第29話 静かな宣戦布告
夜勤明けの気怠さが、朝の光とともに徐々に霧散していくような感覚だった。看護日誌を書き終え、私は病院の廊下にある大きな窓の前に立ち、小さく肩を回して筋肉をほぐす。神戸の街並みの向こう、須磨の海が夕日のような淡い色に染まり始めていた。
ふと、背後から声をかけられ、私は反射的に振り向く。そこに立っていたのは、九条さんの病室の主ともいえる存在、堂島である。彼女は病室で見せる自信に満ちた表情とは異なり、どこか柔らかい空気を纏っている。
「一ノ瀬さん、今、少しだけお話してもよろしいですか」
私は彼女の申し出に、深く頭を下げて応え、私は着替えを済ませてから中庭で話すことにした。
九条さんの病状について、何か深刻な報告があるのではないかと緊張が走る。しかし、彼女が発した言葉は、医療とは無縁の静かな響きを帯びていた。
「まずは、ありがとうございます。あなたのおかげで、彼は随分変わりました。最初は、加害者である私に敵意をむき出しにしていたくらいなのに。」
彼女は流れる雲を見つめたまま、小さく微笑む。私は驚き、すぐに首を振って否定の言葉を口にする。
「いえ、私は何もしておりません。担当の看護師として、当然のことをしているだけです」
私の言葉を聞いた彼女は、少しだけ可憐に笑みを深める。
「そういうところですよ、一ノ瀬さんは。……本当は、彼もそれを一番分かっているのじゃないかしら」
何が言いたいのか分からず、私はただ彼女の横顔を呆然と見つめることしかできない。堂島は視線を私に戻し、どこか打ち明けるような眼差しを向けてきた。
「彼はね、事故の被害者として私を憎んでもいいはずなのよ。世間の人は有名企業の社長と交通事故を起こした可哀想な人としてしか見ないし、彼だって最初は私に対して壁を作っていたわ。だけど、一ノ瀬さんは一度もそうした態度を見せなかったでしょう?」
私は小さく頷く。看護師として、彼を被害者ではなく九条という一人の人間として見ることが、私の唯一の矜持だった。堂島はそんな私の意図を見透かしているようだった。
「誰に対しても、ただの看護師として向き合うその姿勢が、彼にとってどれだけの救いだったか……私には痛いほど伝わってくるの」
彼女は少しだけ自嘲気味に笑った。
「私がいくら高級な差し入れを持ってきても、彼が本当に求めていたのは、そういう温もりだったのね。私のほうが、ずっと彼を傷つけている加害者だというのに、それでも彼が私と対等に話そうとしてくれるのは、一ノ瀬さんが彼を人として尊重し続けてくれたからよ」
堂島が九条に惹かれている。その確信に近い予感が、私の胸を鋭く突く。私は背筋を伸ばし、努めて冷静に言葉を紡ぐ。
「堂島さん、私と九条さんは、あくまで看護師と患者です。彼が少しずつ前を向いているのは、彼自身の意志と、堂島さんがこうして足を運び続けてくださっているからに他なりません。私はただ、彼の回復を支える役割を全うしているだけです。それ以上の感情は、ここには存在しません」
私の淡々とした否定に、堂島は一歩だけ距離を詰めてくる。彼女の瞳が、射抜くように私を捉える。
「本当にそうでしょうか? あなた、彼と話す時、声のトーンが少し変わるのを知っていますか?」
私は言葉に詰まる。胸の奥がひりつくような感覚に襲われる。
「彼が名前を呼ぶ時、あなたの瞳が僅かに揺れるのを、私は見逃していないわ。看護師という壁を盾にして、自分の心を隠しているだけでしょう?」
「……違います。私はただ、患者様として彼を大切に思っているだけです。そこに看護師以外の感情は含まれていません」
声を絞り出すようにして答えるが、自分の言葉が酷く空虚に響く。堂島は私の目をじっと見つめたまま、逃げ場を塞ぐように続けた。
「口ではなんとでも言えますものね。でも、あなたのその目、彼のことを想っている時のその表情は、私には痛いほど理解できる。だって私だって、同じだから」
図星を突かれ、喉の奥が張り付いたように声が出ない。私はただ、彼女の真っ直ぐな視線から逃げるように目を伏せるしかなかった。
