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<全話投稿> 一ノ瀬玲は、恋をしない ~触れない看護師と、壊れた彼の特別室~  作者: 第三ひよこ丸
第4章:ひとつの道へ

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最終話 一筋の道

 病院の玄関を出ると、まだ午前中の瑞々しい風がゆっくりと頬を撫でていった。春の終わりが近づいている季節だった。


 陽光は十分に暖かく、街全体をきらきらと輝かせている。入院していた間、病室の窓から何度も見ていた景色のはずなのに、こうして病院の外へ出て眺めるだけで、まるで違う場所みたいに見えた。


 視界の端で揺れる街路樹の緑は生命力に溢れ、これから始まる新しい生活を祝福しているかのように鮮やかだった。けれど、その眩しさがかえって私には残酷に思えた。


 私は九条さんの少し隣を歩きながら、ぼんやりそんなことを考えていた。患者さんが元気になって退院していくことは、看護師として何度も見送ってきた光景だった。


 そのたびに「よかった」と思っていたし、病院の外へ戻っていく背中を見送ることが、自分の仕事なのだと思っていた。だから今日も、本来なら同じはずだった。


 しかし、今の私には、その一歩一歩がまるで重い鎖を引きずっているかのように感じている。心の中にどす黒い何かが澱のように溜まり、それが喉の奥までせり上がってくるような感覚に支配されていたのだ。このまま歩き続けたら、どこか遠くへ連れて行ってくれるのではないかという、子供じみた期待すら抱いてしまう。


「退院、おめでとうございます。無理しないでくださいね。何かあったら、また病院へ来てください」


 そう言って笑って終われば、それでよかったのだ。でも、私の中にある何かは、それを許してくれなかった。病室で何気ない話をしていた時間も、眠れない夜に二人で窓の外を眺めていたことも、何もする気力がなくなった九条さんへ、黙ったままヘッドフォンをつけてあげた日のことも、そんな一つひとつが頭の中へ浮かんできて、そのどれもが思っていた以上に大切なものになっていたことを、今さらみたいに理解してしまっていた。


 看護師として接していたはずの時間が、いつの間にか私の中の空白を埋めてくれていた。彼が去った後の病室に、どれほどの孤独が待ち受けているのか。想像するだけで、呼吸が浅くなる。冷たい空気が肺に入り込み、心臓の鼓動を鋭く突き刺した。


 少し前の私なら、ここで何も言わなかったはずだ。看護師だから、と理由をつけていたはずだ。患者さんだから、と線を引いていたはずだ。


 そうやってまた何も始まらないまま、自分から離れていたはずだった。そうして守られていたのは、平穏な日常ではなく、ただ自分が傷つかないようにするための卑怯な殻だった。でも、その先にあるものを私は知っている。何も壊れない代わりに、何も手に入らない場所なのだと。


 私はずっと、自分を守っているつもりでいただけだったのだ。九条さんが横にいるだけで、世界の色がこれほどまでに鮮やかに見えてしまうなんて、今の今まで知らなかった。


 隣を歩いていた九条さんが、少し空を見上げながら鼻で笑った。


「何か不思議だな。最初は、ここから出られたらそれでいいとしか思ってなかったのに、今は、妙に寂しい気分だよ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥へ閉じ込めていたものが、もう隠しきれなくなった。私たちは並んで歩き始めたけれど、どうしても足を速めることができなかった。


 あと一歩、もう一歩と進むたびに、彼との距離が物理的に開いていくことが、どうしようもなく苦しくてたまらない。私はわざと歩幅を狭め、ヒールの音をゆっくりと響かせながら、彼が去ってしまうまでの時間を少しでも引き延ばそうと足掻いていた。


 ふと見ると、隣を歩く九条さんの歩調も、まるで示し合わせたかのように極端に遅い。

 先ほどまでの鋭い足取りはどこへ消えたのか。彼もまた、私と同じように、この病院の敷地内から一歩外へ踏み出すことを、心のどこかで拒んでいるのかもしれない。


 時折、彼が視線を私のほうへやり、何かを言いかけては飲み込むように口元を歪める姿が、饒舌な沈黙となって胸に響く。アスファルトの上に伸びる二人の影が、重なり合うほどではないにせよ、まるで磁石の同極同士のように反発しつつも、決して引き離されない距離を保って寄り添っている。


