第21話 崩れた人
堂島が姿を見せなくなってから、病室の時間はひどくゆっくりと流れるようになった。彼女が持ち込んでいたはずの謝罪の重圧と、その対価としての見舞いという義務的な時間が消え、そこには純粋な孤独だけが残されている。
彼はベッドの上で、ただ窓の外の須磨の海を眺めている。手元に置かれたままの携帯電話は充電ケーブルから外され、画面が光ることもない。
私は点滴の交換のために部屋へ入るが、彼が私を認識するまでに数秒の空白がある。いつもなら皮肉を交えて笑っていた口元が、今はまるで乾いた砂のように表情を失っている。
「九条さん、薬の時間です。今日は少し顔色が良さそうですね」
私が明るい声で問いかけると、彼はゆっくりと視線をこちらに這わせた。
「そうか。……あんたには、そう見えるのか」
彼は努めて冷静に言葉を返す。その声は以前よりもずっと細く、頼りなげに響いた。
「ええ、少しだけ。海の光が反射しているせいでしょうか」
私は窓際へ歩み寄り、カーテンを束ねる。彼が眺めていた須磨の海は、今日の夕刻には穏やかな橙色に染まっていた。
「……海の色は、毎日違うんだな」
彼が思い出したようにぽつりとこぼした。その呟きには、これまで彼が纏っていた刺々しい鎧がどこにもない。
「ええ。潮の流れや、空の光の加減で、まるで別の場所みたいになりますから」
私は彼が初めて見せた素の表情に驚きながらも、言葉を重ねる。看護師としてではない、一人の人間としての対話を、私は初めてこの場所で行っている気がした。
「そうか。俺はずっと、ここから同じ海を見ていたはずなのに、今日までそんなことに気づかなかった」
彼は自嘲気味に口角を上げる。その笑みにはこれまでのような冷たい響きはなく、どこか少年のような危うさが漂っている。
「窓の外を見る余裕が、ようやくできたのかもしれませんね」
「余裕か。……そんな優雅なものじゃない。ただ、誰かが去って、ようやくこの場所が空っぽになっただけだ」
彼は自分の両手を見つめる。これまで数々の緻密な設計図を描き、計算と精密な調整を積み重ねてきたその手は、今では真っ白で細い。
「堂島さんは、もう来ないでしょう。……俺にとって、彼女は加害者であり、唯一の外との接点だった。それが消えた今、俺は誰とも繋がっていない」
彼は淡々と、自らの孤立を宣言する。それは悲しみというよりも、事実を確認するような冷めた視点だった。
「そんなことはありません。……九条さん、少なくとも、今ここで私と話しているじゃないですか」
私の言葉に、彼は驚いたようにこちらを振り返る。彼が私を看護師としてではなく、対等な相手として視界に入れた瞬間だった。
「あんたは、仕事として俺の話を聞いているだけだろう。……看護師の業務の手順の中に、患者の身の上話を聞く時間は入っていないはずだ」
「それでも、私は今、貴方と話がしたいと思いました。……それは役割とは別の、個人的な思いです」
私が少し強めに言い返すと、彼は沈黙した。部屋を満たすのは、穏やかな波の音と、夕暮れの淡い気配だけだ。
「……あんたも物好きな奴だな。俺のような、仕事を切られてしまった人間に構って、何になるんだ」
「面白い話が聞けるかもしれないと思っただけです。……神戸で働くフリーランスの方の、これまでの歩みを」
彼は初めて、心からの笑みを浮かべた。それは、皮肉でも自嘲でもない、穏やかな光を帯びた微笑みだった。
「歩みか。……俺の人生は、ちぐはぐな積み木のようなものだぞ。積み上げてきた形がいびつで、どこから崩せばいいのかも分からない」
「それなら、ひとつずつ丁寧に直していけばいいんじゃないですか」
私は笑顔で答える。彼が少しずつ、自分自身を認めていこうとしているのを感じる。
「丁寧に直す。……そうかもしれないな。まずは、この沈黙という重い空気を、少しずつ変えていくことから始めるか」
彼は少しだけ姿勢を直し、窓から射し込む光を正面から受け止めた。その顔には、かつて彼が纏っていた孤独の闇が薄れ、新しい景色が映り始めている。
