第36話 不器用な謝罪
退院日が正式に決まってからというもの、あの病室の中に流れる時間は、目に見えないところで少しずつ形を変えていた。特別に何かが起こるわけでもなければ、交わされる会話の内容が劇的に変化したわけでもない。それでも、この場所での終わりが明確に近づいていると知ってしまった途端、それまで当たり前のように続いていた穏やかな日常が、急に限りのある貴重なものへと変わってしまったような錯覚に囚われる。
夜の巡回のため、私が再びその病室を訪れたときのことだった。九条さんはベッドの背もたれを少しだけ起こして腰掛け、手元にはスマートフォンを置いていた。ヘッドフォンは首に掛けたままになっていて、液晶画面には動画サイトの操作画面が表示されていたけれど、映像はほとんど見ていないことが一目瞭然だった。
以前の彼であれば、何ひとつ自分の思い通りに動かない時間を埋めるために、無理にでも画面を眺めて気を紛らわせていたはずだ。仕事もできず、愛用していた腕も思うように動かせない日々の中で、ただ無情に過ぎ去っていく時間そのものに耐えるための、切実な行為だったのだと思う。でも今は少し違う。何かに追われるような焦燥感ではなく、もっと静かな思索の中にいるような気がした。
「こんばんは。少し遅くなりましたが、まだ起きていたんですね」
私は点滴の管を確認しながら、いつも通りの静かな声で問いかけた。すると九条さんは、スマートフォンをサイドテーブルに置いて、少しだけ肩をすくめて笑った。
「こんばんは。……何か最近、寝る前に昔のこととか、これからのことを考えすぎる癖がついてしまったんだ。あんたが来るまで、ずっと天井の模様を数えていたんだよ」
少しだけ冗談めかして言った彼の顔は、心なしか以前よりもずっと明るい。
「それは少し健康的じゃないですね。体を休めるのも、回復の一環ですよ」
そう返しながら、私は手元の記録紙に今日の記録を書き始める。病室には医療機器が刻む小さな電子音だけが一定の間隔で響いていて、窓の外に目を向けると、遠くの街の明かりが星のように瞬いている。そして、一通りの確認を終えて、私が帰ろうとして立ち上がったその時だった。
「玲さん。……少しだけ、時間をくれないか」
不意に呼び止められて、私は動きを止めて振り返る。九条さんは私から視線を少しだけ逸らし、指先でベッドのシーツを無意識にいじっている。何かを言いたそうに口を閉ざすその仕草は、もう今なら何を意味しているのかが手に取るように分かった。
「どうしました? まだ何か、体調に不安なところがあるんですか」
私は心配して尋ねた。すると彼は、困ったように眉を下げ、自らの不器用さをさらけ出すような声で口を開いた。
「いや、体は平気だ。そうじゃなくて……その、最初の頃は、本当にすみませんでした。あんたに、ひどい言葉を投げつけてばかりいた」
私は突然の謝罪に驚いて、少しだけ首を傾げてしまう。
「最初の頃ですか? 何のことでしょう」
「同情するなとか、無機質だとか。……あんたの優しさを、勝手に押し付けられた善意だと決めつけて、突き放してばかりいた。あの時は、何もかもが嫌になっていて、自分の惨めさをあんたにぶつけることしかできなかったんだ。本当に、大人げなかったと思ってる」
彼は一度言葉を切って、私の目を見て言葉を続ける。
「あんたはただの看護師として、俺の健康を思ってくれていただけなのに。俺はそれを、どこか見下すような目で見ていた。今思い返すと、あんたの真摯な対応に対して、あまりにも敬意を欠いていたと思う。自分の弱さを認めたくなくて、一番近くにいたあんたを傷つけることで、自分を守ろうとしていたんだ。本当に……済まないことをした」
彼は深く頭を下げて、これまでの自分の態度を一つひとつ、丁寧に後悔するように口にした。言われた瞬間、私はあの日の記憶を鮮明に思い出していた。
何をしても拒絶され、閉ざされた扉を叩き続けていた時期のことだ。必要な処置を淡々とこなしているだけなのに鋭い視線を向けられ、どれだけ話しかけてもまるで壁に向かって独り言を言っているような、ひどく冷たい気分にさせられた時期だった。でも、不思議なほど心は穏やかだった。その記憶を思い返しているはずなのに、嫌な感情として心に残っていない。
