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<全話投稿> 一ノ瀬玲は、恋をしない ~触れない看護師と、壊れた彼の特別室~  作者: 第三ひよこ丸
第4章:ひとつの道へ

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第34話 中庭の風

 リハビリの一環として、短時間だけ中庭へ外出することになったのは、それから数日後のことだった。病院の敷地内にあるその場所は、決して広い面積を誇るような庭ではないが、四六時中、白い壁と冷たい床に囲まれた建物の中で過ごす人にとっては、まるで別の世界のように思えるほど開放的な空間であろう。


 運ばれてくる海風の匂いも、頭上に広がる空の色も、さらにはゆっくりと刻まれる時間の流れさえも、病棟の中とは微妙に違って見える。


 私はゆっくりと車椅子を押しながら、その前方に座っている九条さんの後ろ姿を、少しだけ離れた位置からぼんやりと見つめていた。


 ほんの少し前まで、この人は何に対しても無関心で、ただ虚無だけをその瞳に映していたのだ。フリーのエンジニアとして自立し、誰に頼ることもなく積み上げてきたキャリアも、自慢だったはずのその腕の自由さえも奪われて、これからの人生を考える余裕なんて欠片も持っていなかったはずなのに、今はこうして、しっかりと前を向いて広い空を見上げている。


 中庭の端にあるベンチの近くまでやってきたところで、私は歩を止めて車椅子にロックをかけた。風が思ったよりも強く吹き抜けていき、植え込みにある背の高い木の葉が、さらさらと音を立てて激しく揺れている。


 しばらくの間、二人とも何も話さず、ただ静かにその木漏れ日の中に身を置いていた。でも最近は、そのようにして沈黙が続く時間が、不思議と苦痛に感じられることはなくなっていた。


 最初の頃は、看護師として何か気の利いた言葉を口にしなければならないような焦りがあって、必死に話題を探していたものだった。なのに今は、こうして互いの気配を感じながら、何も話さないまま隣にいることが、驚くほど自然なこととして受けള്ളられているようになっている。


 風が木の葉を揺らす音だけが響く中、九条さんがゆっくりと口を開いた。


「入院したばっかりの頃はさ、退院できたら以前の生活にそのまま戻ることしか考えてなかったんだ」


 彼は視線を空の彼方へ向けたまま、ぽつりとこぼす。


「とにかく、元の状態に戻らないと駄目だと思っていた。納期に追われて、いくつもの案件を掛け持ちして、深夜までディスプレイに向かい続けてさ。そんな生活も、今思えば自分を縛り付けていただけだったのかもしれないな」


 私は相槌を打たず、ただ彼の背中を見守った。今の彼にとって、過去の自分を振り返ることは、治療と同じくらい大切なプロセスなのだと感じるからだ。


「フリーランスっていうのは気楽なもんだと思ってたけど、結局は数字と納期に支配されてたんだよ。当時はそれが自分の価値だと信じ切っていたけど、ふとした瞬間に、ずっと何かに追われるような息苦しさを感じていたことにも気づいていたんだよ」


 九条さんが車椅子の肘掛けに手を添え、小さく力を込める。彼の指先に、わずかな緊張が走ったのが見えた。


「その息苦しさに、気づいていながら無理をしていたんですね」


 私が問いかけると、彼は苦笑した。


「ああ。気づかないふりをしてたんだ。認めたら、自分が負け組になる気がしてさ。一人で何でもこなせるっていうのが、唯一のプライドだったから」


 彼は一度言葉を切って、大きく息を吸い込んだ。


「でも、こうして一度すべてを失ってみると、不思議と視界が晴れるものだな。どれだけシステムの設計書を書いて実績を積んでも、いざ自分が動けなくなれば、クライアントはあっさりと代わりのエンジニアを見つけて仕事を割り振るんだ」


 私は彼の言葉の重みを、少しずつ受け止めていく。


「代わりがいるという事実は、案外と救いにもなるんじゃないですか?」


 彼は小さく頷き、遠くの雲を眺めた。


「そうだよな。結局、俺が守ろうとしていたものは、俺自身の人生じゃなくて、他人からどう評価されるかという虚像に過ぎなかったのかもしれないな」


 風が強く吹き抜けて、私の前髪が乱れて頬へとかかる。私はそれを手で払い、彼の表情を盗み見るようにして眺めた。


「そう思えるようになったのは、大きな変化ですね。今まで九条さんは、それこそ必死になって、たった一人で走ってきたわけですから」


 私が静かに声をかけると、彼は少しだけ自嘲気味に口角を上げた。


「そうだな。走り続けなきゃ、どこにも居場所がない気がしていた。でも、もう同じスピードで走る必要はない気がするんだ。これからは、もっと地に足をつけて生きていきたい」


