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<全話投稿> 一ノ瀬玲は、恋をしない ~触れない看護師と、壊れた彼の特別室~  作者: 第三ひよこ丸
第3章:境界線の消失点

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第28話 独白とリハビリ

 朝、制服に着替えてステーションへと足を踏み入れると、そこでは既に慌ただしい一日が始まっていた。カルテの山と格闘していた看護師長が、私の気配を感じ取ったのか、ふと顔を上げて手招きをする。


「一ノ瀬さん、おはよう。堂島様の面会対応、ご苦労様。昨日ね、帰り際にわざわざ私のところへ寄ってくださったのよ」


 師長は周囲を少しだけ気にするように声を潜め、視線を近づけてきた。


「堂島様といえば、業界でもその発言力が注目されている方でしょう? 彼女がね、『一ノ瀬さんの対応は、患者の心をしっかりと支えている素晴らしいものだ』と、SNSや関係者の間で話すと公言してくださったのよ。そんな方の評価が、私たちの病院の評判や信用にどれほどの影響を与えるか、あなたもよく分かるでしょう?」


 師長の言葉は、純粋な私の働きへの称賛というよりも、彼女という世間に影響力を持つ著名人を無事に味方につけたことへの祝辞のように聞こえる。私は引きつった笑顔を返し、言葉少なにその場を辞した。


 病院にとって彼女は、医療費を支払う一患者の知人という枠を大きく超えている。その一言で世間の評価を左右し得る存在であり、彼女に認められることは病院にとっての大きな資産なのだ。私の看護が彼女の目に留まり、それが社会的な評価へと変換されていく事実は、彼を守るための看護という私の意志を、どこか冷ややかな事務作業へと変質させていくようで、たまらなく嫌だった。


 

 その日の午後、私は再び九条さんの病室を訪れた。今日は堂島さんの姿はなく、室内は窓から差し込む柔らかな午後の陽光に満たされていた。


「……今日は、なんだか少し静かですね」


 私が点滴の交換をしていると、九条さんが窓の外を流れる雲を見つめながら、ぽつりと呟く。彼が堂島さん以外の人間に対して、これほど自分から言葉を投げかけるようになったのは、ここ最近の大きな変化だ。


「ええ、少しは休息が取れているなら何よりです。彼女、お忙しい方のようですから」


 私はあえて事務的なトーンを崩さずに返した。すると彼は、視線を窓から私へとゆっくり戻し、少しだけ表情を緩めた。


「……彼女のことは、実はよく知らないんだ。ただの事故の加害者であり、有名な会社の社長だという以上の情報は、何も持っていない。でも、彼女が来るとどうしてか、俺まで自分が何者であるかを忘れてしまいそうになる。まるで、俺自身がただの『責任の対象』になっていくような、そんな感覚なんだよ」


 彼は少しだけ自嘲気味に笑った。九条さんにとって堂島さんは、自身の平穏な人生を大きく狂わせた原因であり、同時に社会的な成功者という隔絶した存在なのだ。


 そんな彼の表情を見て、私は今日こそはと準備していた車椅子をベッドサイドに引き寄せた。


「九条さん、話は一旦そこまでにしておきましょう。今日はこれから理学療法室でのリハビリの時間です。両腕の骨折は癒合が進んでいますが、筋肉の拘縮を防ぐための訓練はこれからが本番ですから」


 私はあえて厳しい口調で切り出した。彼が自分の殻に閉じこもるのを防ぐため、そして何より、彼が再び日常を掴み取るための大切なステップだからだ。


「ああ、分かっている。……あんたが厳しい顔をする時は、手を抜かせてもらえないってことだよな」


 彼はそう言って、ゆっくりと体を起こした。私はその動作をサポートしながら、患部である両腕の装具を慎重に整える。理学療法士のスケジュールに合わせて、彼を車椅子へ移乗させる。その動作の一つひとつに、私は最大限の注意を払った。


