第20話 堂島の不在
病院という場所は、一週間という単位がひどく淡泊に過ぎていく。いつもなら、あの洗練されたスーツ姿の堂島さんが特別室に現れる時間が決まっていた。
それが、きっぱりと途絶えた。初めての出来事だった。あんなに熱心に九条さんの元へ通い、経営者としての報告や雑談を交わしていた彼女が、ぱったりと顔を見せなくなったのだ。
彼らの関係性は、事故の被害者と加害者、それ以上でも以下でもない。仕事上の付き合いを除けば、本来は顔を合わせることもなかったはずの他人だ。
それなのに、あんなにも頻繁に通い続けていたのは、彼女なりの贖罪なのか、あるいは会社の体面を守るための義務感だったのか。その日、翌日、そして三日目。彼女の不在は特別室の空気を微妙に変質させていた。
私はナースステーションで記録を打ち込みながら、別に気にはしていないと自分に言い聞かせる。堂島さんだって多忙なのだろう。会社の経営、事故の後処理、あるいは別の誰かとの商談。理由はいくらでも考えられる。
業務の一環として、私は九条さんの病室へ向かう。ドアを開けて一歩中へ入った瞬間、私は自分の肌感覚がどこかおかしいことに気づいた。
九条さんは、ベッドの上でただ窓の外を眺めていた。スマホを手に取ることもなく、いつも流れている動画の音声も聞こえない。
その背中は、以前よりもずっと小さく、硬直して見える。何かを待っているのか、それとも何かを諦めたのか。彼の表情は読み取れない。ただの沈黙が、重たい布のように部屋を覆っていた。
私は点滴の交換のため、傍らに寄る。彼の気配が、これまでとは決定的に異なっていた。
(静かだ)
私は、部屋の中が静かだと思っていた。これまで堂島さんと交わしていた会話がなくなって、空間が空白になったのだと。
でも、違った。私はその間違いに遅まきながら気づく。部屋が静まり返っているのではない。この人が、静かだったのだと。
入院の手続きで書類を確認したとき、彼の欄はあまりに寂しかった。親は二十歳のときに事故で他界しており、連絡できる肉親など一人もいない。
緊急連絡先や身元引受人の項目を埋めるため、彼は数分間、虚空を見つめてペンを止めていた。あのときの、言葉にならない孤独の色を私は今も覚えている。
彼はフリーのエンジニアとして神戸に来ていた。当然、彼を心配して駆けつける家族なんて、どこにもいない。
取引先もひどいものだ。彼が長期入院を余儀なくされると分かると、まるで不要な部品を捨てるように、契約を一方的に打ち切った。
彼が今、この広い世界の中で誰とも繋がっていないという事実に、私はたまらなく胸が苦しくなる。せめて、堂島さんが来てくれていれば、彼にも『誰か』がいるという安心感があったはずだろうと思う。
これまでは、堂島さんの持ち込む活気や、九条さんが溢れさせる刺々しい言葉の数々が、空間を絶え間なく揺らしていた。皮肉や自嘲を混ぜた彼の言葉が、この部屋の温度を支配していたのだ。
いま、彼は海を見つめる彫像のように、自らの魂を内側に閉じ込めている。他者との境界線を自分から引き、すべての音を遮断しているようだった。
「……九条さん?」
私が呼びかけても、彼はすぐには振り返らない。窓の外の須磨の海に、何か確かな答えでも探しているのだろうか。
「堂島さんは、お見えになりませんか?」
私はあえて、禁句に触れるように問いかけてみた。それが彼の沈黙を突き破るための唯一の鍵だと思ったからだ。
九条さんの肩が、微かに揺れ、彼は私の方をゆっくりと向く。
「もう来ないかもしれませんね」
その声には、怒りも、恨みもなかった。ただ、深い諦念だけが混じっている。
「彼女は忙しい人です。俺のような負の遺産に、これ以上時間を割く必要もなくなったのでしょう」
私は彼が自分を突き放すような言い方をしたことに、胸が締め付けられる。彼は自分を『負の遺産』と呼ぶことで、堂島さんが去った事実を自分の中で処理しようとしているのだ。