「……お気持ちは分かりました。ですが、私の立場は変わりません。これ以上、個人的な憶測で話されるのは困ります」
私が冷たく拒絶しようとすると、堂島はふっと表情を和らげ、どこか寂しげな笑みを浮かべた。
「そうよね。あなたが簡単に認めるはずもないわ。でも、看護師と患者という関係性が、いつまでもあなたたちの心を守ってくれるわけではないということを、いずれ思い知ることになるわよ」
「……どういう意味ですか?」
「私は彼を、もう一度人生の表舞台へ引き戻そうとしているの。彼には、私の会社で新しい職を用意したわ。今までとは違う、彼に相応しい仕事よ」
堂島の言葉に、私は息を呑む。彼女は続けて、残酷なまでに穏やかな声で告げる。
「彼が今の世界から離れ、新しい職で私と共に歩み始めれば、看護師と患者という関係も自然と消滅する。その時、あなたは何者として彼のそばにいるのかしら?」
私は返すべき言葉を見失う。彼女は私を見つめる瞳に熱を帯びさせて、さらに一歩距離を縮めた。
「私はね、彼を支えるために、すべてを賭けているの。あなたには、それを壊す覚悟があるの? 彼の生活を、あるいはあなたの看護師としての人生を、すべて投げ出してまで彼と向き合えるの?」
その直球の問いかけに、私は呼吸を忘れて立ち尽くすほかなくなる。彼女の瞳の中には、私を凌駕するほどの激しい情熱と、それ以上に深い執着が渦巻いているようだった。
「……それは」
言葉が続かない。私はただ、彼女の真っ直ぐな視線から逃げるように目を伏せるしかなかった。堂島は私の反応を見て、わずかに満足げな笑みを浮かべる。
「その迷いが、何よりの証拠よ。一ノ瀬さんは本当に優しい方ですね。でもね、優しい人ほど、自分の気持ちを一番最後に回してしまうものですから」
彼女はそう言い残すと、振り返ることなく向こうへと去っていく。私はその背中を、ただ茫然と見送るしかできなかった。朝の光の中に溶けていく彼女の凛とした姿が、まるで今の私の心に決定的な言葉を刻み込んでいくようだった。
廊下には、朝日が静かに迫る。彼女の言葉が指し示した意味が、じわじわと私の胸の奥に広がり、冷たい波のように押し寄せてくる。私は自分が無意識のうちに抱えていた優しさという名の壁が、いとも簡単に崩れ去っていくのを感じる。
彼女の真っ直ぐな言葉は、私の心の奥底に隠していた感情を、容赦なく表舞台へと引きずり出した。九条を想う気持ちを、私は看護師という責任の中に押し込めていたに過ぎなかったのだと、突きつけられたのだ。
私はふらつく足取りで、誰もいないナースステーションの方へと向き直る。窓の外では、街が活気づく。須磨の海も深い群青色に染まっている。このまま家に帰って眠れば、全てが夢のようになかったことになるのだろうか。
心臓の奥で鳴り響く鼓動は、それが嘘ではないことを雄弁に物語っていた。堂島の言葉は、私にとっての宣戦布告であり、同時に私自身の心への、隠しようのない告白でもある。
私は中庭のベンチに背を預け、小さく溜息をつく。九条が病室で私を見せる、あの微かな安心と、名前を呼ぶ時の少しだけ不器用な響き。もし私が彼にとっての看護師という役割を捨てたなら、その関係は果たしてどう変化するのだろうか。
これまで私が守り続けてきた境界線は、あまりにも脆く、そしてあまりにも切ないものだ。堂島は、それを知った上で、私に最後にするなと告げたのかもしれない。彼女の強さと、私の弱さが、今まさに神戸の朝の光の中で静かに対峙しているような気分だった。
私は顔を上げ、もう一度だけ病室の方角を見つめる。そこには明日も、彼が寝息を立てて眠っているはずの空間がある。私は、自分の感情を最後に回すような、そんな自分自身の優しさを、もう一度見つめ直さなければならないと悟った。
夜勤明けの疲れは、もうどこにも感じない。代わりに、胸の中にはこれまでにない熱い何かが込み上げてくるのを感じていた。私は一歩ずつ歩き出す。それは、私の人生の中で、自分自身の心と向き合うための最も重要な一歩になるはずだった。
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