっている。その姿は痛々しいというよりも、どこか奇妙に完成された造形物のように見える。
事故の衝撃で損傷した身体。だが、彼はその痛みを外側には一切零さない。口を一文字に結び、窓の外の海面を射抜くような鋭い眼差しを向けている。
(この人は、痛みよりも屈辱を恐れているのかしら)
ふと、そんな推測が脳裏をよぎる。一般病棟で多くの患者と接してきた経験が、無意識に警鐘を鳴らす。看護師として私は、患者の身体的な苦痛を緩和することが使命だ。しかし、彼が纏っているこの硬質な拒絶は、身体の痛み以上に、心そのものを守ろうとする防衛本能に近い。
私はベッドの脇にあるサイドテーブルにカルテを置いた。わずかな金属音が、遮音性の高いこの部屋では不自然なほど大きく響く。彼はその音に眉をわずかに動かしたが、視線は動かさない。海の色は、時間とともに鈍い灰色から青みを増していく。
「九条様、術後の経過を確認するために、いくつか質問をさせていただきますね。痛みは、どのあたりが強く感じますか?」
できる限り事務的に、感情の起伏を排除した声色で尋ねる。親切心でも、同情でもない。これは業務であり、私の日常の一部に過ぎない。しかし、その言葉が耳に届いた途端、彼はゆっくりと、まるで錆びついた機械のように首を巡らせた。
「……痛み? そんなものは、どうでもいい」
喉の奥から絞り出されたような声。突き放すような口調だが、そこには彼自身の無力さに対する憤りが混じっていた。両腕が使えないという現実。それは、自立して生きてきた男にとって、自分という存在が損なわれていく恐怖に等しいのだろう。
私は表情を変えず、淡々と次の確認作業を進める。
「ですが、痛みは術後の回復を遅らせる要因になります。正確な状況を把握することが、私の担当です」
「あんたに、何がわかるんだ」
彼はそう言い捨てると、再び窓の外へ視線を戻す。その横顔には、他者に対する明確な敵意がある。これまで私が接してきた患者の多くは、苦痛の中にわずかな救いを求めてきた。しかし、彼が求めているのは救いではなく、誰にも触れさせないという明確な意思だ。
私はその敵意を、まるで道端の石ころを避けるように、自然な動作で受け流した。
(この人は、自分を傷つける人間を先回りして傷つけることで、身を守ろうとしているんだわ)
それは、私が看護学校で学んだ、自己防衛的な心理そのものである。
誰かに親しく接すれば、その人間関係の中心で私が歪みを生んでしまう。友人たちが大切にしていたものを、私の存在が崩壊させてしまう。だから私は、誰にも必要とされないよう、自分を檻の中に閉じ込めてきた。
(そうね、私とあなたは、似ているのかもしれない)
そんな思考が頭をよぎったが、すぐに打ち消す。同情は禁物だ。私が抱える罪悪感と、彼が抱えるプライドの残骸。それらを混同してはならない。私は看護師であり、彼は患者だ。その境界線を一ミリたりとも超えてはならない。
「……無理に話す必要はありません」
私はカルテに簡単な所見を書き込み、背筋を伸ばした。
「今は、身体を休めることが先決です。お水が必要なときは、ナースコールを押してください」
立ち去ろうとしたとき、彼がかすかに唇を動かしたのが見えた。何かを言おうとして、やめたようだ。そのわずかな躊躇に、私は振り返ることなく部屋を出る。扉が閉まる瞬間、背中に向けられた彼の視線が、どこか切実なものに変わった気がした。
特別室の廊下は、やはり静かだ。空調の微かな稼働音だけが、私の耳を支配している。ナースステーションへ戻るまでのこの短い道が、私にとっては唯一、自分を保てる場所だった。ナースステーションの喧騒の中に飛び込めば、私はまた看護師という仮面を被り、感情という毒を隠し通さなければならない。
(九条航平。あなたはこれから、この部屋でどれだけの時間を孤独に耐えるつもり?)
私には関係のないことだ。そう言い聞かせながら、私は次の業務のための準備を始めた。
病院という場所は、命のやり取りが行われる場所であると同時に、誰にも見られない死と再生が繰り返される場所でもある。
昨夜、居眠り運転の車のライトが彼の視界を奪い、両腕を砕いた。その事実は、彼の人生を真っ二つに分断したに違いない。
(私は、彼を見守るだけ。それが、私の役目)
心の中で、私は静かに檻の鍵を閉める。何事もなかったかのように、私は笑顔を貼り付け、次の患者の元へと歩き出した。窓の外に広がる神戸の港には、今日もまた船がゆっくりと入港してくる。日常は、何事もなかったかのように続いていく。それが、救いなのか、それとも呪いなのかは分からないまま。
私は、自分の歩調を乱さぬよう、慎重に廊下を進む。ふと、振り返りたくなった衝動を、私は指先で強く握りしめたカルテの角で抑え込む。まだ、物語は始まったばかりだ。彼がその頑なな心を解く日が来るのか、それとも私がこの檻から外へ出る日が来るのか。どちらにせよ、今夜はただ、静寂がすべてを包み込んでいればいい。
私はナースステーションへ戻り、師長からの引き継ぎ資料を整理する。明日も、私は彼の元を訪れる。同じ時刻に、同じ言葉で、同じ距離感を保って。それが、今の私に許された、唯一の誠実な距離なのだ。
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




