第23話 想定外の出来事
昼の巡回で特別室へ足を踏み入れると、九条さんはベッドに深く身体を沈め、窓の外をぼんやりと眺めていた。入院生活が長引き、両腕を満足に動かせない彼にとって、身体の清潔を保つことは、誰かの手を借りなければ叶わないささやかな苦労を伴う。
私は点滴の残量を確認してから、あえて彼の視界に入るように動き、柔らかな声で問いかけた。
「九条さん、今日は清拭と洗髪をしましょう。少しさっぱりしませんか?」
問いかけに、彼はわずかに視線を動かしただけで、すぐ窓へ戻した。
「……別に、放っておいても死にはしないだろう。垢で死んだ奴なんていないだろうしな」
ぶっきらぼうな返答が返ってくる。私は彼が清潔を避けたがる理由を知っている。自分の力で何もできないという不甲斐なさが、彼を頑なな態度にさせているのだ。
「放っておくわけにはいきません。看護師の仕事ですから」
少し強い口調で返すと、彼はふっと息を漏らした。諦めを含んだような、柔らかな声が室内に広がる。
「……あんたは、本当に世話焼きだな」
「そうですよ。さあ、ベッドの背を倒しますね」
私は彼が拒否しきれないことを知っている。彼が自力で何もできないことを自覚しているからこそ、それを補う私の存在を受け入れている。
清拭のために肌を露出させ、温かいタオルで首筋から腕にかけて丁寧に拭いていく。入院以来、彼がどれほどの閉塞感を抱えてきたのか、その肌の冷たさが物語っている。
「……悪いな、こんなことをさせて」
彼は天井を見つめたまま、小さく呟いた。その言い方が妙に私の胸の奥に引っかかって、消えてくれない。
「いいえ。……こうしていると、人の温もりが分かるでしょう?」
私はあえて明るく答える。何かを考え込む時間を、少しでも奪いたかったのかもしれない。
「あんたはいつもそうやって、誰にでも優しいのか?」
彼が唐突に尋ねてくる。
「そんなことはありません。……九条さんだから、こうして時間をかけているんですよ」
「俺だから、か。……ずいぶんと買われたものだな」
「そんなつもりではありません。……ただ、少しでも心地よく過ごしてほしいだけです」
続いて、洗髪の準備を整える。簡易洗髪台をベッドにセットし、彼を慎重に誘導する。
耳元に手をやり、湯加減を確かめながらお湯をかける。彼がベッドで横たわっているため、どうしても私の体が彼の顔に近い位置へ押し込まれる形になる。
シャンプーの泡を立てようと前かがみになり、必死に彼の髪を指先でマッサージすることに全神経を集中させていた。
「……おい、あんた」
九条さんが唐突に、少しだけくぐもった声を出す。
「どうかしましたか? お湯が目に入りましたか?」
私は慌てて泡を拭おうと身を乗り出す。その瞬間、彼の額に柔らかい感触を押し当てていることに気づいた。
視線を下げると、私の胸が彼の顔にしっかりと密着している。洗髪台の高さと角度のせいで、自分では全く意識できていなかったのだ。
「……あんたさ、今、俺の顔を何を埋めているか分かっているのか?」
九条さんは顔を赤くする様子もなく、むしろ面白がるような口調でそう指摘した。
「えっ……あ、ええと……」
私は自分の胸が彼の鼻先にまで触れている事実に気づき、心臓が跳ね上がるような衝撃を受けた。
「……病院でこんな経験ができるとは思わなかったな。看護師の教育ってのは、ずいぶん大胆になったものだ」
「ち、違います! そういう意図は全くなくて、ただ洗髪に集中していただけで!」
私は慌てふためきながら身を引こうとするが、洗髪台の縁に体が引っかかって動きがぎこちなくなる。
「……ふん、そんなに慌てるな。俺も男だからな、そうやって無防備に近づかれると、色々と困るんだよ」
彼はわざとらしくため息をつくと、私の様子を観察するようにじっと見つめてくる。
「も、申し訳ありません! すぐに離れますから!」
「いや、いい。……あんたのその動揺した顔を見るのは、案外悪くない気分だ」
九条さんは満足げに笑うと、再び天井を向いて目を閉じた。私は自分の顔の赤さが消えないことを悟り、ただ黙々と泡を洗い流すことだけに集中する。
「……さっきの話、本当にわざとじゃないだろうな?」
「当たり前でしょう! 私は真剣に洗っているんですから!」
「そうか。……なら、その真剣さを他のことにも向けてやればいいのに」
「他のこととは具体的に何ですか」
「さあな。あんたが自分で見つけることだよ」
彼は独り言のようにそう呟き、また静かになった。
洗髪を終え、タオルで髪を丁寧に拭き上げる。彼の手が動かせない分、私はいつもより時間をかけて、丁寧に彼の世話をした。
彼が私の手を借りて、ようやく本来の自分に戻ろうとしているように思えた。私たちは言葉を交わすこともなく、ただ流れる時間を一緒に消費していた。
「……なあ、あんた」
「はい、何でしょう」
「明日も、またこうして世話をしてくれるのか?」
彼は目をつぶったまま、心なしか声を弾ませて尋ねる。
「もちろんです。……清拭も洗髪も九条さんが自分でするようになるまで、私が責任を持って続けます」
「……責任か。あんたは本当に真面目だな」
「真面目というか、それが私の仕事ですから」
彼は口元に微かな笑みを浮かべ、それ以上は何も言わなかった。
彼はすっかり落ち着いた様子で、枕に頭を預けている。その姿がどこか清々しく見えて、私は少しだけ胸が温かくなる。
鏡越しに彼を見る。今までとは違う空気が、この部屋には満ちている。
洗髪という日常の動作を通じて、私たちは確かに何かを分かち合った。それは治療という名目では説明がつかない特別な何かだ。
私は手際よく洗髪台を片付け、再び点滴の調整を行う。彼の肌は清潔になり、表情にもどこか柔らかな余裕が宿り始めている。
この病院で働く中で、私は多くの患者と出会い、そして別れてきた。だが、彼と過ごすこの時間は、どれもが新しい発見の連続だ。
退院までの日々が、彼にとって単なる空白ではなく、意味のある時間になるように。私はそう強く願いながら、病室を後にする。
静かな廊下で、私は自分の制服に軽く触れる。彼から受け取ったこの熱量は、明日の私を支える糧になる。
病院の中には、誰にも言えない秘密や願いがたくさん眠っている。私もその一部を背負いながら、今夜もここで誰かの支えであり続けるのだ。
階段を降りながら、私は今日の出来事を思い出し、ふと苦笑する。あの時の彼の顔と、私の情けない声が脳裏から離れない。
でも、それもまた看護師という仕事の一部なのかもしれない。人と人が向き合う現場には、理屈では割り切れない喜びがある。
明日はどんな物語が待っているのだろう。私はそんな期待を抱きながら、ナースステーションで待つ仲間たちの元へ戻っていった。
今日という日が終わり、また新たな朝が来る。その時、彼はどんな顔をして私を迎えてくれるだろうか。
私は心の中で、彼への感謝を呟く。誰かと出会い、誰かのために生きる。その尊さを、今日改めて教えられた気がする。
勤務表を確認し、私は明日の自分の姿を思い描く。明日もまた、彼と一緒に新しい一歩を踏み出そう。
病院という場所は、命が繋がる場所だ。私はその繋がりを大切に、これからも歩み続けていく。
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