「ちゃんと、当時のことを覚えてたんですね」
私は思わず、笑みをこぼしてしまった。
「当然だろう。あんたがどれだけ辛抱強く対応してくれていたか、今になってようやく理解したんだ。俺は随分と幼稚なことを言っていたな。俺のあんな態度に耐えて、いつも変わらず接してくれたあんたの強さに、今はただ敬意を感じているよ。本当に、俺はなんてことをしていたんだろうな」
九条さんは自分自身を責めるように、苦笑いを浮かべる。
「忘れてると思ってたか? 俺だって、そんなに薄情じゃないつもりだが。あんたにあんな態度をとったこと、今でも夢に出るほど恥ずかしいんだ。あの日々をやり直せるなら、最初からもっと素直に、あんたの言葉を聞いていればよかったと後悔してるよ」
彼はほんの少しだけ言葉を溜めて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「忘れられたら結構困るんだ。……今、一番困ることは、あんたがいなくなることなんだから。あんな風に突き放しておきながら、あんたがいない場所なんて考えられないなんて、自分でも虫がいいと思うよ。でも、そう言わずにはいられないんだ」
その直球のような言葉に、私は何も言い返すことができず、ただ呼吸を忘れて立ち尽くすことしかできなかった。まるで誰かに強く握りしめられたように、締め付けられるような痛みが走る。
「困る、なんて。退院してしまえば、私たちは患者と看護師という関係です。元通りの生活に戻れば、そう頻繁に会うこともなくなるでしょう」
私は精一杯、看護師らしく事務的な言葉で返そうとした。だけど、自分の声が少しだけ震えていることに気づき、慌てて口を閉じる。九条さんは私の言葉を聞くと、少しだけ悲しげに眉を寄せた。
「そうだな。あんたにとっては、俺も数多くいる患者の一人に過ぎないのかもしれないもんな。でも、俺にとっては、あんたはただの看護師じゃない。このどん底の時期に、唯一俺の心に触れてくれた人なんだよ。俺があんな態度をとっても、決して諦めないで向き合ってくれたあんたの姿が、今の俺を作っているんだ。本当に、ありがとう。そして、本当にごめん」
彼の言葉はぶっきらぼうな言い方なのに、そこにはどうしようもないほどの真実味が籠もっている。
「……私の言葉が、そんなに特別だったんですか」
私は戸惑いながらも、素直な疑問を口にした。
「ああ、そうだ。あんたの淡々とした、でも温かい言葉が、どれだけ俺の支えになったか。あんたは『玲さん』としてそこにいてくれた。それだけで、俺はまた立ち上がろうと思えたんだ。あんたに謝ることしかできない、自分の情けなさを、今は笑ってやってくれ」
彼は少しだけ苦笑しながら、手元にあったスマートフォンを握りしめた。
「退院した後のことは、まだ何も考えていない。ただ、あんたがいなくなると思うと、急にこの病院が妙に広く感じられて、落ち着かないんだよ」
私は何も答えられず、ただ逃げるように病室のドアに視線を向ける。後ろで彼の視線が背中に刺さっているような気がして、顔が熱くなるのを必死に抑え込む。
「……おやすみなさい、九条さん。また明日の朝に」
私はドアを閉める直前、そう小さく呟いてからその場を離れた。心臓がうるさいほどに脈打っている。彼が去るまでの残り時間は、刻一刻と短くなっているのに、私の中ではむしろ、彼との距離がこれ以上ないほど近づいていくような錯覚に陥っていた。
ナースステーションへ戻るまでの短い廊下で、私は何度も自分に言い聞かせる。これは患者との信頼関係であって、それ以外の何でもないのだと。
それでも、私の指先にはまだ、彼と言葉を交わしたあの病室の空気が、かすかに温かい記憶として残っていた。明日の朝、彼をどんな表情で見ればいいのだろう。そんな不安を抱えながら、私は夜勤の残りの時間を、まるで夢の中を歩くような心地で過ごしていた。
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