実のところ、彼は堂島が姿を見せないことに、どこか安堵しているようにも見えた。来るたびに繰り返される「申し訳ありません」という言葉が、彼にとっては心の傷口を広げる行為でしかなかったからだろう。
最近でこそ謝罪の回数は減っていたようだが、それでもあの空気は彼を鋭く削っていたのだと思う。私は彼に、誰か温かい言葉をかけてくれる人が一人くらいはいてほしいと願ってしまう。
見舞う人が誰もいないという事実は、あまりにも過酷だ。彼の孤独に、私までもが引きずり込まれそうな感覚に陥る。
「そんなことはないと思います。きっと、何か事情が……」
私が言葉を紡ごうとすると、彼は鼻で笑った。
「事情があろうとなかろうと関係ありません。俺たちに、これといった親しい関係性があるわけでもない。ただの事故の被害者と加害者、それだけの繋がりなんです」
そう言う彼の目は、どこか遠い場所を見つめている。彼の言葉とは裏腹に、その佇まいはあまりにも寂しそうだった。
私は何も言えずに、点滴のチューブを固定する手元に視線を落とす。この部屋を包み込む沈黙は、もはや誰にも邪魔されることのない孤独の証明だ。
私は、さっきまでの自分の考えを反省する。彼が堂島さんを待っているのか、それとも拒絶しているのか、私には分からない。
ただ、彼女が去ったことで、彼の心の中にあった防壁が、別の形に姿を変えたことだけは分かった。彼は外の世界と繋がるための細い糸を、自らの手で切り離したのだ。
「貴女も忙しいのでしょう?」
彼は唐突にそう言い、私を促す。もう帰れという暗黙のサインだ。
「ええ、少し」
私は短く答えて、部屋の出口へ向かう。ドアノブに手をかけたとき、振り返ると彼はまた窓の外を眺めていた。
その姿は、この広い特別室という場所で、ただ一人残された漂流者のように見える。私はドアを静かに閉め、廊下に出る。
ナースステーションに戻る道すがら、私は先ほどの違和感を反芻する。部屋が静かなんじゃない。彼が、自分を消し去るほどに静かだったんだ。
廊下の白い蛍光灯が、私の瞳に眩しく映る。ここには、あんなにも騒がしいほどに音が溢れているというのに。
私は記録を終えて、ナース服の胸ポケットにペンを収める。明日の朝、私はまたあの病室へ行くだろうか。
行くべきなのだろうか? 彼はもう、誰の言葉も必要としていないのかもしれない。
私は自分の制服の襟を正し、次の処置へと向かう。誰かの鼓動が聞こえる場所へ、再び足を踏み出していく。
私たちは皆、誰かと繋がることを求めながら、同時に孤独という海を漂っているのかもしれない。九条さんが今日という長い一日を、どんな思いで過ごすのかは私には分からない。
夜の帳が降りる頃、須磨の海が再び暗闇に包まれる。私はその闇の中に、彼の孤独を重ね合わせる。
あんなに不器用で、あんなに傲慢で、そしてあんなにも傷つきやすい男が、一人で耐えようとしている。私は自分自身の心に灯る小さな明かりを頼りに、夜勤の準備を整える。
病院というシステムの中で、私たちは今日も淡々と役割を演じ続ける。明日、また彼が目覚めたとき、この沈黙が少しでも和らいでいますように。
そんな勝手な祈りを抱きながら、私は自分自身の夜へと身を沈めた。病院の灯りが消え、世界が暗闇に包まれていく。
それでも、どこかで誰かが息をしているという気配が、私を孤独から救い出してくれる。そのことに、私は少しだけ感謝する。
病室のドアの向こう側で、彼は今も一人、須磨の海を見つめているだろうか。それとも、ようやく眠りについているだろうか。
明日の朝、私が再びドアを開けたとき、彼は私に何を見せてくれるのか。そんなことを思い浮かべながら、私は自分の長い一日を終えるのだった。
この閉ざされた空間で、私たちの物語はまだ終わらない。そう信じて、私は歩き出した。
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