第07話 特別室
休憩室の窓から差し込む陽光が、湯気の立つマグカップを黄金色に染めていた。私は午後の短い休息を使い、ブラックコーヒーを飲んで喉を潤す。病院という場所は、常に誰かの話し声や、医療機器が刻むリズムに満ちている。私はコーヒーの苦味を楽しみながら、束の間の休息を味わおうとした。
その時、ドアの向こう側から、外科病棟以外の部署に属する看護師たちの楽しげな噂話が聞こえてくる。どうやら特別室の九条さんの話題で持ちきりのようだ。私はカップをテーブルに置き、耳を澄ますつもりはなかったけれど、自然と会話の内容が脳裏に滑り込んでくる。
「ねえ、特別室の九条様って、何者か知ってる? 毎日お見舞いに来る女性の装いが、もうため息が出るほど上等で」
「本当に。あんな高級そうな仕立てのスーツ、普通のお見舞い客じゃないわよね。あれだけ頻繁に通うなんて、間違いなく超VIPよ」
「すごいわよね。入院していても仕事が途切れないなんて、どんな世界にいる人なのかしら」
私はその声を遠くに聞きながら、ただ黙々とコーヒーを飲み続けた。外科病棟の事情を知らない彼女たちにとって、特別室に籠もる患者は謎めいた存在なのだろう。堂島さんの洗練された身なりを見れば、特別な関係を想像するのも無理はない。私は噂を耳に入れつつも、表情を崩さずに立ち上がった。次の巡回時間が迫っている。
廊下を歩いていると、昨日、私が非番で不在の間に代務に入った若い看護師とすれ違った。彼女は私を見るなり、心底うんざりしたような顔で溜息をつく。
「あ、一ノ瀬さん。昨日、特別室の九条様を担当したんですけど、あの人、本当に何なんですか?」
彼女は周囲を気にしながら、不満げに声を潜めた。
「検温に行っただけなのに、『看護師なら体温と血圧だけ測ってさっさと出て行け。俺の身分や仕事について詮索する権利はお前にはない』って。あんなに辛辣に注意されるなんて思いませんでした。一ノ瀬さん、よくあんな人と毎日接していられますね」
私は彼女の言葉を、一言一句聞き漏らさぬように受け止めた。昨日、私が休息をとっている間に何が起きたのか。九条さんという男が、私の不在の間に放った言葉の鋭さが、胸の奥に冷たく刺さる。
私は足を止め、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。そこには、純粋な好奇心と、拒絶されたことへの小さな傷心が混ざっている。
「あのね、彼がそう言ったのは、あなたを傷つけたいからじゃないと思うわ」
私の言葉に、彼女はきょとんとした表情を浮かべた。私は努めて穏やかに、言葉を選びながら説いた。
「看護師として、私たちは病を管理することはあっても、その人の人生そのものに踏み込む権利はないはずよ。昨日、彼が言ったのは、自分を守るための、彼なりの精一杯の拒絶だったんじゃないかしら」
「でも、あんな言い方……」
「そうね、確かに言葉は棘がある。でも、私たちが求められているのは、噂話の種を探すことじゃなくて、彼が少しでも心穏やかに療養できる環境を作ること。それが、私たちのプロとしての境界線だと思わない?」
彼女はしばらくの間、私の言葉の意味を反芻するように黙り込んでいた。やがて、わずかに肩の力が抜け、小さく頷く。
「そうですね。私が少し、仕事の範疇を越えて興味本位だったかもしれません。反省します」
彼女は少しだけ表情を和らげ、決意したように顔を上げた。
「私、やっぱり失礼なことを聞いてしまったと反省しています。今から謝罪に行ってきます。彼に誤解を解いてもらわないと、気が済まなくて」
私はすぐさま首を横に振った。彼女の誠実さは分かるけれど、今の九条さんにそれを受け止める余裕はない。
「それはやめておきなさい」
私の強い口調に、彼女は驚いて目を丸くする。
「でも、謝らないと……」
「彼にとって、昨日のことはもう終わった出来事よ。今更、謝罪に行けば、彼はまた自分を追い詰めている相手と対峙しなければならなくなる。彼が望んでいるのは、誰も自分の人生に触れない、静かな時間よ。あなたが謝りたいのは、彼のため? それとも、自分の罪悪感を消すため?」
彼女は言葉に詰まり、唇を噛んだ。それは、彼女にとっても痛い指摘だったはずだ。私は彼女の肩を、一度だけ優しく叩く。
「謝らなくていいの。その代わりに、次からはただの看護師として、淡々と、でも誠実に接してあげて。それが、一番の思いやりになるはずだから」
「分かりました。一ノ瀬さんの言う通りにします」
彼女は複雑そうな表情を浮かべながらも、納得してくれたようだった。私は彼女と別れ、再びナースステーションを後にする。
