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<全話投稿> 一ノ瀬玲は、恋をしない ~触れない看護師と、壊れた彼の特別室~  作者: 第三ひよこ丸
第4章:ひとつの道へ

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第32話 似ている二人

 その日の夜勤は、幸いにも比較的落ち着いた時間を過ごすことができていた。ナースステーションを飛び交う緊迫した報告も、深夜二時を過ぎれば徐々に数を減らし、病棟の廊下には重々しい静寂だけが居座っている。


 巡回を終えたあと、最後に九条さんの部屋へ顔を出すと、彼はベッドの上でぼんやりとスマートフォンを手にしていた。動画サイトを開いているようだったけれど、流れてくる画面の光を反射させるだけで、彼自身の瞳には何の感情も映っていないことがすぐに分かった。


 以前もこんなふうに、ただ天井の一点を見つめているような姿を見たことがあった。あの日々、何もできなかった頃の、空っぽになった時間の使い方にそっくりだったのだ。私は静かにベッドサイドへ歩み寄り、トレイを置く音すら消すように配慮しながら、手際よく体温計を脇に挟み込む。


「眠れないんですか?」


 私が静かに声をかけると、九条さんは画面から目を離し、少しだけ気だるげにこちらを向いた。


「眠くないわけじゃないんだけどさ。いろいろ考えてたら、寝るタイミングを逃しちまったんだよ。……あんたさ、夜勤で忙しいときに悪いな」


 私は手元の記録用紙を埋めながら、彼との会話を途切れさせないように意識する。看護師としての業務的な振る舞いを崩さないように、細心の注意を払っていた。


「また仕事のことですか? 堂島さんが今日言っていた、新しい環境の話で迷っているのなら、あまり無理をしすぎないほうがいいですよ。体調が第一ですから」


 軽く聞く私の言葉に、九条さんは少し考えるような間を置いてから、ゆっくりと首を振った。


「いや、仕事のことじゃない。……堂島さんのことだ。今日、あんたが検温に来た時に彼女が部屋に入ってきて、師長まで巻き込んで激しく言い争っていたろ? 俺、あの光景が頭から離れなくてさ。明らかに俺のことで揉めていたのは分かったけど、二人とも何ひとつまともに教えてくれないし、気になって仕方ないんだよ。俺を蚊帳の外にして、一体何をそんなに必死になっていたんだ?」


 その言葉の端々に、やり場のない苛立ちと、自分の人生を巡る決定事項から意図的に遠ざけられていることへの悔しさが滲んでいる。九条さんの瞳には、ただ戸惑うだけでなく、私たちの言葉の端々からこぼれ落ちた()()を必死に汲み取ろうとする、切実な熱が宿っていた。


「すごい人だよな。頭もいいし、仕事もできるし、何より自分の道を自分で切り拓く力がある。多分、俺なんかよりずっと強い。でも、最近ふと思うんだ。……何か、あんたと似てるなって」


 思わず、私は顔を上げた。意味が分からなかった。堂島さんと私は、性格も立場も、何もかもが違うと思っていたからだ。


「どこがですか!?」


 聞き返すと、九条さんは少しだけ自嘲気味に笑った。


「人のためなら、自分のことを後回しにするところだよ。俺のためにあれだけ必死になれる堂島と、俺のためにいつも一生懸命なあんた。俺のためにあんなふうに激しくぶつかり合って……見ていて、どこか同じものを感じるんだ。あんなふうに、自分のことなんて二の次にしてさ」


 九条さんは、私たちが昨日の言い争いで何を叫んだのか、その核心を知りたがっている。彼が私を見つめる瞳は、隠された何かを暴こうとするのではなく、ただ私という人間が抱えている痛みを受け止めたいという、純粋な好奇心に満ちている。


 (私はずっと、誰にも踏み込ませないようにしてきたのに)


