第38話 檻の崩壊
堂島さんと話した翌日から、私は何となく自分の歩幅がおかしくなったような感覚を覚えていた。
別に体調が悪いわけじゃないし、仕事で失敗をしたわけでもない。患者さんへの対応もいつも通りで、カルテの記入も、処置の確認も、普段と何一つ変わっていないはずなのに、自分の中だけが少しずつ噛み合わなくなっているような妙な感覚が続いていた。
その日の午後、私は九条さんの病室で退院後の生活について簡単な説明をしていた。
腕の可動域についての注意事項や、日常生活で無理をしてはいけないこと、それから今後の外来受診の日程について話しながら、私は手元の書類を見ていたけれど、正直なところ内容はほとんど頭へ入っていなかった。
九条さんは思ったより真面目に聞いていた。最初の頃なら、こういう話をしてもどこか投げやりな顔をしていたはずなのに、今は違っていた。自分が退院した後のことを、自分の生活としてちゃんと考えている顔をしていた。
「結構あるんだな」
説明を聞き終えたあと、九条さんが書類を見ながら小さく笑う。
「もっと適当に終わると思ってたぞ」
「適当には終わりませんよ。命に関わることですから」
私も少し笑いながら答える。
「ちゃんと守ってくださいね」
「分かってるよ。そううるさく言うな」
「本当にですか? 九条さん、無茶しそうですから」
「……多分な。あんたがそこまで言うなら、守る努力はしてやるよ」
そんなやり取りをしながら、私は何気なく顔を上げると、九条さんがこちらを見ていた。
別に珍しいことじゃなかった。最近は話をする時、ちゃんと相手の顔を見て話すようになっていたし、何か言いたいことがある時には私を探すような癖もできていた。
でも、その時だけはなぜか視線を逸らせなかった。窓から入ってきた午後の日差しが病室へ差し込んでいて、白いカーテンがゆっくり揺れていた。
そんな何でもない景色の中で、私は不意に思ってしまった。
ああ、終わるんだな、と。
退院するのだから当たり前だった。患者さんは元気になれば病院を出ていく。看護師は見送る側で、それ以上でもそれ以下でもない。そんなことは、何百回も経験してきたはずだった。
なのに、胸の奥が静かに痛んだ。
嫌だった。
その感情が浮かんだ瞬間、私は自分で驚いてしまった。退院してほしくないわけじゃない。元気になってほしくないわけでもない。
ただ、終わってほしくなかった。
この人と過ごしていた時間が、患者と看護師という関係の終わりと一緒に消えてしまうことが、どうしようもなく嫌だった。
その感情へ名前を付けないようにして、ずっとここまで来たはずだった。
近づかなければ傷つかない。
誰かの大切なものへ入っていかなければ壊さない。
私はずっとそう思っていたし、その考え方のおかげで、自分は平気でいられるのだと思っていた。
でも今になって分かった。あれは私を守っていたんじゃない。ただ、自分が怖いものから逃げるための場所だったのだ。誰かを傷つけたくないと言いながら、本当は自分が傷つくことから逃げていただけだった。
そして今、その場所へ戻りたくないと思っている自分がいた。
私は書類を閉じるふりをしながら、小さく息を吐く。
看護師としてじゃない。
患者さんだからでもない。
私はただ、一ノ瀬玲として、もっとこの人の隣にいたいと思ってしまっていた。
九条さんは私の沈黙が気になったのか、少しだけ首を傾げてこちらを見ている。
その瞳の中に、今の私の動揺が映っている気がした。
「……どうした。何か言い残したことでもあるのか?」
「いえ、そういうわけじゃ……ただ、退院後の九条さんが、どんなふうに過ごすのかなって思って」
私は努めて冷静に言葉を返した。
九条さんは鼻で笑うと、少しだけ照れくさそうに視線を外した。
「別に、変なことはしないよ。……ただ、これまでみたいに無駄な時間は過ごさないつもりだ。あんたのおかげでな」
彼はそう言って、少しだけ躊躇いを見せながらも、私の目を見つめ返した。
「あんたがいてくれたから、俺は自分の人生を捨てなくて済んだ。だから、ちゃんと生きていこうと思ってる。……あんたに報告できるような生き方をな」
その言葉は、私の心を直接叩くような力強さがあった。
「そんな、私のために生きるなんて」
