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<全話投稿> 一ノ瀬玲は、恋をしない ~触れない看護師と、壊れた彼の特別室~  作者: 第三ひよこ丸
第4章:ひとつの道へ

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第31話 選ばれる側ではなく

 病室の空気は、いつもと変わらない消毒液の匂いと、微かな日差しに満ちている。私は九条さんのベッドサイドに立ち、手際よく体温計を脇に挟み込んだ。


「失礼します、九条さん。検温の時間ですので」


 彼は静かに頷き、私と目を合わせることもなく窓の外へ視線を向けたまま、微動だにしない。体温計が鳴るまでの静寂の中、私は彼の手の甲に浮かぶ留置針(りゅうちしん)の様子を確認する。その時、病室の扉が開かれた。


 堂島さんだ。彼女は迷いのない足取りで中へ入ると、私と九条さんの間にすっと入り込むようにして立ち止まった。


「九条さん、昨日の件だけど、改めて詳細をまとめたわ」


 彼女は私の存在など目に入っていないかのように、そのまま九条さんに向き合って言葉を紡ぎ始めた。


「新しい環境は、すべて私が保証する。勤務形態もあなたの体調に合わせて自由に組めるし、何より、復帰後の報酬は今の水準を大きく上回るものを用意したの。あなたには、ふさわしい場所があるのよ」


 次々と語られる高待遇の条件。それは、私のような看護師が一生かかっても到底触れられないような、選ばれた人間だけが手にできる未来の提示。それを聞き、胸の奥が冷たく締め付けられる。彼が必要としているのは、私が提供できるささやかな安らぎではなく、もっと華やかで力強い、堂島さんが差し出すような世界なのだと突きつけられた。私は小さく一礼し、体温計を回収すると、早々にその場を立ち去ろうとした。


「失礼いたします。患者様の個人的な会話をお聞きするわけにはまいりませんので」


 私は努めて冷静に、看護師としての仮面を貼り付けたまま踵を返す。しかし、扉へ向かう私の腕が、背後から強く掴まれた。


「また、そうやって逃げるの? 逃げるなっ!」


 病室に響き渡ったのは、怒号に近い叫びだった。いつも優雅で洗練された堂島さんが、顔を紅潮させ、肩を震わせて声を荒らげている。そのあまりの剣幕に、私は心臓が凍りつくような驚きを覚え、その場に釘付けになってしまう。


 ベッドの上の九条さんは、さらに困惑を深めていた。彼は目を大きく見開き、信じられないものを見るかのように堂島さんの背中を凝視している。自分が何の話をされているのか、そしてなぜ堂島さんが目の前の看護師に対してこれほどまでに激情を露わにしているのか、皆目見当がつかない様子だった。


「あの、二人とも……一体どうした?」


 九条さんが何かを言おうと身体を起こしかけた、その瞬間だった。堂島さんは振り返りもせず、鋭い眼差しを九条さんに向けて言い放った。


「しばらく黙っててください」


 その迫力に圧されるように、九条さんは小さく息を呑み、力なく枕に頭を沈める。彼は何がなんだか分からず、ただ困惑した瞳で私たちを見つめることしかできない。口をつぐみ、肩を小さくすぼめた彼の姿は、まるで嵐の只中で身を隠す小動物のようだ。


 その怒声は、ナースステーションまで届いたらしい。廊下から慌ただしい足音が近づいてきたかと思うと、看護師長が息を切らして顔を出した。


「堂島さん、いくらなんでも声が大きすぎます! ここは病院ですよ。他の方の迷惑にもなりますので……」


 師長が威厳を込めて注意を促す。しかし、その声は先ほどよりもわずかに震えていた。彼女は堂島さんの持つ社会的影響力の大きさを知っている。堂島さんは冷ややかな視線を向け、軽く溜息を吐いた。


「私と彼、そして彼女の三人の問題よ。あなたには関係ないから、下がっていて」


 その拒絶を許さないほどの強い気迫に、師長は一瞬たじろぎ、表情を曇らせた。立場上、もう一度「どうかご配慮を」とだけ絞り出すのが精一杯だった。

 しかし、堂島さんが無言で突きつけた圧倒的な威圧感の前に、師長はそれ以上の追求を諦め、肩を落として廊下へと下がっていった。扉が静かに閉められ、再び病室には張り詰めた緊張感が満ちていく。


