第22話 隣にいるだけ
その日の夜勤は、どこか空気が澄んでいるように感じられた。私はナースステーションでの事務作業を終えると、無意識のうちに特別室の前に足を運んでいた。
理由を探そうとすれば、いくらでも頭の中に並べることができる。夜の巡回、患者の体調確認、あるいは緊急時の対応準備。どれももっともらしい説明ばかりだ。
本当のところは自分でも上手く説明がつかなかった。ただ、あの静かな空間に、自分の身を置きたかっただけなのかもしれない。
ノックをしてからドアを開けると、室内には明かりがほとんど落とされていた。九条さんはベッドの背を少し上げた状態で、眠ることもなく起きていた。
彼は窓の方を向いていたが、私が足音を立てて入るとすぐにこちらを見た。驚いたような表情を浮かべたものの、すぐにまた無表情へと戻る。
私は特に用事がないまま、部屋の隅にある小さな椅子へ腰を下ろした。点滴を確認し、数値を記録し、あとはただそこに座り続けるだけだ。
部屋の中には、壁掛け時計の秒針が刻む一定のリズムだけが響いている。会話はない。彼も私に何かを尋ねるわけではなく、ただ静かに同じ空気を共有していた。
数分が経ち、時計の針がゆっくりと進む。その沈黙に耐えかねたのか、九条さんが不思議そうな顔をしてこちらを見た。
「何か用ですか?」
彼は眉を少しだけ寄せ、困惑の色を滲ませる。その問いかけに対して、私は迷わずに言葉を返す。
「巡回です」
私の答えを聞いて、彼はふっと息を漏らした。少しだけ笑みを含んだような、柔らかな声が暗がりに広がる。
「……巡回、長いですね」
「そうですね。少し、座りたくなっただけです」
「あんた、仕事中にサボるような人だったのか?」
「サボりじゃないですよ。……休憩に近い、ただの立ち寄りです」
「ふん、良い身分だな。俺みたいな入院患者には縁のない世界の話だ」
「退院したら、すぐに縁ができますよ。神戸の街は、いくらでも息抜きの場所がありますから」
「退院か。……帰る場所を失くした人間に、そんな未来が待っているとは到底思えないな」
「場所なんて、自分で作れば良いんです。……それこそ、新しい物語を書き始めるみたいに」
私の言葉に何と返すべきか分からず、ただ彼は黙り込んでしまった。
何も返してこなかったけど、不思議と居心地の悪さは感じなかった。むしろ、こうして他者と同じ時間を共有していることが、今の私には安らぎのように思える。
彼にとっても、この沈黙は耐え難いものではないらしい。彼は再び視線を窓の外へ戻し、須磨の夜空を見つめている。
その時、私は胸の中で確かな発見をした。会話を交わさなくても、そこにいて落ち着く相手というのは、実際に存在するのだと。
彼と私。
患者と看護師。
本来なら言葉を交わすための関係性のはずなのに、今はただ隣にいるだけでいいという安心感がある。この閉ざされた空間で、二人の時間がゆっくりと混ざり合っていく。私は彼が何を考えているのかを推測しようとせず、ただ隣で呼吸を合わせた。
夜勤の忙しさや、日々の喧騒が、この瞬間にだけは遠い世界の出来事のように思える。ここでは、ただ波の音がかすかに聞こえるだけだ。
「あんたは、いつもこうやって、患者の横に座っているんですか」
彼が不意に、独り言のように尋ねてきた。私は小さく首を横に振る。
「いえ、今日が初めてです。……何となく、誰かの隣にいたくて」
「物好きな看護師だ。俺のような人間に興味を持って、何が楽しいんだか」
「楽しいというのとは少し違います。……ただ、安心するんです」
「安心か。……他人といて安心するなんて、俺には縁のない感情だと思っていたが」
「これからは、少しずつ慣れていくかもしれませんよ。……隣に誰かがいるということに」
「あんたの言葉には、どうも毒がない。……それが逆に怖い時があるんだ」
「毒がないのは、私の取り柄ですから。安心してください、変な薬は飲ませませんよ」
「……冗談のつもりか。あんたが笑うと、この病室が少しだけ明るくなる気がして困る」