「そうは言ってないだろ。ただ、あんたが背中を押してくれたから、俺も前を向けるようになった。それだけのことだ」
彼はぶっきらぼうに言いながらも、その表情はどこまでも温かい。私は彼の言葉を噛み締めながら、自分がこれまでどれほど彼に救われていたのかを痛感する。
看護師という鎧を纏っていても、一人の人間としての弱さは隠せない。 私の心の中にあった檻が、今まさに音を立てて崩れ去ろうとしていた。
これまでの私は、何を守りたかったんだろう。誰にも踏み込まれない平穏な場所か、それとも傷つくことのない安全な日常か。そんなものは、彼と向き合う時間の前では、あまりにも無力で虚しいものに思えた。
「九条さん。もし退院しても、また会いに来てくれますか?」
私は看護師としての立場をかなぐり捨てて、一人の女性としてそう尋ねていた。九条さんは一瞬だけ驚いたような顔をしたあと、少しだけ口角を上げた。
「……そんなことを聞くのか。言われなくても、あんたの顔を見に来るくらいはするよ。俺にとって、あんたは特別な看護師なんだからな」
彼はそう言うと、窓の外の空を見上げた。
「これからは、あんたがどこにいても、俺はあんたのことを忘れない。だから、あんたも俺のことを……いや、なんでもない」
彼は言いかけて、途中で言葉を止めた。その空白の時間に、私は言葉にならないほどの想いを感じ取った。
彼の言葉は、これまで聞いたどんな言葉よりも重く、そして私の心を熱くさせた。
退院までの時間は残りわずか。だが、私たちの新しい関係は、ここから始まろうとしているのだ。
私は書類をトレイに置くと、少しだけ背筋を伸ばして彼と向き合った。
「報告、楽しみに待っていますね。……私も、看護師としてじゃなく、一ノ瀬玲として」
私は自分でも驚くほど素直に、自分の名前を口にしていた。
九条さんはその言葉に少しだけ目を丸くしたあと、これまでで一番自然な笑顔を浮かべた。
「ああ、玲さん。……そう呼んでもいいんだな」
彼の呼びかけが、私の心の中の壁を完全に崩し去る。
この病院という限られた空間の中で、私たちはようやく自分自身の心に気づくことができたのだ。
退院という別れが、むしろ私たちを対等な場所へと引き合わせてくれる。
私は今なら、どんな結末が待っていようとも、それを自分のものとして受け入れられる気がした。
白い壁に囲まれたこの病室が、私たちの新しい物語の始まりの場所として、これからも心の中に残り続ける。
窓の外には、少しずつ明かりを増していく夜の街が広がっていて、その光のひとつひとつが、私たちの未来を祝福しているようにさえ思えたのだ。
私は深く深呼吸をして、最後に一度だけ彼と視線を合わせた。
言葉はいらない。
ただ、お互いの瞳の中に、同じ未来を願う光が宿っていることを確認し合うだけで、今の私たちには十分だったのだ。
私は病室のドアに向かって歩き出す。 その背中を、彼の温かい視線が追いかけているのを感じながら、私はまた明日、彼と会える喜びを胸に抱いて、ゆっくりと一歩を踏み出した。
明日になれば、彼はまた私に声をかけてくれるだろうか。そんな他愛もない心配さえも、今の私には愛おしく感じられた。廊下に響く自分の足音が、今までよりもずっと軽く、確かな響きを帯びている気がする。
私はナースステーションに戻ると、デスクに座り、真っ白なカルテを手に取る。
そこにはまだ何も書かれていないけれど、私の心の中には、彼と積み重ねてきた数え切れないほどの記憶が、鮮やかな色を添えて残っている。
この先、どんな困難があっても、私たちは互いの存在を支えにして歩いていける。そう信じられるだけの強さが、ようやく私の中に育ったのだ。
病院という場所は、別れの場所であると同時に、新しい出会いと再生の場所でもある。私はそう確信しながら、ペンを握りしめて、新たな記録を書き始めた。
そこには、一人の患者の回復記録以上の、私自身の始まりの物語が綴られていくはずだった。
夜の帳が完全に下り、窓の外には満天の星が輝き始めている。
それはまるで、私たちの歩むべき道を照らす星灯りのように、どこまでも美しく、そして優しく光り輝いていた。
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