第39話 退院の日
退院の日の朝、病院はいつもと何も変わらない表情をしていた。
夜勤明けの看護師たちが疲れを隠しながら申し送りを行い、ナースステーションでは検温表や記録が次々に行き交い、廊下には点滴台を押しながら歩く患者さんの姿がある。
昨日と同じように朝が始まり、明日も同じように続いていくはずの、どこまでもありふれた景色だった。
それなのに、その日だけは自分だけが世界の速度から少し取り残されているような、妙な浮遊感を抱えていた。
私は退院手続きの最終確認を済ませたあと、必要書類を抱えて彼が入院している病室へ向かった。
扉を開けると、九条さんはすでに荷物をまとめ終えていて、窓際に置かれた椅子へ座りながら外を眺めていた。
最初にこの病室へ入ってきた頃の、何もかもを拒絶していた尖った姿はもうそこにはない。
表情からは棘のようなものが消え、どこか肩の力が抜けたような、不思議な穏やかさがあった。
「準備、早いですね。もっと時間がかかるかと思っていました」
私がそう声をかけると、九条さんはゆっくりと振り返って少し笑う。
「待ってる時間の方が長かったからな。もう、この四角い天井を見上げるのは飽き飽きなんだよ」
「入院生活って、意外と暇でしょう。何もすることがないと、つい考え事ばかりしてしまいますから」
「今さらそれを言うか。……まあ、退屈だったおかげで、自分を見つめ直す時間にはなったけどな」
「自分を見つめ直す、ですか。それは病院でなくてもできたことかもしれませんね」
そう言うと、彼は少しだけ目線を落として、何かを確かめるように指先を動かした。
「ああ、そうだな。でも、ここじゃなきゃ気づけなかったこともある。あんたに出会えたことも、そのひとつだよ」
「……私との出会いが、そんなに大きなことでしたか?」
私は少し茶化すように言ったけれど、鼓動が少し早くなるのを隠せなかった。
「ああ、そうだ。あんたの言葉ひとつひとつが、俺の凝り固まった考えを少しずつ溶かしていったんだ。自分でも驚くほどにな」
彼は窓のカーテンを少しだけ指で弾き、遠くの街並みを眺めながら言葉を続ける。
「ここに来る前は、自分の人生なんてどうなってもいいと思っていた。でも、あんたが毎日顔を見せて、くだらない世間話をしてくれるたびに、少しずつ明日も生きてみようかなと思えるようになったんだ」
「九条さん……」
「そんな顔をするなよ。別に礼を言っているんじゃない。ただ、あんたという人間を知れて良かったと、そう思っているだけだ」
私は少しだけ照れくさくなって、視線を書類へと落とした。
「そんなふうに言われると、なんだか調子が狂いますね」
「そうか? 俺は結構、本心で言ってるつもりなんだがな」
「はいはい、分かりました。九条さんのそういう率直なところは、時々ずるいですよ」
「ずるいか。……あんたこそ、俺がどんな顔をするか分かっていて言ってるだろ?」
「そんなことありませんよ。私はただの看護師ですから」
「看護師という看板を外したあんたは、どんな顔をしているんだ?」
彼がそんなふうに問いかけてくるものだから、私は思わず噴き出しそうになった。
「それは……見てのお楽しみ、ということでいいですか」
「ははっ、いい返しだ。期待しておくよ」
そう返しながら私も少し笑ったけれど、その何気ない会話の一つひとつが、やけに胸の奥へ重く、そして大切に残った。
今まで何度もこうして退院を見送る手前までやってきたはずだった。患者さんが元気になって帰っていくことは喜ばしいことで、看護師として寂しいなんて思ってはいけないものだと、自分の中で勝手にルールを決めていた。
でも、自分の中の正直な感情は、どうしてもその枠組みに納得してくれなかった。
「……退院したら、一番に何をしたいんですか」
私はあえて、そんなありふれた質問を投げてみた。
「一番か。そうだな、まずは……病院のまずい飯じゃないものを食いたいな」
「もう、そんなことですか。まあ、それも大事ですね」
「あんたは? 何か食いたいものとかないのか」
「私ですか。私は……そうですね、美味しいコーヒーでも飲みたいです」
