第30話 壊したくないもの
その日の午後、私は太陽の光を完全に遮断した部屋のベッドで、果てしない暗闇の中に沈んでいた。カーテンの隙間から漏れるわずかな光すらも、今の私にはあまりにも眩しすぎて、直視することができない。瞼を閉じれば、堂島の突きつけてきた言葉が、呪いのように脳裏で反響し、私を過去の迷路へと引きずり込んでいく。
本来、私はもっと情熱的で、誰かのために何かをすることを何よりも喜びとするような性格だったはずだ。しかし、私の孤独は、誰かを傷つけるまいと細心の注意を払えば払うほど、皮肉にも裏目に出てしまうという運命の渦の中で形作られていった。
小学校のころから、看護学校時代に至るまで、誰かと深く親しくなればなるほど、奇妙なほど残酷な結果が待ち受けていた。いつの間にか私は集団の中心に立たされ、周囲の友人たちが心から大切に想い、必死に護ろうとしていた相手の好意を、意図せずしてすべて引き寄せてしまうのだ。
そのたびに、私は親友と呼べる人たちの居場所を、私の意思とは無関係に、内側から少しずつ崩壊させていくような、言葉にできない重い罪悪感を抱え続けてきた。親密さというものは、私にとって決して甘い果実などではなく、誰かの日常を静かに侵食していく猛毒のようなものだった。
初めてその恐怖に直面したのは、中学二年生の時だった。当時は、何もかもを共有できる親友と呼べる子がいた。いつも一緒に帰り、些細なことで笑い転げ、私たちは一生ずっと一緒にいるのだと、幼い心で純粋に信じて疑わなかった。しかし、その絆は私の想像よりも遥かに脆く、残酷なほど簡単に壊れてしまった。
彼女が勇気を振り絞って想いを伝えた相手は、私が全く意識すらしていなかった少年だった。しかし、その少年が長年想いを寄せていたのは、他でもない私だったのだ。
「……私のことなんて、これっぽっちも見ていなかったんだね」
彼女がぽつりとこぼしたあの時の泣きそうな顔と、私に向ける軽蔑に満ちた冷ややかな眼差しが、何年経った今でも鮮明に目の裏側に焼き付いて消えない。その日から、彼女は私という存在を完全に無視し、私を避けるようになった。
周囲の視線も、それまでの温かさを失って凍りついていく。私には全く身に覚えのない悪い噂が、まるで伝染病のように教室中に流れ、私の机には醜い落書きがされ、掃除当番の時には体操服が汚されているような、小さな陰湿な嫌がらせが日常となった。
私はどうしていいか分からず、何度も両親に泣きつき、相談を繰り返した。両親は私の変貌を心から心配し、私の心を守るためにと、学区外の遠い中学校への転校という決断まで下してくれた。新しい環境なら、誰も私のことを知らない。誰も私を妬んだり、悪意を向けたりしない。そう信じて、私は新しい制服に袖を通した。
しかし、結末はいつも同じだった。新しいクラスでも、私はすぐに周囲の視線を集めてしまい、気づけば友人たちの嫉妬の矛先になっていた。どこへ行っても、私が誰かと親しくなろうとするたびに、その関係性は崩れ去っていく。
教師にも何度も打ち明けた。相談室で膝を抱え、どうすればいいのかと教えを乞うたこともある。しかし、教師からは「もっと自分から打ち解けなさい」「容姿が目立つのは仕方がないことだ」というような、私の深い苦悩を全く理解していない、表面的な助言しか返ってこなかった。
「先生、私はただ、誰かを壊したくないだけなんです」
そう呟いても、言葉は空中に虚しく響くばかりで、誰の心にも届かない。私にとっては命を削るような切実なSOSが、他人にとっては贅沢な悩みとして片付けられていく。その徒労感が、私をさらに深い孤独の海へと沈めていった。
あまりの理不尽さに、何度も夜中に声を殺して泣いた。暗い部屋で一人、自分が何をしたというのかと自分を責め続けた。枕を涙で濡らし、朝が来るのが恐ろしくて、布団の中で身体を丸めて震える夜が、どれほど続いたことだろう。
