第37話 堂島の選択
翌日の夕方、私はナースステーションで溜まっていた記録を黙々とまとめていた。
窓の外では空の色が少しずつ濃い紺色へと溶け込み始めていて、遠くの港の向こう側には、街の明かりが星を散らしたように小さく並んで見える。
そのとき、背後から不意に呼びかけられた。
「一ノ瀬さん」
聞き慣れた優しげな声に顔を上げると、そこには堂島さんが立っていた。
以前と変わらない洗練された身なりで、いつも通りの綺麗な微笑みを浮かべているけれど、その瞳の奥には今までにはなかったような落ち着いた色が宿っている気がした。
「少しだけ、今のお時間いただいてもいいでしょうか」
私は頷いて、ペンを置いて席を立つ。
何となく、これから交わされるであろう話の断片を予感していた。
廊下の突き当たり、病室から少し離れた窓際まで歩いていくと、堂島さんは夜の闇を抱え始めた街を眺めながら、どこか遠くを思うように静かに笑った。
「負けました」
その唐突な言葉の意味が分からなくて、私は小さく息を呑んで立ち尽くす。
堂島さんは窓ガラスに映る自分の顔を確かめるようにして、笑ったまま言葉を続けた。
「昨日、九条さんの病室へ行ったんです。……彼と、二人きりで、ずいぶんと長い時間話をしました」
堂島さんは小さく息を吐き出し、どこか遠くを見るような目で空を見上げた。
「ずっと彼を支えたいと願ってきたけれど、昨日、はっきりと分かってしまったんです。私の想いは、今の彼には届かないんだって」
彼女は少しだけ悲しげに、でもどこか納得したように口元を綻ばせる。
「彼に、私がずっと大切にしてきた気持ちを伝えました。でも、彼はきっぱりと、私の気持ちを断ったんです。それも、私を傷つけないようにという配慮ではなく、彼自身の心が誰を求めているのかを隠そうともせずに」
風が窓の隙間から入り込み、彼女の髪がふわりと揺れる。
「それに、彼、故郷に帰るそうですね。完全に環境を変えて、一から自分の人生を立て直すんだと、迷いのない目で話していました。……あんなにも強い意志を宿した彼の姿を見たのは、これが初めてかもしれません」
私はその言葉を聞いた瞬間、耳を疑った。
彼が実家へ戻るかもしれないという話は、中庭で彼から直接聞いたことがあった。
でも、それが決定事項として、すでに誰かの耳にまで届くほど固まっていたなんて。
動揺で指先が冷たくなるのを、私は必死に隠した。
「……故郷へ帰るっていう話、本当だったんですね」
私の驚きが伝わったのか、堂島さんは不思議そうに目を丸くした。
「えっ、知りませんでしたか? 一ノ瀬さんなら、彼から一番に聞かされているものだと思っていました」
堂島さんの言葉は、私に追い打ちをかけるように響く。
私は動揺を隠すことができず、ただ言葉を失って立ち尽くすことしかできない。
彼にとって、私の存在は何だったのだろう。
大切に話してくれたと思っていたのは、私だけの勘違いだったのだろうか。
「……そうか。彼、一ノ瀬さんにもまだちゃんと言えていなかったんですね。それはまた、彼らしいというか……」
堂島さんは少しだけ複雑な表情で、私を気遣うように微笑んだ。
「彼はね、一ノ瀬さんの前では、いつも弱みを見せまいとしていたんですよ。でもね、その弱さの正体が、あなたへの想いだって気づいてからは、怖くて言い出せなかったんだと思います」
彼女の言葉は、私の心の奥底を揺さぶる。
「私の前では、彼はすごく冷静に未来を語っていました。でも、その冷静さの裏側には、あなたと離れることへの怯えが隠れていたんです。私はそれを見て、悟りました。私がどんなに手を伸ばしても、彼の視線の先にあるのは、最初から一ノ瀬さんだったんだって」
私は何も言えず、彼女の言葉の重みをただ受け止めていた。
「正直に全部お話ししますね。彼が今、本当に誰の姿を見ているのか、ようやく分かってしまいました。それは、私の姿じゃなかった」
その言葉が胸の奥に刺さり、一瞬だけ心臓のあたりが締め付けられるように苦しくなる。
