第26話 手を探す
第三回手術が終わったのは、外の景色が完全に闇に染まった夜遅くのことだった。私は術後管理の担当として、再び特別室の扉を静かに開く。
病室内には、規則的な電子音だけが響いている。麻酔の影響が色濃く残り、九条さんの意識はまだ深い眠りの淵に沈んだままだった。
点滴の滴下速度を確認し、手元の電子カルテに数値を打ち込む。モニターの数値も安定しており、まずは第一段階をクリアしたことに安堵の息を漏らした。
必要な処置をすべて終え、私は彼に負担をかけないよう、足音を殺して部屋を出ようとする。その時、私の白衣の裾が、ごくわずかに引かれた気がした。
何事かと驚いて振り返るが、九条さんの瞳は閉ざされたままだ。しかし、彼の右手だけが、まるで暗闇の中で何かを探すかのように、ふらりと虚空を彷徨っている。
私はどうすべきか、一瞬だけ迷う。不安な状態で目覚めた患者が、無意識に誰かの存在を求めることは、看護の現場では珍しいことではない。
これは看護師としての仕事なのだと自分に言い聞かせ、彼の手をそっと自分の両手で包み込む。すると、さっきまで力なく彷徨っていた指先から力が抜け、彼は安心したように小さく安堵の吐息を漏らした。
モニターに映る心拍の波形も、穏やかなリズムへと変わっていく。私はその温もりを握ったまま、しばらくの間、動けずにいた。
ただ手を握っているだけなのに、どうしてか自分の方が激しく鼓動を早め、落ち着きを失っている。いつからこんなにも、この人の小さな仕草の一つひとつが、自分の心拍に影響を与えるようになったのだろうか。
そんな自問自答を繰り返しながら、私は彼の覚醒を静かに待ち続けた。勤務交代の時間が過ぎても、私はこの病室を離れることができなかった。
数時間後、巡回に来た看護師長が病室のドア越しに、私に鋭い視線を投げかける。彼女は眉をひそめ、私に小声で告げた。
「一ノ瀬さん、もう日勤は終了しているでしょう。あなたがそんなに感情移入して張り付いていても、患者さんの回復が早まるわけじゃないわ」
師長は呆れたような口調で、他のスタッフに交代するようにと促す。けれど、私は首を横に振って、頑としてその申し出を断った。
「いえ、お願いします。彼が目覚めるまで、私が見守らせてください。……私でないと、彼が不安がるかもしれませんから」
自分の言い分がただの我がままであることは分かっている。けれど、これまでの彼とのやり取りや、手術前のあの言葉を思い出すと、どうしてもこの場を離れることができなかった。
師長は困ったように肩をすくめ、最後には何も言わずに立ち去る。私は彼の手を握り直し、改めて自分がここにいる理由を確信した。
やがて、数時間が経過し、夜も更けていく。私は制服を脱ぎ、私服に着替えて再び彼のベッドの傍らに腰を下ろしていた。
麻酔の霧が少しずつ晴れ、彼が微かに目を開ける。横にいる私にはまだ気づいていない様子で、視点が定まらないまま宙を見つめていた。
少しずつ、彼の中の現実が形を取り戻していく過程を、私は呼吸を止めるような思いで見守り続ける。完全に覚醒した彼の瞳が、不意に私の姿を捉える。
私服のせいだろうか、彼は一瞬、誰がそこにいるのか判別できないような困惑の表情を浮かべた。
「九条さん、分かりますか。手術は無事、成功ですよ」
私は意識して、できるだけ穏やかな声で彼に伝えた。担当医師から聞かされた「神経に損傷なし」という希望の言葉を、一番に彼に届けたかったからだ。
「……そう……か」
彼は掠れた声で小さく呟き、それから数瞬かけて言葉の意味を咀嚼した。
「ええ、神経への損傷もありませんでした。これからはリハビリが必要ですけれど、時間はかかっても必ず元通りに動くようになるって、医師も太鼓判を押しています」
それを聞いた彼の表情がぐしゃりと崩れ、泣き笑いのような、言葉にできない複雑な色が浮かぶ。もしも神経が断裂していたら、彼がどんな絶望に直面したか。
その恐怖から解き放たれ、元の日常を取り戻せるという事実に、彼の中で安堵が溢れ出そうとしているのかもしれない。もしかしたら、彼は今のこの場所で、男泣きに泣きたいのかもしれない。
そんな予感がした私は、彼が一人で自分の感情を噛み締める時間が必要だと判断した。私は小さく会釈をし、そっと病室から足音を立てずに抜け出すことにする。
背中を向け、静かにドアへ歩みを進めた、その時だった。かすれた声が、背後から追いかけてくる。
「一ノ瀬さん、ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、私は廊下に出ることも忘れ、その場に立ち尽くした。背中越しに伝わってきたのは、彼なりの精一杯の感謝の響きだ。
廊下に出た瞬間、力が抜けて壁に手をついた。もとに戻るのだという事実に、私の目にも熱いものが滲んでくる。
彼が指先を動かせる未来が、確かにそこにあるのだ。私はそのまま、病院の裏口へと向かう。夜風に当たらないと、この昂ぶりを鎮めることができないような気がしたからだ。夜の須磨の海が、静かに波音を立てている。
手術の間、ずっと張り詰めていた緊張感が、ようやく解けていくのを感じた。病院に戻ると、夜勤スタッフの同僚が声をかけてくる。
私は努めて明るい声で返事をして、自分のロッカーへ向かった。彼が次に目覚めた時、どんな顔をするだろうか。
手術の成功を知り、彼はどんな風に新しい日常を歩み始めるのだろう。私はそんな想像を巡らせながら、今日という日を終えようとしていた。
彼と出会ってから、私の時間は常に彼の手の届く場所にあったのだ。ロッカーを開け、今日の記録を残すためのノートを手に取る。
そこには、ただ成功した事実だけでなく、彼が感謝を伝えてくれた時の声も書き残しておきたい。誰かの人生の一部に触れるということは、責任を伴うことだ。
その重みが、今の私には心地よいものに思えた。病院の廊下を歩く足取りが、これまでになく軽い。
明日は、包帯の向こう側にある彼の指先を確認する日がやってくる。そう考えると、私は今すぐ彼のもとへ走り出したくなる。
それはプロの看護師として許されることではないと、自分を強く律する。夜明けを待つ病院の中で、私は深い深呼吸をする。
明日の朝、どんな顔で挨拶しようか。そんなことを考えていると、不思議と笑みがこぼれてくる。
彼と一緒に見たい景色が、また、ひとつ増えたような気がする。夜は、終わりかけている。その向こうには、彼と歩む新しい季節が待っている。
今日という日が終わり、また新たな朝が来る。その時、彼がどんな顔で私を待っているのか。そんなことを考えるだけで、私はまた心が弾む。
病院という場所は、命が繋がる場所だ。私はその繋がりを大切に、これからも歩み続けていく。
朝の光が窓から差し込み、病院の床を照らし出す。私はその光を浴びながら、次の交代の時間へと準備を始める。夜は終わり、新しい光が街を包み込む。私はその光の中で、明日への期待を胸に、ゆっくりと一歩を踏み出した。
今日という一日が、彼にとっても、私にとっても、良き一日になりますように。そんな願いを込めて、私は病院の空を見上げた。
空はどこまでも高く、澄み渡っている。新しい物語が、今ここから動き出そうとしている。
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