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<全話投稿> 一ノ瀬玲は、恋をしない ~触れない看護師と、壊れた彼の特別室~  作者: 第三ひよこ丸
第2章:静かに侵される距離

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第17話 食べられない理由

 特別室のテーブルには、今日もまた手つかずの食事が並んでいる。運んできたときとほとんど変わらない状態で放置されたトレイを見て、私はため息を呑み込んだ。


 彼はベッドの上で、相変わらず窓の外の須磨の海を見つめている。食事を摂らない日々が続き、心なしか頬の肉が落ちたように見えて、看護師としての焦りが募る。


 私は点滴の交換という名目で彼に近づき、静かにトレイを指差した。


「口に合いませんか?」


 彼はすぐには答えない。数秒の長い沈黙の後、彼は面倒くさそうに片方の肩をすくめる。


「食欲がないだけです」


 短い返答に、私は思わず眉をひそめる。彼の瞳には食欲の欠如だけではない、もっと別の感情が深く渦巻いているように見えるからだ。


「そうは見えませんよ。何か、他にも理由があるのではないですか?」


 私が粘り強く尋ねると、彼は視線を窓の外に固定したまま、絞り出すように本音を零す。


「……何もしてないのに食べるの、嫌なんです」


 その言葉を聞いて、私は言葉に詰まった。そんな理屈で食事を拒む人がいるなんて、想像もしていなかったからだ。


「動いていないから、お腹が空かないということですか?」


 私が問いかけると、彼は自嘲気味に口角を上げた。


「違います。俺は、自分で稼いで、自分で動いて、その対価として食事を摂るのが人間だと思っている。なのに今は、何もできずに天井を眺めるだけで、他人に運ばれたものを口にする」