 彼が再び前を見据える。その横顔には、かつてないほどの穏やかさが宿っているように見えた。


「具体的には、何か考えていることはあるんですか?」


 私が尋ねると、彼は少し考え込むような仕草を見せた。


「例えば、実家の方へ戻って、のんびりと空いた時間で何か自分の手でモノを作るような仕事をするとかさ。ずっと都会の喧騒の中にいたけど、故郷の景色を思い出すと、意外と悪くないなって思えるんだよね。いっそのこと、完全に仕事も変えて、生まれ故郷に帰ろうかなとも考えているんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、私の心臓が警鐘を鳴らすように激しく脈打った。彼がこの場所を去り、私が二度と会えない場所へ行ってしまう。そんな予感が、頭の中を真っ白に染め上げる。


「ダメ!」


 反射的に、私は声を荒らげていた。九条さんが驚いたように、大きく振り返る。


「……え?」


 私は自分の失態に気づき、頭を抱えたい衝動を必死に抑え込む。自分の声が中庭の空に溶けていく中、私は懸命に思考を巡らせた。


「あ、いや……その、ダメというか、まだ早い気がして。リハビリもこれからが本番ですし、今すぐ将来を決める必要なんてないんじゃないかと思って……つい、驚いてしまって」


 私は無理やり笑みを浮かべ、必死にごまかす。自分の鼓動が、静かな庭に響いてしまうのではないかと思うほど激しく打っている。


「……そうか。驚かせたみたいだな。まだ先のことだから、そんなに深刻になる必要はないのに」


 彼は私の動揺を、ただの心配だと思っているようだ。私はホッと息を漏らしながらも、まだ胸の奥がざわついているのを感じた。


「それに、故郷に戻るなんて、寂しいじゃないですか。ここにはまだ、あなたの力や、関わりが必要な人もいるはずですし」


 そんな言い訳が、あまりにも自分勝手であることは分かっていた。でも、今の私の心にある切なさを、彼に言葉にして伝えることなんてできるはずがない。これは患者と看護師という、境界線の上に成り立つ束の間の日常なのだ。私は車椅子のグリップを握り直し、ゆっくりと病院の建物の方へと向きを変えた。


「そろそろ戻りましょうか。あまり冷えると、せっかくの回復も遠のいてしまいますから」


 私の言葉に、九条さんは小さく笑いながら頷いた。


「ああ、そうだな。……ありがとう、玲さん。今日はいい気分転換になったよ。いろいろと考えていたことが、少しだけ整理できた気がする」


 またその名前で呼ばれて、私はまた少しだけ動揺しそうになる。でも、先ほど見せた弱さを悟られないように、私は努めて毅然と車椅子を押した。


 廊下へと戻るための扉を開け、再び白い壁の世界へと足を踏み入れる。中庭の風が、扉の向こうに置いていかれるような感覚。私は少しだけ振り返り、もう一度だけ中庭の空を眺めてから、静かに扉を閉じた。


 日常の業務に戻れば、私はまた、彼を「九条さん」と呼ぶ看護師に戻らなければならない。この心地よい沈黙も、名前を呼び合う特別感も、いずれは過去の景色として整理されていくのだ。そう自分に言い聞かせながら、私はまた、彼を元の場所へと送り届けるために、一定の歩調で廊下を歩き続けた。


 (帰ってしまうのね)


 そう考えると、足取りが鉛のように重くなる。彼が元気になることは、私の看護師としての願いであるはずなのに、今の私は矛盾する感情の間で引き裂かれそうだった。


 彼は私にとって、単なる一患者に戻るのか、それともこのまま関わりを持ち続ける関係になるのか。扉を閉めた後も、私の手元には彼を乗せていた車椅子の冷たい金属の感触だけが残っていて、その冷たさが今の私の心境をそのまま表しているようだった。


 私はナースステーションに戻り、何食わぬ顔で申し送りの書類を開く。そこに書き込まれた九条の経過報告の横に、小さく私の名前を添える。その名前が彼に届くことはないけど、そうすることでしか、今のこの揺らぎを留めておく場所がなかったのだ。

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