 あの時、堂島さんに「逃げるな」と怒鳴られ、私も負けじと「誰の心も壊したくない」と叫び返した。あの時の理性をかなぐり捨ててぶつかり合った醜い姿。師長の警告さえも無視して感情を剥き出しにしたあの時間が、彼には『彼を想うがゆえの献身』に見えていたのだろうか。


「そんなことはありませんよ。堂島さんは、もっと強くて、理知的な方です。私とは違います」


 精一杯の否定だった。けれど、九条さんは私の目を見て、静かに首を振る。


「強さの種類が違うだけだよ。堂島さんは攻撃的なほど真っ直ぐで、あんたは自分を削ってでも守り抜こうとする。俺の未来を巡って、二人で……いや、二人だけじゃない、師長まで巻き込んで騒動になってしまって。結局、あの時、何を言い争っていたんだ? 俺のことだろ、言い争ってたのは」


 彼の直球の問いに、私は息を呑む。彼にとって、あのいさかいは、自分の人生を巡る決定的な分岐点であるはず。それなのに、誰も自分に内容を明かさず、ただ感情をぶつけ合っていたのだから、気が気ではなかったはずだ。


「……忘れてください。ただの意見の食い違いです」


 私は逃げるように視線を逸らす。しかし、九条さんはベッドから少しだけ身を乗り出し、私の逃げ道を塞ぐように問いを重ねる。


「意見の食い違いなんかじゃないだろ。昨日、あんたが部屋から出ようとしたとき、堂島が言ったんだ。『また、そうやって逃げるの? 逃げるなっ!』って。それに続いてあんたが……自分自身のことを『誰の心にも踏み込まず、誰の心も受け入れないことで、やっと今日まで生きてきたのよ』って叫んだこと、俺はベッドで、全部聞いてたんだよ」


 九条さんの言葉に、私は全身の血の気が引くのを感じた。そうだった、あの時に居たんだった。


「俺は、その言葉の意味がずっと引っかかってたんだ。『私が、あなたを傷つけることを恐れて、壁を作っている。私の優しさが、あなたを患者としてしか扱っていない』って、堂島が指摘したことも全部。……あんた、そんなこと思ってたのかよ」


 九条さんは力なく天井を仰ぐ。彼の困惑は、私の勝手な解釈に対する呆れなのか、それとも私自身に対するものなのか、今の私には判別がつかない。


「あんたが俺を患者としてしか見ていないって、堂島が言ってたよな。……でもさ、それなら余計に聞きたい。じゃあ、結局あんたは俺のことをどう思ってるんだ? 自分の罪悪感を隠すための道具か、それとも、ただ守りたいだけの対象か。そこまで言っておいて、まだ隠すのかよ」


 彼は深く溜息をつき、再び私の方を向いた。彼の瞳には、私のすべてを見透かそうとする強い意志が宿っている。

 

 私は言葉に詰まった。私の孤独は、誰かを傷つけないための盾だった。だが、その盾は、一番守りたかった九条さんを、かえって疎外感という名の孤独に閉じ込めてしまっていたのだ。彼の問いは、まさにその盾に亀裂を入れる一撃である。


 私は震える手で記録用紙を握りしめ、看護師という皮膜を必死に保とうとする。だが、九条さんがじっと私を見つめる瞳は、もう誤魔化しを許さない強さを宿していた。


 明日になれば、また今日の続きが始まる。何事もなかったかのように、検温をし、点滴を確認し、同じ会話を繰り返す。それが私たちの日常であり、決して超えてはいけない一線なのだ。そうして私は、今日という日をまたひとつ、心の奥底に閉じ込めて眠りにつく。孤独という名の檻の中に、もう一滴の感情を流し込むようにして。


 彼が今、何を考え、私の言葉の裏側で何を求めているのか。私にはそれを読み取る勇気がない。ただ、彼が見つめる先のその瞳に、私の罪悪感が映り込んでいることだけが、今はたまらなく恐ろしくてならないのだ。

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