でも、堂島さんは悲しそうな表情を浮かべなかった。
むしろ、長い迷路から抜け出したかのような、心底安心したような顔で微笑んでいる。
「ですから、一ノ瀬さんにひとつだけ、どうしてもお願いがあるんです」
私は言葉を詰まらせ、彼女の次の言葉を待つ。
「どうか、自分の気持ちから逃げないでください」
窓から吹き抜ける風が、少しだけ私の髪を揺らしていく。
「優しい人ほど、自分自身の本当の気持ちに理由をつけて、諦めようとしてしまいますから。あなたが彼をどう思っているのか、自分の中に嘘をつかないであげてください」
彼女の真っ直ぐな視線に射抜かれ、私は返事ができなかった。
「……そんなこと、言われても」
「言われても、なんて言わせません。彼はね、あなたが思っている以上に、あなたという存在に救われてきたんです。彼が故郷に帰る決心をしたのは、そこに行けば、いつかあなたに胸を張って再会できる自分になれると信じているからなんですよ」
堂島さんの言葉に、私の視界が熱くなる。
「彼はもう、迷っていません。次に会うときは、看護師と患者ではなく、対等な関係でありたいと願っているんです。……そんな彼の想いを、受け止める準備はできていますか?」
彼女はそう問いかけ、私の顔をじっと見つめた。
「今回は、どうか諦めないで。彼が選んだ新しい未来に、一番近くで寄り添えるのは、私ではなくあなたなんです」
そう言い残すと、彼女は少しだけ安堵の表情を見せて、ゆっくりと歩き出した。
私は去っていく彼女の後ろ姿を、ただ見送ることしかできない。
背筋を伸ばして歩くその姿は、とても美しく、そして切なく私の目に映った。
自分の中で何かが少しずつ、音を立てて変わり始めていることだけは分かっていた。
これまで私は、患者と看護師という境界線に甘えて、自分の感情に蓋をすることばかりを考えていたのだと思う。
でも、堂島さんの言葉は、その蓋を容赦なくこじ開けてしまった。
彼女が去ったあとの静かな廊下に、遠くの街のざわめきだけがかすかに響いている。
私は窓の外に広がる闇を見つめながら、自分がずっと奥底に隠していた名前のない感情と、ようやく正対しなければならないのだと理解していた。
夜の病院は、どこか不思議な場所に思える。
白い壁と消毒液の匂いに守られたこの場所で、私は今まで何度も、誰かを見送り、そして誰かを支えてきた。
でも今回ばかりは、自分自身がどこへ向かえばいいのか、足元が定まらないような危うさを感じている。
堂島さんの強さと、彼女が私に残した言葉が、暗闇の中で小さな灯火のように心を照らしている。
私はもう二度と、自分の気持ちを理由をつけて諦めることはできない。
それが誰のためなのか、私自身のためなのか、その答えさえもまだ分からないけれど、少なくとももう、自分に嘘をつき続けることは許されないのだ。
そう確信したとき、窓に映る自分の表情が、先ほどまでとは少し違って見えた。
私は深く息を吐き、重たい足を動かして、再び病棟の明かりの中へと歩き出した。
九条さんのいるあの病室へ向かう一歩一歩が、まるで別世界へと続く道のように感じられて、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
この先の結末がどうなろうと、私は自分の心に正直に、彼と向き合おうと決めた。
廊下の先にある病室のドアが、今はただの扉ではなく、私の新しい未来へと繋がっているように思えてならなかったのだ。
私はナースステーションで鏡に一瞬だけ自分の顔を映し、表情を整えてから、また一つ深く息を吸い込む。
堂島さんの優しさに報いるためにも、そして何よりも、私の心の中に芽生えたこの感情を最後まで見届けるためにも、私は立ち止まってはいられない。
病院の夜はまだ長く、空調の低い音が静かに室内に響き渡り続けていた。
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