「じゃあ、どっかで付き合うか? 病院の外なら、あんたも普通の人間なんだろ」
彼の言葉に、私は少しだけ目を見開いた。
「普通ですか。私はいつでも普通の人間ですよ」
「そうだな。でも、白衣を着ている時とは少し違うだろ。あんたがどんな顔をして笑うのか、ちょっと見てみたい気もする」
「私、そんなに不思議な顔をしていますか?」
「ああ、不思議というより……見ていて飽きない顔だ。次は何を考えているんだろう、って気になってしまう」
「……からかっていますね、それ」
「いや、断じてそんなことはない。俺にとって、あんたは謎だらけの面白い本みたいなものなんだ」
彼がそんなふうに冗談めかして言った言葉に、私は言葉を失う。
病院の中という狭い世界では、私たちはあくまで看護師と患者という役割を演じていた。
けれど、その枠を取り払った先の未来を想像してみる。
「……私の笑顔なんて、そんなに面白くありませんよ」
「俺には面白そうに見える。あんたのその、困ったような顔も、少しだけ笑った顔も、俺にとっては興味深い対象なんだよ」
「そんなこと言われると、ますますどう返せばいいのか分かりません」
「無理に返さなくていい。……ただ、あんたが俺に向けてくれるその表情を、ずっと記憶しておきたいんだ」
「九条さん、なんだか今日は一段と饒舌ですね」
「そうか? あんたの前だと、なぜか言いたいことが溢れてくるんだよ」
私たちは互いに顔を見合わせて、少しだけ笑った。その時間が永遠に続いてほしいと願うのは、看護師として間違ったことなのだろうか。でも、もしこれが許される感情だとしたら、私はもっと欲張りになってもいいのかもしれない。
私は心の中で、自分自身に問いかける。私たちが歩んできた時間は、これから先、どんなふうに彩られていくのだろうか。
九条さんが立ち上がり、荷物を手に持つ。
「さて、そろそろ行こうか。いつまでもここにいても、新しい展開なんて待ってないからな」
「そうですね。……行きましょうか、新しい場所へ」
私は書類を抱えて、彼の歩調に合わせて一歩を踏み出す。病室のドアを開けて、廊下へと出るその瞬間に、私は少しだけ深く息を吐いた。
まだ終わらない。
ここから先、病院を出るまでの道のりこそが、私たちにとっての本当の試験になるような気がしたのだ。
廊下に響く二人の足音は、不思議とリズムが合っていた。まるで、これからの未来を予感させるような、確かな足取りで。
私は彼を見つめながら、心の中で密かに誓う。この人が病院の門をくぐるその瞬間まで、私は自分にできる精一杯の役割を、そして、一人の女性としての想いを、大切に抱えて歩いていこうと。
ナースステーションの前を通り過ぎる時、同僚の看護師が「お疲れ様」と声をかけてきた。
私はそれに対して、いつもより少しだけ柔らかい笑顔で答えた。
九条さんはその様子を横目で見て、小さく鼻で笑う。
「随分と優しい顔をするんだな、あんた」
「……そうですか。いつも通りですよ」
「いや、違うな。何かが吹っ切れたような、いい顔をしている」
彼のその鋭い言葉に、私は少しだけ頬が熱くなるのを感じる。
どうしてこの人は、こうも私の心を揺さぶるようなことばかり言うのだろう。
病院の廊下という日常の空間が、彼がいるだけで非日常に塗り替えられていく。私はその感覚を楽しみながら、一歩ずつ、彼との距離を測るように進んだ。
私たちは今、人生という大きな迷路の入り口に立っているのかもしれない。それでも、隣に誰かがいるというだけで、これほどまでに世界が明るく見えるのだと、私は初めて知った。
エレベーターの前で立ち止まり、ボタンを押す。扉が開くまでのわずかな時間、私たちは何も言わずに並んでいた。
それは沈黙ではなく、互いの存在を感じ合うための、大切な時間だった。扉が開き、私たちは中へと乗り込む。
病院の階数がゆっくりと減っていく中で、私は自分の心の中にある、小さな光のような希望をしっかりと握りしめていた。
このまま、出口まで辿り着きたい。
そんな単純な願いが、今の私を動かす唯一のエネルギーになっていた。
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