第19話 違和感
夜勤明けの病院を出ると、須磨の海から吹き抜ける風が火照った肌を冷たく撫でていく。空は淡い藍色から、少しずつ白みを帯びた朝の色へと塗り替えられようとしている。
私は足取り重く、いつもの通勤路を歩き出した。心地よい疲労感が身体を包んでいるはずなのに、どうしてか頭の奥が妙に冴えわたっている。
ふと、自分の思考がどこへ向かっているのかに気づいて、私はその場に立ち尽くした。無意識のうちに、今日一日の予定の中で、あの特別室へ足を運ぶタイミングを数えていたのだ。
点滴の確認、検温、シーツの交換、それから何かのついでを装った立ち寄り。そんなふうに、彼と顔を合わせるための理由を必死に探している自分がいた。
今までの自分には、決してあり得なかったことだ。患者を治療し、記録をつけ、定時が来れば何事もなかったように日常へ帰る。それが私の看護師としての姿だったはずなのに。
私は立ち止まったまま、荒くなった自分の呼吸を整える。心臓の音が、朝の静けさの中で不自然なほど大きく聞こえてくる。
(どうして、私は彼のことを考えているんだろう?)
私の胸の中で、正体不明の違和感が鎌首をもたげる。それは、これまで築き上げてきた看護師としての矜持を揺るがすような、冷たい波紋だった。
ふと自分の手を見つめる。彼を世話した手のひらの感触が、まだ微かに残っているような気がして、私は慌ててその手を自分の制服のポケットに隠した。
そんなはずはないと、私は懸命に首を横に振る。ブンブンと激しく頭を揺らし、脳裏に浮かんだ疑問符を無理やり追い払おうと試みる。
(違う、そんな感情じゃない!)
私は心の中で、懸命にその考えを否定した。頭を振るたびに、髪が頬を打つ。
彼は担当の患者であり、私はただの担当看護師だ。彼が少し笑ったからといって、私の中に何かが芽生えたわけではない。
たまたま、あの時は彼が機嫌が良かっただけのこと。私が慌てふためいた姿が、彼にとって単なる道化の余興として映ったに過ぎないのだ。
私は何度も、まるで自分に言い聞かせるかのように強く首を左右に振る。こうして物理的に動作を繰り返すことで、思考の濁りをクリアにしようと足掻いているのだ。
周囲の街路樹が風に揺れている。世界は何も変わっていないのに、自分の中にだけ騒がしい嵐が吹き荒れているような気がしてならない。
(担当だから、当然の配慮だ)
私はもう一度だけ首を振り、心にこびりついた疑念を払い落とそうとする。そうやって無理やり結論づけることで、私はどうにか正気を保っている。
駅へ向かう人波の中で、私はただ一人、立ち止まっては歩き出すという不自然な動作を繰り返す。もし誰かが見ていたら、さぞかし奇妙な光景だっただろう。
自分自身への問いかけを、何度も何度も否定し続ける。それは、私にとって最後の盾であり、最後の逃げ道でもあった。
それなのに、一度頭を振り払って歩き出した後も、すぐに彼とあの特別室の光景が脳裏に浮かぶ。違和感は消えるどころか、歩くたびにその正体不明の重みを増している。
(もうやめよう。こんなことを考えても、何もいいことはない)
私は立ち止まり、さらに激しく首を振る。髪が乱れるのも構わず、頭の中を空っぽにしようと必死になる。
しかし、違和感はしつこく私の足元にまとわりつく。無視すればするほど、彼への関心が本物であると突きつけられているようだ。
(これはただの業務の習性だ。そう、職業病に過ぎないんだ)
また首を振る。その否定の言葉は驚くほど頼りなく、心の中にあったはずの壁に亀裂を入れていく。
その亀裂から、隠していたはずの感情がじわりと滲み出し、私の胸を焦がす。私はもう一度、駅のホームの柱に背中を預け、目を閉じて深く首を振った。
(違う、違う! 私は彼を、ただの患者として見ているだけ!)