 爽やかな風が吹き抜ける、この眩しい時間。この場所から離れたら、もう彼は一人の人間として遠い場所へ行ってしまうのだという事実が、重く私の足にまとわりついていた。今、ここで彼を止めたら何かが変わるのではないか。そんな浅はかな願いが頭の中を駆け巡る。


「一ノ瀬さん、何をそんなにのろのろ歩いているんだ?」


 九条さんが立ち止まり、不思議そうにこちらを振り返る。しかし、彼自身もまた、その場に釘付けにされたかのように動こうとしない。


 その顔を見ていたら、また胸の奥がぎゅっと締め付けられてしまう。太陽の光を背負った彼の髪が、柔らかく輝いている。見慣れたはずのその横顔も、今日で見納めだと思うと、一瞬たりとも目を離したくなかった。


 彼の瞳の中に映る自分が、酷く弱々しく見えてしまう。このまま時間が止まってしまえばいいと、誰に祈れば届くのだろうか。


「……別に。ただ、少し日差しが強いなって思っただけです」


「そうか? 今日は随分と過ごしやすい日だと思うけどな。一ノ瀬さん、顔色が少し悪いんじゃないか?」


 彼は心配そうに私の顔を覗き込んでくる。その距離が近すぎて、私は反射的に一歩後ろへ下がってしまう。

 慌てたような自分の反応が恥ずかしくて、わざと視線をそらす。


 彼が去ってしまうという事実に、心が押しつぶされそうになっているのを悟られたくなかった。自分の声が震えてしまうのを必死に堪え、何気ない振る舞いを装うことすら、今の私には過酷な試練だった。


「九条さんには分からないでしょうね。……これからのほうが、ずっと暑くなるんですから」


 私が言い淀むと、彼は少しだけ寂しそうな顔をして笑った。その笑顔は、どこか諦めに似た色を含んでいるように見えた。


 彼もまた、別れが近いことを理解しているのだ。そう思うと、余計に胸が痛む。喉の奥に熱い塊が込み上げて、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。彼との時間が過ぎ去っていくことへの恐怖と、彼を引き止めてしまいたいという衝動が、身体の中で激しくぶつかり合っている。


「そうだな。……もう行かないとな」


 彼は荷物を持ち直し、病院という名の境界線へと再び足を踏み出す。私たちはただ、互いの温度を感じながら、病院の入り口へと近づいていく。


 病院へ戻るための、最後の一歩をためらうように。立ち並ぶ植え込みの葉が、風に揺れてさやさやと音を立てている。


 その音さえも、今の私たちには永遠の別れを告げる音楽のように聞こえて、胸が締め付けられるほど切なかった。


 私はもう一度だけ、彼の手元に視線を落とす。今にも手が触れ合いそうな距離で、私たちは黙ったまま、最後の一歩を踏み出そうとしていた。この一歩を踏み出せば、もう二度と、彼とこうして並んで歩くことはできないのかもしれない。


 そんな絶望が、私の背中を凍らせる。自分の感情が堰を切ったように溢れ出しそうになるのを、必死に指先を握りしめて抑え込む。


 この病院の入り口が、まるで奈落の底への入り口のようにさえ思えてきた。私は彼を呼び止めたいのに、どうして声が出ないのだろう。


 心の中では千回も名前を叫んでいるのに、現実はただ静かに、冷酷なまでに時間だけを刻んでいく。このまま終わらせてしまえば、一生後悔するに決まっていると、理性が警告を発し続けていた。


 降り注ぐ朝の光が少しばかり眩しくて、目の前に立つ九条さんの表情はよく見えなかったけれど、それでも今この瞬間に言わなければ、きっと私はまたどこかへ逃げてしまうのだと予感していた。

 

 怖かった。

 

