第27話 女社長の帰還
堂島さんが特別室の重厚な扉を押し開いて姿を見せたのは、丸二週間ぶりのことだった。彼女は多忙を極める経営者であり、海外案件と新規事業の立ち上げという激務が重なったこの期間、病院へ足を運ぶ時間を物理的に捻出するのも困難だったと聞く。
久しぶりに再会した彼女は、相変わらず隙のない佇まいでそこに立っていた。夜空を映したかのように艶やかな黒髪、仕立ての良いスーツのライン、靴のヒールに至るまで、何ひとつとして乱れのない完璧な姿だ。彼女が病室という無機質な空間に一歩足を踏み入れるだけで、周囲の空気が瞬時に高級な香水の匂いと緊張感に支配されるのを感じる。
それでも、病室の空気を吸い込み、ベッドの上の九条さんを見つめたその瞬間、彼女の瞳の奥がわずかに揺れたことを私は見逃さなかった。長旅の疲労を毅然とした仮面の裏に隠し、ようやく帰るべき場所へ戻ってきたような、微かな安堵が感じられた。
彼女は今回の事故を引き起こした責任者であり、九条さんにとっては人生を狂わされた加害者でもある。それなのに、二人の間には、どこか奇妙な均衡が保たれているように見えた。
サイドテーブルの上には、百貨店の外商でしか扱わないような美しい木箱が置かれている。堂島さんはベッドサイドに置かれた椅子に腰を下ろし、慣れた手つきで果物ナイフを動かしていた。
薄く剥かれたリンゴの皮が、リボンのように皿へと落ちる。銀のフォークに刺されて差し出された一片を、九条さんは拒むこともなく、淡々と受け入れていた。
二人の間に流れる時間は、まるで密室のような閉鎖的な空気だ。私が処置のためにトレイを抱えてドアを開けた瞬間、その静寂が不意に切り裂かれる。
「あら、一ノ瀬さん。お邪魔しているわね」
堂島さんは驚く様子もなく、余裕の笑みを浮かべる。ベッドに横たわっていた九条さんは、私と目が合った瞬間、リンゴを口に運ばれる動きを止め、何かを見られたかのように視線を彷徨わせる。
彼の表情には、微かな気まずさが滲んでいる。それは、私のような看護師が、この二人の閉じた空間に立ち入ってしまったことへの戸惑いなのか、あるいは加害者である彼女との時間を邪魔されたくないという思いなのか、その理由は分からない。
「……あ、もうおなかいっぱいなので。これ以上はいらないよ」
それは、私の入室によって生じた居心地の悪さを、なんとかやり過ごすための言葉に聞こえた。私はそのやり取りを無視し、感情を殺してただの看護師として業務を遂行することに決めた。
トレイを配置し、点滴のチューブを検める所作にも、私情は一切含ませない。
「失礼します。バイタルチェックをさせていただきますね」
私の声は、驚くほど平坦で無機質に響いた。彼がどんなに気まずそうな顔をしていようと、私はただ機械的に測定器を当て、数値を読み取るだけだ。
堂島さんはそんな私の様子を興味深そうに観察しながら、再びリンゴにナイフを添える。その優雅で無駄のない動作が、この殺風景な病室を場違いなほど華やかに演出していた。
「一ノ瀬さん、いつもありがとうございます。彼が回復に向かっているのは、あなたのおかげだと聞いています。本当に感謝してもしきれないわ」
彼女の口から紡がれたその言葉は、まるで彼の生活のすべてを管理する者が、看護という労務に対して礼を述べるようにも聞こえた。堂島さんが彼を支える責任者としての立場を持っていると突きつけられたようで、私の心は急速に冷えていく。
「いえ、看護師として当たり前のことをしているだけですので。九条さんも、リハビリをとても頑張っていらっしゃるんですよ」
私は精一杯の社交辞令で返すと、九条さんは静かに視線を私に留めたまま、何も言わずに見つめ続けている。堂島さんはふと、私に対して不思議そうな視線を向けた。
「……随分と淡々としているのね。彼が誰に心を許しているのか、少し興味が湧いてしまうわ」
彼女の言葉には何の悪気もなく、ただ純粋な観察眼が含まれている。しかし、私にはその言葉が、二人の関係を際立たせるための壁のように感じられて仕方がなかった。
堂島さんの完璧なサポートは、私には到底真似できない領域にある。経済力も、社会的な地位も、彼との間に存在する歴史も、すべてが私という看護師の存在を無力にしていくようだ。