 車椅子を押し、理学療法室へと向かう。道すがら、私は彼がリハビリでどれだけ頑張っているかを、看護師として客観的な視点で見守り続けている。廊下の段差に注意を払いながら、私は彼との距離を保ったまま車椅子を進めた。


 理学療法室では、専門の療法士が彼を待っていた。私は車椅子を脇へ寄せ、その傍らに立って、彼が懸命に腕の可動域を広げようとする姿を静かに見守る。療法士が患部を動かすたびに、筋肉の震えが目に見えて分かる。その震えは、彼が必死に現実に踏み留まろうとする(あかし)だ。


「……これ、骨に響くな」


 額から玉のような汗が流れ落ち、彼の呼吸が荒くなる。それでも彼は、決してその動作を止めようとはしない。


「あと数回です。……今さら弱音を吐くなんて、らしくないですよ。九条さん」


 あえて突き放すような言い方をしたのは、彼の中に残る迷いを払拭するためだ。彼は苦しげに顔を歪めながらも、私の言葉に小さく鼻で笑った。


「言ったな。……あんたは本当に、俺が一番言われたくない言葉を選んでくる」


 彼が最後の一回をやり遂げ、重苦しい装具を再び装着した時、室内には達成感が満ちた。私は彼を車椅子へ戻す手助けをし、安堵のため息をつく。


「……やり遂げましたね」


 私がそう言うと、彼はようやく肩から力を抜き、私の顔をじっと見つめた。


「ああ。……一ノ瀬さん」


 彼は唐突に、私の名前を呼んだ。以前は「あんた」としか呼ぶことのなかった彼が、最近になって時折こうして名前を呼ぶようになったのだ。もちろん、そこに甘い響きや口説き文句などは一切ない。彼は相変わらずぶっきらぼうで、素直ではない。それでも、以前のような頑なな拒絶は薄れ、その物腰には以前にはなかった柔らかさが同居していた。


「……はい、何でしょうか?」


 私は動揺を隠すように、淡々と問い返す。室内には、時計の秒針が刻む音だけが、やけに大きく聞こえていた。


「いや、ただ……君がそうやって最後まで付き合ってくれるから、俺も踏ん張れるんだ。……いつもありがとう」


 彼はそれ以上の言葉を継ぐことはなかった。私の手を引くことも、それ以上の踏み込んだ期待を掛けてくることもない。ただ、名前を呼ぶことで、私との間に流れる時間を、少しだけ自分なりに噛み締めているようだった。


 私は車椅子のレバーを握りしめ、この閉じた空間から逃げ出したくなる衝動を必死に堪える。彼が素直に感謝を口にするたびに、私の心はかき乱される。


「……リハビリの時間は、明日も同じですよ。頑張りましょうね」


 私はそれだけ言い残し、早足で病室へと戻る廊下を突き進んだ。ナースステーションへ戻ると、誰もいないことを確認してから、冷めてしまったコーヒーを口にした。この苦味だけが、今この瞬間の自分をこの現実に繋ぎ止めているような気がした。


 

 夜の病院は、命の交差点として、今日も多くの想いを乗せて回り続けている。私もその小さな歯車のひとつとして、明日という新しい日を迎える準備をしよう。


 誰かの人生を支えるということは、それだけで十分な尊さがあるはずだ。そう自分に言い聞かせることで、なんとか感情の均衡を保とうとしている。病院という巨大な箱庭の中で、私たちはそれぞれ自分の役割を必死に演じている。その果てにある結末が、どんなものであれ受け入れる覚悟が必要だ。


 明日の朝、病室のドアを開ける瞬間のことを想像する。彼が私を見て、今度はどんな表情を浮かべるのか。私の心拍が、わずかに加速するた。明日も、私は私の場所で戦う。


 そう決意して、私は瞳を閉じた。暗闇の中で、彼に名前を呼ばれたときの、ぶっきらぼうだけれど確かな温もりが、今も指先に残っているような気がした。

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