そう呟く声は、自分でも驚くほど震えていた。もはや否定の動作さえも、彼を求めているという証拠になりつつあるのではないか。
私はさらに首を振り、自分の思考を無理やり停止させようとする。しかし、違和感はより大きく、より明確に私の理性を蝕んでいく。
消えてくれない。それどころか、私の頭を支配するほどに、その違和感は膨れ上がっている。
私はもう一度、深く息を吐き出す。肺の奥まで冷たい空気を吸い込み、自分を律する。
仕事だ。ただの仕事。そこに個人的な感情が入り込む隙間なんて、最初から一ミリも存在していない。
私はゆっくりと再び歩き出し、駅へと続く坂道を下りていく。一歩進むごとに、彼との距離を測る自分を切り捨てていかなければならない。
誰にも知られることのない、この苦しい葛藤は、誰にも話せない秘密だ。病院の中での自分と、外の世界での自分。そのふたつの自分が、少しずつ乖離していくのを感じる。
私の生活は、彼に影響されるようなものではないはずだ。それなのに、私自身の奥底にある感情が、彼を求めてしまっていることに気づく。
朝の光が須磨の海に反射し、眩しすぎるほどに輝きを放っている。その眩しさに目を細めながら、私は自分の感情を押し殺した。
明日になれば、またいつものように彼の病室へ向かうのだ。そこには看護師の私がいて、患者である彼がいる。それだけで十分なはずだ。
私は駅の改札へと吸い込まれ、混雑する電車の中に身を置く。日常の波間に飲み込まれれば、この胸の痛みも忘れることができるだろうか。
彼は今頃、病院のベッドでどんな朝を迎えているのだろう。そんなことを考えた自分に気づき、私はすぐに視線をスマホの画面へと落とした。
(何を考えているんだ、私は。看護師として、一人の患者の安静を守ることが私の仕事だというのに)
そうして自分を律するたびに、胸の奥で何かが静かに軋む音がする。それは彼という存在を認め始めてしまった代償なのだろう。
電車が動き出し、景色が後ろへと流れていく。私は窓に映る自分の顔を眺め、それがいつも通りであることを確認した。
何事もなかったかのように、日常は続いていく。私はその流れの中に立ち、何ひとつ表情を変えることなく過ごさなければならない。
それが、私に許された唯一の道なのだから。電車が次の駅に近づき、私は立ち上がる準備を始める。
思考を止める。これ以上、彼について考えるのは時間の無駄だ。ただの患者、それ以上でも以下でもない。
そう何度も心の中で繰り返し、私は自分自身を冷たく閉じ込めた。そのはずなのに、駅のホームに降り立ったとき、私の足は自然と彼とのことを考えている。
こんな感情など、看護師には不要なものだ。私は自分を責めながら、職場へ向かうための道を急ぐ。
彼が何を望み、私が何を与えられるのか。その関係性の中に、答えを見つけようとするのはやめよう。
私たちはこの病院という枠組みの中でしか、繋がることができないのだから。その事実は、私にとって何よりも重い現実として突きつけられている。
改札を抜けると、いつもの雑踏が私を包み込む。もうすぐ病院だ。そう思うと、胸の鼓動が少しだけ早くなるのが分かった。
私の日常の檻は、今日も彼によって揺らされている。そんなことに気づかないふりをして、私はまた一日を始めようとしている。
彼が私を見る目の中には、どんな感情が隠されているのだろう。私たちが交わす言葉は、これからも罪の清算と賠償の確認に過ぎないのだろうか。
そう問いかけては、自分自身で答えを否定する。それだけが、この感情を抱えたまま生きていくための唯一の防壁だ。
私は明日も、狭い病室の中で生きている。明日への希望を、ほんの少しだけ抱えながら。
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