「九条さん、あまり動くと点滴がずれてしまいますよ。今は少し、安静にしてください」
私は焦る気持ちを抑え、少しだけきつい口調で彼を制する。すると、彼はあからさまに残念そうな顔をして、口を尖らせる。
堂島さんはそんな彼らのやり取りを楽しんでいるかのように、静かに微笑みをたたえている。彼女にとって、九条さんは責任を果たすべき対象であり、同時に支配的な存在でもあるのかもしれない。
私は手際よく処置を終え、トレイを片付けて早々に退出の準備を始める。これ以上この病室にいると、自分の壊れかけた心が露呈してしまいそうだからである。
部屋から出ようとする私の背中に、二人の視線が刺さる。九条さんがわずかに手を伸ばそうとしたように見えたが、堂島さんが何かを話しかけると、その動きは止まった。
ナースステーションに戻ると、看護師長が書類を整理しながら私を呼び止めた。
「一ノ瀬さん、堂島様の面会対応、ご苦労様。彼女、先ほど廊下で私にわざわざ声をかけてきてくださったのよ。一ノ瀬さんが九条さんの気難しい性格を上手く受け流し、情緒的な安定を保たせているのは非常に助かっていると、わざわざお礼を伝えにね」
師長の口調はどこか皮肉めいていた。病院という組織において、影響力のあるスポンサーからの太鼓判は、私への高評価に直結する。彼女は私の手柄を認めることで、同時に『あなたは組織にとって都合のいい駒だ』と言っているようでもあった。
私は作り笑いを浮かべて答えるしかない。その言葉が、私を彼から遠ざける鎖のように思えてならないからだ。
私は夜のステーションで一人、冷めたコーヒーを口にする。カップの温もりが、冷え切った手に伝わってくる。
明日は、彼とどんな顔で向き合えばいいのだろう。加害者の女社長と、それを守る看護師。この歪な三角関係の中で、私はどこまで自分の心を隠し通せるだろうか。
夜の病院は、命の交差点だ。誰かの痛みの上に、誰かの日常が成り立っている。そんな当たり前の理屈が、今は自分の心に深く刺さる。
私は明日への覚悟を決め、最後の一口を飲み干した。このコーヒーの苦味こそが、今の私に相応しい気がする。
明日の朝、私はまた、何事もなかったかのように彼のベッドサイドに立つ。その時、彼は私をどう見るだろうか。そんなことを考えても、答えなど出ない。
私はカルテを閉じ、ゆっくりと立ち上がる。夜明けまでは、まだ少し時間がある。その静寂の中で、私は自分の感情の残骸を拾い集める。
窓の外に広がる須磨の海は、今夜も深い闇に包まれている。波の音さえ届かないこの場所で、私の心だけが音を立てて波打っている。
もし私が看護師でなければ、もし彼がただの患者でなければ。そんな『もしも』を積み重ねていくうちに、私は自分自身の正体を見失いそうになる。
誰にも見せない日記に、今日あったことを記そうか。いや、それすらも今の私には重すぎる。
私はロッカーへ向かい、制服のボタンを一つひとつ外していく。その仕草のすべてが、明日という新しい日への準備に他ならない。
彼が求めるものが、私の看護ではなく、もっと別の何かであればいいと願う自分がいる。それは決して口にしてはならない、禁断の願いなのだ。
夜空に浮かぶ月は、今日も淡く光り続けている。私はその光を背にして、深い眠りへと落ちていく。明日はきっと、今日よりもずっと複雑な一日になる。それでも私は、一歩ずつ進んでいくしかないのだ。
誰かの人生を支えるということは、それだけで十分な尊さがあるはずだ。そう自分に言い聞かせることで、なんとか均衡を保とうとしている。
病院という巨大な箱庭の中で、私たちはそれぞれ自分の役割を演じている。その果てにある結末が、どんなものであれ受け入れる覚悟が必要だ。
明日の朝、病室のドアを開ける瞬間のことを想像する。彼が私を見て、今度はどんな表情を浮かべるのか。
私の心拍が、わずかに加速した。明日も、私は私の場所で戦う。そう決意して、私は瞳を閉じた。暗闇の中で、彼の手の温もりが微かに蘇るような気がしてならなかった。
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