第33話 名前
翌日から私は、自分でも驚くほど少しおかしくなっていた。もちろん看護師としての仕事に支障が出るようなことは断じてないし、ルーチン化された処置を間違えたり、患者さんへの対応が事務的になったりするようなことは決してなかった。ただ、自分でもうまく説明できないくらい小さな違和感が、心臓の奥底という場所へ静かに引っかかったまま、どうしても取れなくなっていたのだ。
その理由については、自分自身で痛いほど理解していた。昨晩、九条さんから向けられた言葉と、そのとき流れた妙な空気が、今の私を支配しているからだ。
「堂島さんと似ているよな」
たったそれだけ、ほんの数秒の会話だったはずなのに、頭の中では何度も何度も繰り返しその声が再生されている。
今まで私は、誰かに自分の内側を見抜かれることを、何よりも避けて生きてきたつもりだった。必要以上に感情を表面に出さず、自分と他人の間に明確な境界線を引き、一定以上の距離を保って、表面だけを整えていれば、自分の奥深い部分まで見られることはないと思っていたのだ。
でも九条さんは、そんな私の複雑な防衛本能を意識している様子すらなく、いとも簡単にその線を飛び越えてきてしまう。
午後の処置を終えて特別室で記録を書いていると、不意に背後から声がかかった。
「玲さん」
その響きに、私は一瞬、自分が呼ばれたのだと理解するまでに時間がかかった。今までずっと彼は私を「看護師さん」や「あんた」と呼んでいたからだ。反射的に振り返ると、そこにいたのは、点滴スタンドに寄りかかるようにして、ベッドの上からこちらを見つめる九条さんだった。
「なぁ、悪いんだけどよ。玲さん、そこの水を取ってくれないか」
私は数秒ほど反応が遅れてしまい、心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。今日この瞬間、初めて彼が私の名前を呼んだのだ。その場では特に気にすることなく、淡々と受け流しているつもりだったのだ。
「……玲さん、ですか?」
思わず問い返してしまった私の声は、少しだけ上ずっていた。
「ああ。これからはそう呼ぶことに決めたんだ。ダメか?」
九条さんの言葉に、私は戸惑いを隠せなかった。名前で呼ぶことが、当然のことのように言われても、私にとっては決定的な変化だからだ。
「……違います。ダメなわけじゃありません。ただ、九条さんにとっては私は『一ノ瀬さん』と呼ぶ相手だと思っていましたし、それとも『看護師さん』と呼ぶべき存在だとばかり……。急に名前で呼ばれると、どう接していいか分からなくなります」
九条さんは悪びれる様子もなく、むしろ不思議そうに私を見つめている。彼の屈託のないその瞳に、私はどう答えるべきか迷った。
「不満なんてありません。ただ、少しだけ驚いただけです。今までそう呼ばれたことがなかったので」
立ち上がってマグカップに水を注ごうとした瞬間、指先が不自然に震えて、注ぎ口から水が溢れ出した。ポタポタとデスクにこぼれ落ちる水滴を見つめながら、自分の鼓動が妙に速くてうるさいことに気づく。
一度こうして強く意識してしまうと、どうしても駄目だった。どうして急に、そんな呼び方を変えてきたのか。九条さんなりに何かを考えた結果なのだろうか。
昨日、堂島さんと激しく言い合った際、彼がこちらの内面までじっと観察していたことを思い出す。名前で呼ぶことが、私という人間との距離を詰めるための、彼なりの決断だったのではないか、とそんな推測が頭をよぎる。
名前なんてただの記号であり、単なる呼び方に過ぎないはずなのに、呼ばれた瞬間に心の距離まで大きく変わってしまったような気がして、激しく落ち着かなくなる。
「どうしたんだよ。そんな顔して。名前くらいで大げさだな」
九条さんが不思議そうに首を傾げて聞いてくる。
私は動揺を悟られまいとして、慌てて水滴を拭い、首を振った。
「何でもないです。少しだけ、空調の加減で熱くなっただけですから」
何でもないはずだった。何でもないはずなのに、その日の夜、病院の宿直室でベッドへ入ってからも、ずっと記憶の中で思い出していたのは、仕事の内容でも、他の患者さんの容態でもなく、ただ自分の名前を初めて呼ぶ彼の低い声だった。
(どうして、あんなふうに当然のように名前で呼ぶのよ)
私は毛布を頭からかぶり、誰にも聞こえない声で独り言を呟く。
(玲さん、なんて。そんなふうに呼ばれるだけで、どうしてこんなにも私という人間が、剥き出しにされているような気持ちになるの)
窓の外では夜風が木々を揺らしている。病院という箱の中で、私たちは昨日までの関係性を維持しなければならないのに、今日という一日は私にとって、あまりにも長い時間に感じられた。彼の声が、記憶の回廊を何度でも駆け巡る。
堂島さんの名前と、私の名前が、彼の口の中で同じ重さで扱われていることに、どうしようもない嫉妬と、似た者同士であるという事実が、交互に波のように打ち寄せては引いていく。
私は深く息を吐き出し、目を閉じる。明日になれば、また検温の時間に彼の部屋へ行かなければならない。そこには昨日と同じベッドがあり、同じスマートフォンがあり、そして同じ私がいる。でも、名前が変わってしまった以上、何もかもが昨日までと同じではいられないことを、私は薄々理解していた。
(看護師としての距離を、早く取り戻さないと)
そう自分に言い聞かせても、名前を呼ばれた時の温度だけは、手のひらにまだ残っているような錯覚に陥る。私は拳を握りしめ、自分自身の心に鍵をかけようと努めた。ただ名前を呼ぶだけで私の心の均衡を崩した九条さん。それに、私はただ翻弄されるしかなかった。
夜はまだ深い。廊下の先で、遠くから別の看護師の足音が聞こえてくる。私はその音が遠ざかるのを待ってから、もう一度だけ、自分の名前を口の中で反芻した。「玲さん」という響きが、自分のものではなく、彼に贈られた言葉のように感じられて、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
この感情に名前をつけるわけにはいかない。これは看護師としての共感であって、それ以外の何物でもないのだ。そうやって何度でも自分を偽り続けることが、今の私にできる唯一の防御策だった。
翌朝、ナースステーションで申し送りの準備をしている間も、私はずっと彼との会話のシミュレーションを繰り返していた。いつも通り、事務的に、冷静に、彼に接することができるだろうか。不安は募るけれど、その不安を打ち消すために、私はカルテを何度も読み直す。そこにあるのは、九条という名前と、私の名前。それ以外の関係性は、この書類には一行も書かれていない。私はその事実だけを頼りに、また一日の業務へと踏み出す勇気を絞り出していくのだ。
彼はこれから、私をどう呼ぶのだろうか。もう一度、あの名前で呼んでくれるのだろうか。そんな期待と恐怖が入り混じった感情が、今の私を内側から焼き尽くしていく。
自分自身が誰なのかさえ分からなくなるような、不思議な感覚。私は深呼吸をして、看護師としての表情を整える。
扉の向こうには、昨日とは違う関係性が待っている。そう信じて、私はナースステーションを後にした。
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