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<全話投稿> 一ノ瀬玲は、恋をしない ~触れない看護師と、壊れた彼の特別室~  作者: 第三ひよこ丸
第4章:ひとつの道へ

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第35話 終わりが近づく音

 退院の日が正式に決まったと告げられたのは、中庭での外出から数日後のことだった。その朝、九条さんの特別室に担当医である医師が顔を見せた。いつもの淡々とした表情で、彼は九条さんの容態が安定していることを伝え、退院に関する具体的な日程を告げたのだ。


「九条さん、昨晩の数値も良好です。検査結果を考慮しても、これ以上入院を継続する必要はありませんね」


 神崎医師は手にしたカルテを閉じ、少しだけ柔らかな視線を九条さんへ向けた。


「そうですか。ようやく、ここから出られるわけですね」


 九条さんはベッドの背を少し起こし、感情を抑えた声でそう答える。


「ええ。リハビリについては通院で継続していきましょう。自宅に戻ってからも、過度な負荷をかけることだけは避けてください。あなたの腕の状態は、あくまで『回復の途上』ですから」


 医師は事務的に、しかし確かに九条さんの生活を案じる言葉を添えた。


「わかりました。自分の体ですから、無理をするつもりはないです」


 九条さんはそう答えると、視線を窓の外へと向けた。

 

 患者さんが順調に回復し、当たり前の日常へと戻っていく姿を、私はこれまで看護師という立場で数え切れないほど見届けてきた。それは本来、医療従事者として最も喜ばしく、また誇るべき光景であるはずだった。


 だから私は、デスクに置かれたカルテに記されたその日付を目にした瞬間、胸の奥がずしりと重くなった理由を、あえて深く考えないように努めた。


 

 その日の午後、私は検温のために九条さんの病室を訪れた。ドアを開けて中に入ると、九条さんはベッドの上ではなく、窓際の椅子に腰掛けて外の景色を眺めていた。以前の彼であれば、何に対しても興味を示さず、空虚な表情で天井の角をぼんやりと見つめていただけの空っぽな時間だった。だが、今の彼は、ドアが開いた微かな音や空気の揺れにすぐに気づき、ふわりと自然な動作でこちらへ視線を向けてくれるようになっていた。


「玲さん。……何か今日、少し変だな」


 病室の空気に馴染むよりも早く、彼はぶっきらぼうにそう指摘してくる。親しげでありながらも、突き放すような独特の口調で。


「えっ……変ですか? いつもと変わらないはずですが」


 私は慌てて看護師としての仮面を被り直し、努めて平静を装った。


「そうかな。なんとなくそう見えただけだ。いつもより表情が硬いというか、どこか遠くを見てるような気がしたんだよ」


 彼はそう言って、少しだけ悪戯っぽく口元を緩めている。


 私は手際よく体温計を準備しながら、鏡を見ることもなく曖昧な笑みを浮かべて返した。


「失礼ですね。いつも通り、真面目に仕事をしてますよ」


 私の言葉を聞いて、九条さんは椅子から立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。多分、彼は正しいのだろう。今の私は、自分でも驚くほど挙動不審で、どこかちぐはぐだったのだ。自分自身の心の奥底で渦巻いている感情を、どうにかして押し殺そうとするあまり、表情の筋肉が硬直しているのは分かっていた。ただ、その原因を認めてしまうと、自分の立っている場所が崩れ落ちてしまいそうで、どうしても認めるわけにはいかなかったのだ。


「そんなに慌てて体温計を出さなくていいだろ。今日は俺、ちゃんと熱もないはずだぞ」


 九条さんが私の手元を覗き込みながら、少しだけ距離を詰めてくる。


「基本ですから。退院が決まったからって、油断は禁物ですよ」


 私はわざと事務的な口調で返しながら、体温計のスイッチを入れる。


「そうだな。……でも、退院か。なんだかあっという間だったような、ひどく長い時間だったような不思議な気分だ」


 彼が投げやりに呟き、私の顔をじっと見つめてくる。


 (退院が嬉しくないわけじゃない。彼が良くなることは、私の看護師としての目標だったんだから)


 私は自分自身にそう言い聞かせ、目の前の現実から目を逸らす。でも、終わってほしくない、このままずっとこの閉ざされた関係性の中に留まっていたいと願っている自分がいることを、今の私には素直に受け止める勇気がなかった。