 また、私の不器用さで何かを壊してしまうかもしれないという恐怖。今まで何度もそうだったように、大切にしたいと思うものほど、指の間からこぼれ落ちて失うことになるかもしれないという予感。

 それでも今回は、もう自分から背を向けて逃げたくなかった。私は肺いっぱいに空気を吸い込む。


「ずっと、怖かったんです」


 自分でも驚くくらい声は震えていたけれど、不思議と喉の奥が詰まることはなく、言葉は途中で止まらずに紡がれた。


「誰かと近づいたら、いつか必ず何かを壊してしまう気がしていました。だから私は、自分から距離を取って、離れることで平穏を保とうとしていました」


 少しだけ笑う。自分の弱さをさらけ出すのが、泣きそうなくらい恥ずかしかった。でも、もう隠したくはなかった。


「でも、それって多分違ったんです。私は誰かを守ろうとしていたんじゃなくて、自分が傷つくことから逃げていただけだったんだと思います。だから、今回は逃げません。看護師だから、患者さんだからなんていう壁はもういりません。……一ノ瀬玲として言います。九条さん、私をあなたの故郷に連れていってくれませんか」


 その言葉を口にした瞬間、九条さんは目を見開いたまま動きを止めた。周囲の喧騒が遠ざかり、まるで世界には私たち二人しかいないかのような錯覚に陥る。

 

 しばらくして、彼は信じられないものを見るような顔で私を凝視する。驚きと、戸惑いと、それから微かな期待が入り混じったような、複雑な色を浮かべた瞳。彼は少しだけ溜め息をつくと、私の顔をじっと覗き込んできた。


「……それって、告白? ……だよな?」


 彼は確信が持てないのか、不安げにそう尋ねてくる。まるで夢を見ているかのような、掠れた声だった。

 私はその言葉に、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じた。恥ずかしさも、ためらいも、もう何もかもがどうでもよくなった。私はただ、真っ直ぐに彼を見つめ返して頷く。


「……はい」


 一言だけ。だけど、その一言にすべてを込めた。

 すると彼は、呆気にとられたような顔から、次第に耳まで真っ赤に染め上げながら視線を逸らし、小さく舌打ちして、呆れたように頭を掻いた。


「……いや、それ。普通、そっちが先に言うのかよ。こっちはずっと、どのタイミングで切り出そうか探してたんだぞ。……ったく、返してください。俺の告白のタイミングをさ。先に言われると、全部台無しなんだよ」

 

「台無しなんて言わないでください。私だって、勇気を出したんですから」

 

「……分かってるよ。分かってるけど、男としての面目が丸潰れだ。俺がこう、ビシッと格好良く言うはずだったのに」

 

「ふふ、そんなに格好にこだわっていたんですか?」

 

「当たり前だろ。玲さんみたいな、いつも冷静でポーカーフェイスな相手には、それなりの準備が必要なんだよ」

 

「私のこと、そんなふうに思っていたんですね」


 その顔がおかしくて、私は思わず吹き出してしまった。笑うつもりなんてなかったのに、一度零れた笑いは止まらなくて、自分でも驚くくらい自然に声が出ていた。


 ずっと、自分が誰かとこうして心から笑い合える未来なんてないと思っていた。でも、ちゃんとあったのだ。遠回りばかりしていた道の先に、こんなふうに隣へ並んで歩き、笑い合える未来が。


「な、なんだよ、笑うなよ! こっちだって真剣に考えてたんだぞ」

 

「あはは、ごめんなさい。だって、九条さんがそんなことにこだわってたなんて……本当に変な人ですね」

 

「笑うな! ……まあ、いい。笑ってくれるなら、今回は俺の負けでいいよ」

 

「負けだなんて、大げさですよ」

 

「負けだよ。あんたに一本取られたんだからな。……でも、悪くない気分だ」

 

「……私もです。九条さんとこんなふうに話せるなんて、思ってもみませんでした」


 九条さんもつられて、最後には呆れと愛おしさを混ぜたような笑い声を零した。二人して午前中の玄関先で顔を見合わせて笑い合うなんて、想像もしなかった未来だった。

 