だからこそ、それ以降の私は、どれだけ熱烈な告白を受けてもすべてを冷たく断り続けてきた。誰の心にも決して踏み込まず、誰の心も決して受け入れない。それが、私という人間が生き残るための、唯一の方法だった。
高校に進んでも、その呪縛からは逃れられなかった。教室に足を踏み入れるだけで、多くの男子の視線が私を追う。しかし、それは私にとって安らぎではなく、警戒すべき脅威でしかなかった。
ある休日、かつての友人を見かけ、懐かしさに声をかけようとした時のことだ。彼女の隣にいた彼氏と視線が交差した瞬間、彼は私に一目惚れしたのだと、周囲が呆れるほど熱っぽく口説いてきた。その一件で、彼女は彼に振られ、私の元には壊れた友情の残骸だけが残された。
次から次へと溢れ出す記憶の断片は、止まることを知らない。中学時代、高校時代、そして看護学校へと至る道すがら、私は何度も自分の手で大切な何かを壊してきたような気がしてならない。
(どうして、私はいつもこうなるの……。私はただ、みんなと笑いあいたかっただけなのに……)
布団の中で、私は自分の手で口元を覆った。止めどなくあふれる涙が、堰を切ったように頬を伝い、枕をじっとりと濡らしていく。涙の粒は次々とこぼれ落ち、シーツの上に濃い染みを作っていく。あの頃の私が必死に積み上げた感情の殻が、今、九条さんの存在によって、あまりにも呆気なく砕かれようとしている。
看護学校へ進んだとき、周囲が女性ばかりだったことに、私はどれほど救われたか分からない。少なくとも、恋愛関係のもつれで友人を失うような悲劇は起こらないと信じられたからだ。私は、誰にも『愛されたくない』という生存戦略を選んだ。看護師としての献身的な態度は、誰かを慈しむためのものではなく、感情を殺し、自らを頑丈な檻の中に閉じ込めるための儀式だった。
自分の整いすぎた容姿を、誰かを傷つけるための”武装”と捉え、内面の私を見てくれる相手など存在しないのだと、とうに諦めていたはずだったのに。感情を枯らしてしまえば、もう誰かの平穏を壊すこともないはずだったのに。
それなのに、今の私はどうだろう。この閉ざしたはずの心の扉を、九条さんはあまりにも自然に、あまりにも無防備に、その不器用な優しさで押し開こうとする。堂島さんが私に突きつけた「最後にするな」という言葉が、遠いあの日々に捨ててきたはずの、あの傷つきやすい私が持っていた情熱を、容赦なく呼び覚ましていく。
(私は、誰かの大切な場所を壊すことなんてできない……誰にも愛されたくない、ただ、静かに誰かの役に立つだけでいいの……!)
溢れ出す涙は、もう止まることを知らない。目元が熱く焼け付くように痛み、呼吸をするたびにしゃくりあげてしまう。私は自分の過去を、数えきれないほどの「さよなら」を、そして孤独を積み重ねてきた自分自身を抱きしめるようにして、布団の中で何度も何度も震えていた。自分の無力さに、どうしようもない悲しみに、私はただ打ちのめされる。
彼が私の過去を知らないからこそ、純粋な眼差しで「一ノ瀬さん」と呼んでくれる。その言葉一つひとつが、今の私にはどうしようもなく重く、そして堪らなく愛おしい。私はこの感情が、またいつか、かつてのようにすべてを壊してしまうのではないかと、心のどこかで怯えている。
閉ざしていた扉を今さら開けて、光を入れてしまったら、もう二度と元には戻れない。私は、このまま看護師という鎧の中に隠れて、一生を終えるべきなのかもしれない。
それなのに、窓の外から入り込む微かな光が、私の瞼の裏で九条さんの笑顔を照らしているような気がしてならない。私は大きく息を吸い込み、消えない鼓動を胸に抱いたまま、この記憶という名の牢獄から抜け出す準備を始めた。
明日、彼に会う時、私はどんな顔をして扉を開ければいいのだろうか。
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