「九条さん、退院後のことは、まだ決めていないのでしたね」
「ああ。帰るべき場所も、守るべき場所も、今の俺にはない。……今日から少しずつ考えてみることにする」
彼は窓の外へ、再び視線を移す。須磨の夕凪が、彼を優しく包み込もうとしている。
「必要なことがあれば、いつでも呼んでください。……物語の続きを聞かせてほしいので」
私は深く一礼し、病室を後にしようとする。彼がもう、一人で崩れ落ちることはないと確信しながら。
廊下に出ると、夜の気配が少しずつ強まっている。それでも、私の心はどこか晴れやかだった。
彼が自分を消し去ることで保っていた平穏から、一歩だけ踏み出したのだ。私はナースステーションで、明日の記録のためにペンを握り直す。
今日という一日が、彼の再生の始まりになるかもしれない。そんな期待を胸に、私は夜勤の残りの時間を過ごす。
須磨の海が、明日にはまた違う色を見せてくれる。私はその変化を、彼と一緒に確かめたいと願っていた。
病室の入り口から遠ざかりながら、私はふと、彼が言った言葉を反芻する。あんた、と呼ばれた響きには、これまでの患者に対するのとは違う、独特の温度が含まれていた。
彼との距離が、看護師という役割を超えて、一人の人間として縮まったような気がする。もちろん、これが何をもたらすのかは分からない。
彼が少しずつ世界と向き合おうとしていることは、私にとっての救いでもあった。この大きな病院の中で、誰一人として取り残してはならない。
夜の巡回が始まり、私は他の部屋も回り始める。それでも、意識のどこか片隅で、あの特別室の夕焼けを思い浮かべている自分がいる。
明日になれば、また新しい一日が始まる。その時、彼がどんな風に私を呼ぶのか、あるいはどんな物語を語ってくれるのか。
小さな期待が、私の胸の中で心地よく弾ける。夜の廊下に響く自分の足音を聞きながら、私は少しだけ早足で歩いた。
彼が語った積み木のような人生が、これから先、どんな形に組み上がっていくのか。それは誰にも分からないけれど、彼自身がそれを直していこうとしている。
その力になれるなら、看護師としてだけでなく、一人の人間として彼と向き合い続けたい。そう願う私の心は、もう迷うことはない。
須磨の夜は、どこまでも深く、そして優しく私たちを包み込む。明日という未来へ向かって、病院という場所は今日も呼吸を続けている。
このまま、ただ無意味に一日を終えるのではなく、意味のある繋がりを積み上げていきたい。私はそんな思いを胸に、ナースステーションのカウンターに肘をついた。
ふと窓の外を見ると、街の明かりが遠くに浮かんでいる。あの明かりのひとつひとつに、誰かの人生があり、誰かの物語があるのだと思うと、今の自分の役割が少しだけ愛おしくなる。
彼の病室から戻る際に感じた、あの胸の高鳴りは何だったのだろう。それは彼を憐れむ感情ではなく、彼という一人の人間に興味を抱いた証ではないか。
そう考えると、足取りが軽くなるような気がした。私は記録用紙に向き合い、丁寧に、今日の彼の様子を書き連ねていく。
そこには、これまでのような事務的な報告ではない、彼の変化の兆しが刻まれるはずだ。病院という場所は、別れの場所であると同時に、出会いの場所でもあるのだ。
明日の太陽が昇るとき、彼がどんな表情で海を眺めているだろうか。そんな些細なことが、今の私にとっては何よりも大切に思える。
看護師としての自分と、一人の人間としての自分が、ようやく重なり始めた。この感覚を忘れずに、私は今日という日の残りを大切に生きようと思う。
病院の中には、たくさんの孤独がある。それを全部癒すことはできなくても、今日、私が一人の男の孤独に触れた事実は変わらない。
その事実を大切にして、明日を迎えよう。私はペンを置き、大きく息を吐き出して、次の仕事へと向かう準備を始めた。
夜はまだ続く。私の心の中には、橙色の夕焼けがずっと灯り続けていた。
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