 ようやく笑いが収まると、九条さんは少しだけ真面目な顔に戻り、私の瞳を射抜くように見つめた。その眼差しには、先ほどまでの動揺とは違う、深く静かな決意が宿っていた。


「今すぐには無理だ。まずは俺が向こうで新しい住まいと仕事を用意する。……それが整ったら、必ず連絡する。半年だ。半年で目途をたてる。だから、それまで俺を待っていてくれ」

 

「……はい。約束します。待っています」

 

「本当に待てるか? 結構時間がかかるかもしれないぞ。自分の生活もあるだろう」

 

「時間なんて関係ありません。九条さんが整えてくれる場所なら、私はどこへだって行きます」

 

「……そう言われると、急に責任を感じるな。よし、死に物狂いで頑張るよ」

 

「無理はしないでくださいね。ちゃんと身体を大事にしてください」

 

「ああ、約束する。だから、そっちも、あまり無理をするなよ。……元気でいるんだぞ」

 

「はい。……信じて待っています」


 私は彼の手をそっと握りしめた。硬く、それでいて温かい手。その温もりは、これから二人が歩む道のりが決して平坦ではないことを物語っていたけれど、それでも離したくないと感じさせた。

 

 九条さんは満足そうに頷くと、踵を返して病院の敷地の外へと歩き出した。その背中を、私は一歩も遅れまいと追いかける。

 

 空はどこまでも高く、どこまでも澄み渡っている。私たちがこれまで積み重ねてきた言葉の一つひとつが、光に溶けていくようだった。私は彼の背中を見つめながら、これから始まる新しい生活に思いを馳せる。


  どんな困難があろうと、今日この瞬間に交わした約束があれば、私たちはきっと大丈夫だと思えた。

 神戸の陽射しの中、私たちの影は静かに重なりながら、ゆっくりと前へ、病院の外側へと伸びていた。

 

 これから向かうべき場所への第一歩を、私たちはようやく、確かな足取りで踏み出すことができたのだ。


 

――――

 神戸の冬は、穏やかな陽光に満ちている。

 カレンダーは十二月の終わりを告げている。病院の窓から見える空は、高く、どこまでも澄み渡っている。

 私は休憩室の窓辺の席に座り、その空を幾度も見上げていた。視界の端に置いたスマートフォンの画面には、一通のメッセージが消えることもなく表示されている。


『神戸に着いた』


 ただそれだけ。

 無機質で、短く、飾り気のない言葉。その文字列を視認した瞬間から、私の内側で張り詰めていた糸が弾け飛ぶ。


 胸の奥底で鳴り響く鼓動は激しさを増し、平穏という名の調律を完全に忘れてしまった。なぜ、これほどまでに動揺するのだろう。半年。途方もなく永い半年という時間が、まるで澱のように心に溜まっている。


 退院の日、病院の玄関前で交わした言葉の数々が、今のこの空間に蘇る。


「住む場所を整え、仕事を見つける。必ず迎えに行く。だから、それまで待っていてほしい」


 あの時の航平さんの瞳には、嘘偽りのない誠実さが宿っていた。私もまた、それに縋るようにして、信じると答えたのだ。


 それでも、人はあまりにも脆い生き物だ。夜勤を終え、朝日が昇り始めたばかりの帰り道、ふと襲ってくる孤独の波に飲み込まれそうになる夜が幾度もあった。


 本当に来てくれるのだろうか。私の存在が、いつしか彼にとっての重荷になってはいないだろうか。遠い地での生活に忙殺され、私のことなど記憶の彼方へ追いやられてしまうのではないか。


 そんな疑念が頭をよぎるたび、私は凍えそうな指先で自分を強く抱きしめ、心の中で自分自身を叱りつけた。信じると決めたのは自分だろうと、そう言い聞かせて。


 

 そして今日。ついに、約束の日は訪れた。


 最後の勤務を終え、更衣室で制服から私服へと着替える。鏡の前に立ち、幾度も髪を整え、服に刻まれた微かな皺を指先で丁寧に伸ばした。


 まるで初めてのデートに胸を躍らせる高校生のような真似をしていると、自分でも呆れるような思いがした。


 それでも、抑えようのない衝動がそこにはある。会いたかったのだ。この半年間、呼吸をするたびに、ただそれだけを願っていたのだから。


 