 彼は悔しそうに拳を握り締めようとするが、両腕の固定具に阻まれて叶わない。


「それが、俺には耐えられないんです。自分が無力な置物みたいで、惨めでたまらない」


 彼の中に渦巻いているのは、自分自身への激しい苛立ちだった。両腕を複雑骨折し、何一つ自分でできない現状に対する腹立たしさが、食事という行為を拒絶させている。


 その怒りの矛先をどこにも向けられず、彼はずっと自分の中で消化不良を起こしていたのだ。私は彼の苛立ちを汲み取り、少しだけ声のトーンを落とす。


「ご自分で稼いでいたという事実は、誰にも消せませんよ。今は療養の期間だと割り切ることはできませんか?」


 彼は私の言葉を鼻で笑う。


「割り切れたら苦労しません。俺の仕事は、俺の頭と手で作ってきたものだ。それがこうして、完全に停止しているのが許せない」


 彼は語気を強め、これまで隠していた焦燥感を露わにする。事故に遭ったことは誰のせいでもないはずなのに、彼はその事実に抗い続けている。


「そんなに自分を追い詰めても、体は元には戻りませんよ。むしろ、食べて栄養を摂らないと、余計な時間は過ぎていくばかりです」


 私が諭すように言うと、彼は私をじっと見つめてくる。


「貴女には分からないでしょうね。自分の価値が自分の行動だけにあると思っている人間の、この焦燥感は」


 私は彼に対して、何も言えなくなってしまう。私自身も仕事という鎧を身に纏い、その中に自分を隠すことで社会と繋がってきたからだ。


「……少しだけ、一口でもいいので食べてみませんか。回復するために食べることも、立派な仕事だと思いますよ」


 私がトレイを近づけると、彼は溜息をついて視線を逸らした。


「仕事、ですか。……妙なことを言う看護師だな」


 それでも彼は、少しだけ頑なだった表情を緩めた。その小さな変化を見逃さないように、私は食器を手に取る。


「食べられないのなら、食べさせます。それが今の私の仕事ですから」


 私がスプーンを差し出すと、彼は観念したように口を開いた。


「恩着せがましい人だ。……これじゃ、本当に子供扱いだな」


 彼は皮肉を言いながらも、私の差し出す食事を受け入れる。スプーンが彼の唇に触れるたび、私は彼が少しずつ現状を受け入れようとあがいているのを感じた。


 飲み込むという単純な動作にも、今の彼にとっては膨大なエネルギーが必要なのだろう。一口食べるごとに、彼の瞳から鋭い光がわずかに影を潜めていく。


「味が分からないでしょう。……もっと温かいものか、あるいは彼が好むものを探すべきだろうか」


 私は心の中で、今後のメニュー構成について考えを巡らせる。特別室だからといって、必ずしも彼にとって心地よい食事が提供されているとは限らない。


 彼が食べるという行為を「惨めなこと」だと思わなくなる工夫が必要だ。私はスプーンを動かしながら、少しだけ話題を変えてみることにした。


「美味しいものを食べると、少しだけ外の世界を思い出せませんか?」


 彼は目を細め、私の問いかけに対して少しだけ思案する素振りを見せた。


「外の世界。……俺は、ずっとデスクでコーヒーとサンドイッチばかりだった」


 彼が語る過去の食生活は、彼がどれだけ仕事に没頭していたかを物語っている。そんな彼にとって、今の食事はあまりにも味気なく、目的を失った作業に思えるのだろう。


「次は、もう少し別のものを。……例えば、この街の有名なパン屋のスープとか」


 私が提案すると、彼は少しだけ驚いたような顔をした。


「病院でそんな贅沢を言うなと言われるぞ」


 彼は少しだけ笑い、初めて私の方をまともに向いた。その表情には、先ほどまでの刺々しさはなく、どこか少年のような未熟さが残っている。


「看護師の権限で、なんとかしてみます」


 私が冗談めかして言うと、彼はまた鼻で笑った。


「変な人だ。……俺がこんな状態なのに、まだ仕事をしようとする」


 彼の言葉の端々から、少しずつ他者への警戒心が解けていくのが伝わる。それは私が看護師として引き出そうとしていた結果であり、同時に私の平穏を脅かすものでもある。


 彼が少しずつ回復していくにつれ、私たちの距離は否応なしに近づいていくだろう。病院という閉鎖された空間で、私たちはどこまで互いに深く踏み込むことができるのか。


 食事が終わる頃には、部屋の中には柔らかな夕闇が満ちていた。彼は食後の一服という習慣も奪われていることに気づき、わずかに眉をひそめる。


「……何もしなくても、腹は減るものなんですね」


 彼は自分の体力の衰えに苦笑いする。その姿は、かつての仕事人間としての誇りを保ちつつも、現実を受け入れようとする一人の患者として映った。


「生きている以上、エネルギーは必要ですから。それが人間の根本的なシステムです」


 私はトレイを片付けながら、事務的に答える。けれど、その言葉の中に込めた願いは、ただ彼に明日を信じてほしいという個人的な感情に近い。


 彼は再び窓の方へ視線を戻し、須磨の海を見つめる。海はいつでも、私たちの感情を流し去ることはなく、ただそこに在り続けている。


 私は彼に対して何を求めているのか、自分自身に問いかける。救いか、あるいは共感か。それとも、単なる看護師としてのエゴなのか。


 答えはまだ、どこにもない。それでも、私はこの特別室という檻の中で、彼と共に時間を共有し続ける。


 夜の明かりが灯り、病院という無機質な場所が温かさを帯びる。私たちは互いに言葉を隠し、それでも何かを期待して言葉を交わす。


 明日はきっと、今日よりも少しだけ良い日になるはずだ。私はそう信じて、自分の仕事の合間を縫って彼のもとへ戻ることを誓う。


 廊下の先にはナースステーションの明かりが小さく灯っている。私はそこで、自分自身の生活という檻に戻る準備を整えるのだ。


 この夜の記憶を胸の奥にしまい込み、私は再び看護師としての仮面を被る。私たちはこれからも、この不器用な距離感を保ちながら歩んでいくのだろう。


 彼が再び自分の足で歩き出し、この街で新しい生活を始めるその日まで。私は看護師として、彼という個人の背中を見守り続ける。


 それは看護師の職務というよりも、同じ孤独を抱えた者同士の静かな共鳴かもしれない。私はそう自分に言い聞かせ、長い廊下を静かに歩き出した。


 夜の帳は下り、須磨の海は暗闇の中に溶けていく。けれど、明日の朝にはきっと、新しい光がこの部屋を照らしてくれるはずだ。


 私は明日、彼が何を望むのかを考えながら、自分自身の明日に思いを馳せる。病院というシステムの中で、私たちはそれぞれの檻を少しずつ壊そうとしている。


 それは誰にも気づかれない、静かな革命のようなものかもしれない。私は明日も、この部屋にやってくる。


 彼が求めるものが、パン屋のスープか、あるいは別の何かか。どんなものであっても、私は彼のために探しに行こうと思う。


 病院の灯りが消えていく中で、私は自分の心に灯る小さな明かりを大切にしたい。明日の朝、彼が目覚めたとき、私たちがどんな会話を交わすのかを楽しみにしながら。


 私たちは今日も、この狭い病室の中で生きている。明日への希望を、ほんの少しだけ抱えながら。

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