九条航平という人間が、私の知らない場所でそんなふうに語られ、そして彼自身もまた、鋭い棘を撒き散らして自分を守ろうとしている。その事実に、胸の奥がチリチクと痛む。私たちが踏み込む場所は、どこまでなのか。誰の人生も救わず、誰にも踏み込まれない、透明な存在でいたいだけだったはずなのに。私はその考えを強制的にシャットアウトし、特別室の扉の前まで辿り着いた。私は深呼吸を一つして、いつもの無機質な笑顔を浮かべる。扉を軽く叩き、返事を待たずに中へ入った。
部屋の中は、昼下がり特有の気だるい空気に包まれていた。彼はベッドの上でタブレット端末を手にしているけど、画面を熱心に見ているわけではなく、ただぼんやりと窓の外を眺めているように見える。
「九条様、お時間です。検温と点滴の準備をさせていただきます」
私はいつも通りに声をかけ、手際よく処置を進める。彼はちらりと私を見ただけで、すぐまた視線を窓の外へ戻した。
「……ああ、頼む。あと、少しだけ滴下速度を上げてくれないか」
「無理です。現在の速度は医師の指示に基づいた最適なものです。急ぐことはできません」
私は淡々と拒絶する。彼がどう思おうと、医療処置を優先するのは当然の義務だ。彼はわずかに眉をひそめ、不満そうな表情を浮かべた。
「最適なもの……か。俺にとっては遅すぎる。この時間は、俺の人生において何の意味もない空白だ」
「空白ですか。病院という場所は、成果を競う場所ではありません。体を治し、日常を取り戻すための場所です」
「日常ねぇ。俺の日常は、ここにはない。仕事も、役割も、すべてが打ち切られた今、俺がここで回復したところで何が残る」
入院以来、彼は常に焦燥感に追われている。自分の価値が他者によって決められ、それが損なわれていくことに恐怖を感じているのだろう。私は彼の態度を、ただの未熟さだと思っていた。だが、先ほど廊下で若い看護師から聞いた話で、少しだけ印象が変わった。彼は、自分が何者でもなくなることを恐れているのだ。
「九条様。どんなに優れた人間でも、休む時はあります。立ち止まることが、次のステップへの準備になることもあるはずです」
私の言葉に、彼は皮肉な笑みを浮かべる。
「準備? 立ち止まっている間に、世界は俺を置き去りにしていくんだよ。あんたに、そんな絶望が分かるはずがない」
「分かろうとすることはできます!」
私は思わず口走ってしまった。そんなことは、本来看護師が言うべきではない。余計なお節介だ。彼は驚いたように目を見開き、私をじっと見つめる。
「分かろうとする? なぜ、そこまで他人のことに干渉するんだ」
「干渉ではありません。ただ、私の仕事の一環です」
私は慌てて取り繕う。心臓が早鐘を打っている。彼はしばらく私を見つめた後、再び視線をタブレットへ戻した。
「昨日、君の代わりの若いのが検温に来た。根掘り葉掘り、俺の身分について聞いてきたからな。あまりにしつこいので、無関係な人間に自分の人生を面白おかしく消費される趣味はないと教えてやった。あんたも、俺の背景を詮索して満足したいのか?」
「いいえ。そんなことを考えたこともありません」
「そうか。なら、その言葉に嘘がないなら、ただ淡々とこの点滴を交換し続けてくれればそれでいい」
彼の言い方は冷たく、そしてどこか孤独に満ちている。彼は私を突き放すことで、自分を守っているのだ。私という他者を拒絶することで、自分の核を守り抜こうとしている。
私は、そんな彼の強さに一種の哀れみを感じる。彼もまた、自分だけの檻の中で生きている。私と同じように、誰にも本当の心を見せず、誰にも頼らず、ただ一人で戦い続けているのだ。
私は何も言わず、特別室を後にした。廊下を歩く間も、彼の言葉が頭から離れない。噂話に過ぎなかった彼の存在が、今では私の日常を大きく侵食している。
堂島貴代だけが知る彼の表情。そして、私だけが見せられる彼の無機質な横顔。どちらが本当の九条航平なのだろうか。それとも、そのどちらもが、彼が作り上げた虚像に過ぎないのだろうか。
ナースステーションに戻り、私は自分の椅子に座り込む。周囲の看護師たちは、また別の患者の噂話で盛り上がっている。私はその会話から意識を切り離し、ただ淡々と記録を入力し続ける。頭の中では先ほどの彼の視線が離れない。私は、自分の心の中に小さな波紋が広がっていることを認めた。その波紋は次第に大きくなり、私の平穏をかき乱していく。
午後からの巡回も、私は彼と淡々と向き合う。彼はいつも通り端末の画面を眺め、私に対しては必要最低限の言葉しか返さない。その関係性が、どこか心地よいものへと変わりつつあることに、私は恐怖を感じる。特別室という閉鎖された空間で、私たちは互いの檻を見せ合いながら、ただ静かに時を過ごす。それは、奇妙な共犯関係のようでもあった。
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