「自分の仕事という言葉で、どれだけ自分自身を偽れば気が済むの? 私たちがここで話しているのは、あなたのことでもあるのよ」


 堂島さんは私を突き放すように手を離すと、冷笑を浮かべて私を見る。私は行き場を失ったまま、閉ざされた扉の前に立ち尽くす。


「逃げていたんじゃない! 私はずっと、こうして壊さないように歩んできただけなのに! あなたに私の何がわかるの!」


 張り裂けんばかりの声が、自分の喉から飛び出した。それは自分でも驚くほどの叫びだった。私はただ、これ以上誰かの平穏を汚したくなかっただけだ。中学時代から続いた、この耐えがたいほどの罪悪感。誰かと親しくなるたびに、誰かの大切な日常を奪ってしまう恐怖。それを隠すために、どれほどの孤独を飲み込んできたことか。


「私はただ、誰の日常も壊したくないだけなの! 誰の心にも踏み込まず、誰の心も受け入れないことで、やっと今日まで生きてきたのよ!」


 私の絶叫に、堂島さんは一瞬だけ言葉を詰まらせた。彼女の瞳がわずかに揺れ、その完璧な武装が少しだけ崩れたように見えた。だが、すぐに彼女は鼻で笑い、私を射抜くような鋭い眼差しを突き返した。


「壊したくない? 違うわ、あなたはただ怯えているだけよ。自分の大切なものが他人に奪われることも、自分が誰かを愛してその責任を負うことも、すべて怖くて逃げ出しているだけ。そんな綺麗な言葉で、自分の殻に閉じこもる権利があなたにあると思っているの?」


「……っ、そんなことはない! 私はただ、これ以上誰かを傷つけたくないから!」


 私の言い分を、彼女は冷たく切り捨てる。


「傷つけることを恐れて何もしないのは、最初から傷つけるつもりでいるのと同じよ。あなたが看護師という『壁』を隔てて接することで、彼がどれほど自分を『患者』としてしか見てくれないあなたに、やりきれなさを感じているか想像したことはあるの?」


 堂島さんの言葉は、鋭い刃のように私の胸に突き刺さってくる。私が彼との距離を守り、献身的に振る舞えば振る舞うほど、彼は私に対して『それ以上の感情を見せてはいけない』という無言の圧力を感じていたのではないか。私の”優しさ”が、実は彼の心を拒絶する最強の防壁になっていたのではないか。


「それは……! 私は、ただ彼の回復を願って……!」


「回復を願うのはいいわ。でも、あなたは彼を一人の男として見ることを拒絶している。その態度が、彼を『病院という箱の中で動けない哀れな客』として扱っているのと同じだって、どうして気づかないの?」


 彼女の指摘は、まさに私の心臓のど真ん中を射抜く。私は彼を大切にしているつもりで、その実、自分の罪悪感から彼を保護観察下に置いていただけなのかもしれない。九条さんは、私の差し出す看護師の笑顔の裏側で、ずっと私という人間そのものに触れたがっていたのではないだろうかと。


「あなたは自分が犠牲になればすべてが丸く収まると思っている。でもね、一ノ瀬さん。選ぶのはあなたじゃない。彼なのよ。あなたが勝手に身を引くことが、本当に彼の望む結末なのかしら」


 彼女の容赦ない追及に、胸がえぐられるような痛みが走る。私の目からは、大粒の涙が止まることなく溢れ続けている。九条さんの困惑と、彼を沈黙させているこの残酷な状況が、今の私をさらに追いつめるように病室の冷たい空気を震わせていた。


 私は自分の指先を見つめ、小さく拳を握りしめる。今の私には、堂島さんの突きつける問いに対する答えが見つからない。

 私が積み上げてきたこの日常が、実は彼を深く傷つけていたのだとしたら、私はこれからどんな顔をして彼の前に立てばいいのだろうか。

 涙でぼやけた視界の中で、九条さんが心配そうに私を見つめているのが分かった。だけど、私はその視線を受け止めることができず、ただ打ちのめされたまま、その場に立ち尽くすしかなかった。

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