「なら、もっとたくさん笑うことにしますね。……九条さんの病室が、明るくなるなら」
「勝手にしろ。……俺は、あんたのその余裕に少しだけ呆れているだけだ」
彼は何も答えなかったが、窓に映る彼の横顔は、少しだけ和らいで見える。私はその光景を眺めながら、このまま時間が止まってしまえばいいとさえ思う。
時計の秒針がチクタクと音を立てるたびに、私たちは少しずつお互いの存在に馴染んでいく。この特別室という小さな箱の中で、新しい日常が静かに芽吹いているようだ。
「必要なことがあれば、いつでも呼んでください。……物語の続きを聞かせてほしいので」
私は椅子から立ち上がり、彼の方へ軽く会釈をする。彼がもう、一人で崩れ落ちることはないと確信しながら。
私が病室を出ようとすると、九条さんがベッドの上で小さく呟く。
「……また、明日も来るのか?」
私は振り返り、確信を持って頷く。
「ええ、もちろん。巡回ですから」
彼は少しだけ口元を歪め、呆れたような、でもどこか嬉しそうな表情を浮かべた。その顔を見て、私は自分の心の中が静かに満たされていくのを感じる。
廊下へ一歩踏み出すと、須磨の夜特有の湿った風が、微かな潮の香りを纏って私の肌を撫でていく。夜勤の時間はまだ折り返し地点にも届いていないが、先ほどまで私の肩を覆っていた義務感は、どこかへ消え去っていた。
代わりに胸を満たしているのは、名前を呼ぶことも躊躇われるような、柔らかな高揚感だ。彼が明日の朝、カーテンの隙間から差し込む光をどんな表情で受け止めるのか。そんな未来の光景を想像するだけで、私の中に眠っていた活力が、静かに脈打ち始めるのを感じる。
無機質な廊下の床を鳴らす私の足音は、先ほどまでの疲れ切った響きとは違っていた。まるで、物語の新しい章を書き始める前の、期待に満ちたリズムのようである。
明日の朝、ナースステーションで記録の用紙に向き合うとき、私は何を書き連ねることになるのだろう。昨日までのような、心拍数や血圧といった数字の羅列だけではない。彼が見せた微かな笑みや、言葉の端々に滲んでいた小さな変化を、私は丁寧に言葉にしていこうと決意する。
彼の中に積もっていた冷たい壁が、少しずつ、でも確実に形を変えている。そうした小さな変化の積み重ねこそが、やがて彼をこの閉ざされた病室から、広い外の世界へと連れ出してくれるはずだ。
ステーションへ戻る道すがら、私はふと足を止め、長い窓の向こう側に広がる神戸の夜景を見つめた。ポートアイランドの明かりや、遠くで瞬く港の光、それらが夜の闇の中に浮かび上がっている。
あの輝きの一つひとつが、この街で生きる誰かの人生の灯火なのだと思うと、今の私の役割が少しだけ愛おしく感じられる。私たちは皆、それぞれの場所で、誰かと繋がり、あるいは誰かを想いながら、夜を越えていく。
夜の帳は、どこまでも深く、そして優しくこの街全体を包み込んでいる。私は背筋を伸ばし、制服の乱れをそっと整えた。
顔を上げれば、鏡に映る自分自身の瞳が、ほんの少しだけ明るさを増しているような気がする。再び患者たちの元へ戻り、笑顔を作る準備は万端だった。
私はもう一度、窓の外の明かりに視線を投げかける。夜の底に沈む神戸の街並みは、どんなに離れていても、明日という新しい朝へと続いている。
心の中に灯った、あの橙色の夕凪のような温かみを、私は大切に抱きしめる。どんなに長く続く夜であっても、終わりは必ず訪れる。
私はゆっくりと歩き出し、再び仕事という役割の中へ身を投じた。誰かの苦しみを癒し、誰かの小さな希望を支えるために、私は今夜もここで命と向き合う。
病室の並ぶ廊下は、明日への橋渡しをする場所だ。私は一歩、また一歩と、自分に与えられた時間を丁寧にかみしめながら歩いていく。
夜明けの空が、どのような色に染まるのかを思い浮かべながら。私は、今この瞬間を大切に、再び彼らの眠る場所へと戻った。
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