 待ち合わせ場所は、ここ、病院の玄関前。

 冬の空気は、肌を刺すような冷たさだ。私は手袋越しに自分の両手を胸の前で固く握り締め、病院の出口へと足を進めた。


 

 やがて、その姿を捉える。


 病院の入り口近くで、ただ一人で立っている男性。少し癖のある髪の毛先が、風に揺れている。


 背筋の伸びた姿勢。見間違えるはずなど、あろうはずもない。半年間、夜ごと夢に見た、あの背中。


 私の足が、動かなくなる。胸の奥が、締め付けられるように苦しい。


 その時、気配を察したのか、彼が振り返った。一瞬だけ、視線が空中で絡み合う。次の瞬間、彼の表情が、ふわりと大きく崩れる。あの日と同じ笑顔。

 少し照れくさそうで、少しだけどう振る舞えばいいのか戸惑っているような。それでも、心の底から安堵したことが伝わってくる、穏やかな笑顔だった。


「玲さん」


 名前を呼ばれる。ただ、それだけで、私の堰を切ったように感情が溢れ出してしまった。視界が急速に滲み、熱い何かが頬を伝い落ちてくる。


「……航平さん!」


 気づけば、私は彼に向かって駆け出していた。いい大人だというのに。二十代後半にもなって、周囲の目も、理性も、何もかもを忘れてしまうほどに。


 積もりに積もった寂しさも、募る不安も、彼を前にした途端、すべてが情動の奔流となって体中を駆け巡る。


 距離は、急速に縮まっていく。彼もまた、こちらへ向かって歩みを進めていた。そして私たちは、ようやく目の前で足を止めた。


 半年。たった半年。されど半年。

 あの日から続いていた長い空白の時間が、今ここで消えていく。


 

「元気そうで、安心した」


 航平さんが微笑む。私はそのまま彼に縋りつきたい衝動を必死に抑え、震える声を絞り出した。


「航平さん……本当に、本当に来てくれたんですね! 半年間、ずっと、ずっと待ってたんです。……もう、どこかへ行ってしまうんじゃないか、私のことなんて忘れてしまったんじゃないかと思って、夜も眠れない日が何日もあったのに!」


「約束通り来たよ。住む場所も用意した。仕事も見つけた。生活できる準備も整えた。だから、迎えに来た」


 彼は真っ直ぐに私を見つめた。その瞳の中に、私が半年間追い求めた場所がある。喉が熱く鳴る。心臓が、痛いほどに脈打っている。


「玲さん、一緒に来てくれるか」


 彼は右手を差し出した。私はその手を見つめた。大きな手だった。あの日と何も変わらない。

 私を救い出してくれた手。私が心から好きになった人の、温もりを宿す手。気づけば、私は泣きじゃくりながら、その手を両手で強く掴み取っていた。


「はい! 行きます、どこへでも行きます!」


 私はその手を取る。指先が触れ合った瞬間、半年間という長い時間が持たらした寂しさも不安も何もかもが雪解け水のように溶けていくのを感じる。


「良かった。断られたらどうしようかと、ずっと考えてたから」


「そんなことあるわけないじゃないですか! ……もう、一生離しませんからね!」


 彼は照れ隠しのように肩をすくめて笑う。その顔があまりにおかしくて、私もたまらず吹き出してしまった。


 病院の前の街路樹が冬風に揺れ、二人の笑い声だけが溶けていく。もう、立ち止まる理由などどこにもない。私は彼の隣に並び、歩幅を合わせる。そして二人で、まっすぐに未来を見据えるのだ。


 これから先、何が待ち受けているかなんて分からない。困難もあるだろう。喧嘩をすることもあるかもしれない。それでも、構わない。私の隣には、航平さんがいる。それだけで、私という人間は、世界で一番幸せになれるのだから。


 冬の風は、確かに冷たかった。それでも、握り合ったこの手だけは、驚くほど温かかった。


――完――

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