 九条さんが去った後、この部屋に別の患者さんが入り、私の日常はまた何もなかったかのように元通りに戻っていく。その未来図を想像するだけで、手元に触れるプラスチックの体温計の感触が、無機質で冷たいものに思えて仕方がない。


「九条さん。退院しても、リハビリは続けてくださいね。無理は禁物ですから」


 私はあえて話題を治療の方向へと強制的に戻した。


「分かってるよ。……玲さんも、あんまり無理して、自分一人で抱え込まないようにしろよな」


 彼の方が私の内側を見透かすように、ぶっきらぼうに諭すような声で伝えてくる。


 私は「はい」と短く返して、彼の手から体温計を受け取った。体温計が鳴るまでの数秒間が、まるで一生続くかのように長く、そして心細い時間に感じられる。


 窓の外では雲がゆっくりと形を変えて流れていく。この部屋の窓から見える空と、私が中庭で彼と一緒に見上げた空は、同じはずなのにどうしてこんなにも遠くに見えるのだろうか。彼はもう、この箱の中から飛び立つ準備を終えていて、私だけがこの白くて四角い場所に留まり続けている。


「……36.5度。異常なしですね。これで、検温は終わりです」


 私は体温計をトレイに置くと、すぐに踵を返そうとした。


「玲さん。退院までの間、もう少しだけ話してかないか。……次にまた会えるなんて約束も、まだないんだから」


 彼のぶっきらぼうな言葉が、私の足止めをくらうように背中に突き刺さる。

 私は振り返ることなく、小さく肩を震わせた。


「そうですね。……もう少しだけなら、話してもいいですよ」


 私は振り返って、彼に向かって看護師として一番自然な微笑みを返した。本当は泣き出しそうな心を隠しながら、私は彼の隣の椅子に腰を下ろす。


 終わりが近づく音は、まるで秒針が刻まれるように、私たちのすぐ近くまでやってきていた。窓から差し込む午後の陽射しは、彼がここを去る日には、もっともっと眩しくなるのだろう。私はその日を待つまでの残された時間を、ただ静かに噛みしめることしかできないでいた。


「故郷の話、もう少し聞かせてくれますか?」


 私がそう問いかけると、九条さんは嬉しそうに目元を和ませた。二人の間に流れるのは、病院という場所には似つかわしくない、切なくて温かい時間。


 私は時計を気にすることをやめ、彼の語る故郷の景色に、自分の意識を同調させていく。それはまるで、遠い国へと旅立つ船を見送る準備のようであり、あるいは自分自身の中に閉じ込めたままの感情を、少しずつ解放していく儀式のようでもあった。


「いいよ。俺が子供の頃、よく遊んでいた川があるんだ。あそこの流れは本当に速くて、夏になるとみんなで飛び込んで遊んだもんだよ。今はもうそんな元気もないけれど、あの水の冷たさだけは肌に焼き付いていて、たまに無性に恋しくなるんだ」


 彼の声は、心臓の奥底まで染み渡るように、淡々としているのにどこか温かい。私は黙って耳を傾け、彼が描き出す景色の中に、二人で過ごした時間を重ね合わせていった。


 退院までのカウントダウンは、もう止められない。でも今だけは、その音を聞かないふりをして、彼が紡ぐ言葉の一音一音を、心の中に大切に刻んでいくことにしたのだ。


 私たちは、いつかこの場所で過ごしたことを、ただの日常だったと懐かしく笑えるようになるのだろうか。そんな未来のことなど想像もつかないまま、私は彼が話す言葉に合わせて、時折小さく相槌を打ち続けた。


 「そこに行けば、本当に何もしなくていい時間が流れているような気がするんだ。都会で仕事に明け暮れていた時とは、まったく違う時間がさ」


 九条さんはそう言って、窓の外の空を見つめる。私は彼が語るその場所に行けるはずもないのに、不思議とそこにいる自分を想像してしまっていた。


 (ずっと、このままがいい)


 そんな独り言を胸の中に隠し、私はまた、看護師という仮面を整える。


 「素敵な場所ですね」


 私は努めて冷静に言葉を返す。彼の物語は続いていく。私はその物語の、ほんの小さな一節に過ぎないとしても、今この瞬間の温もりだけは、嘘偽りのない私自身のものだと思いたかった。


 九条さんは満足そうに頷き、また故郷の話を始める。私たちがこの先、どんな人生を歩むとしても、この午後の静かな時間が、いつかどこかで誰かの救いになることを願って、私は深く深く息を吐き出した。

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