第16話 被害者と加害者の雑談
昼下がりの特別室に、堂島さんがまたしても足を踏み入れた。その気配だけで部屋の空気が張り詰めるような気がして、私はそっとナースステーションの方へ視線を逸らす。
彼女は九条さんに、経営の動向や退院後の計画、あるいは世間話を滔々と語りかけていた。九条さんもまた、先ほどまでの私に対する刺々しい態度が嘘のように、表情を和らげて聞き入っている。
ふたりが交わす言葉の端々から、私には到底踏み込めない形容しがたい信頼関係が透けて見える。私はただの看護師として点滴の交換を済ませると、足早に退出の準備を整える。
背中越しに聞こえる彼らの会話が、心なしか今の私には遠く感じられた。部屋を出ようとしたそのとき、堂島さんがふと用事を思い出したのか、廊下へと呼び止める声が響く。
「あの、看護師さん。今月分の入院費の請求書、まだ会計から受け取っていなくて。手続きを円滑に進めるためにも、至急お持ちいただけますか」
彼女は一分の隙もない笑みを浮かべ、淡々と告げた。私は小さく頷き、彼女に促されるまま病室を後にした。
受付へ向かい、事務方から書類を受け取ってから特別室へと戻る。堂島さんとのやり取りを終え、再び病室へ戻ったときには、彼女はすでに退室していた。
残された九条さんは、先ほどまでの活気を失い、再び窓の外の空を見つめて物言わぬ人形のようになっている。私は彼が退屈しているのではないかと気を回し、必要なものはないかと尋ねることにした。
彼は私の問いかけに対して、どこか億劫そうな素振りを見せるだけだ。何がきっかけだったか覚えていない。会話の流れだったと思う。彼が不意に、独り言のように自身の過去を零し始めたのだ。
「小学校から大学まで男子校だったんで」
「女性って未だによく分からないです」
二十七歳にもなる社会人の男性が口にするには、あまりにも純粋すぎる告白だ。私はふと、先ほど彼が堂島さんと交わしていた雑談の光景を思い出し、喉の奥から疑問がこぼれ落ちる。
「でも、楽し気に話しているではないですか?」
私が何気なく投げかけた言葉だった。すると九条さんは、窓から視線を外さぬまま、乾いた声で即答した。
「加害者と被害者だけです」
その言葉は、まるで鋭利な刃物のように空気を切り裂いた。彼が両腕を複雑骨折するに至った経緯を、私はカルテの隅に記された情報として知っている。
深夜の帰宅途中、専属運転手が起こした居眠り事故。不運にも彼は、その事故の被害者として車にはねとばされたのだ。
堂島さんが経営するこの企業の手厚い庇護により、彼はこのように特別室という超豪華な病室に囲まれている。だが、そんな贅沢な環境も、彼にとっては罪の重さを突きつけるだけの檻に過ぎないのだろう。
「経営者は会話上手ですよ。仕事の話から最近のトレンドまで、まるで何事もなかったかのように雑談を積み上げていく」
彼は複雑に固定された腕を、わずかにピクリと動かした。
「俺たちが交わしているのは、表面上は普通の会話に見えるでしょう。でも、本質は罪の清算と賠償についての生存確認なんです。あんなふうに笑って話していても、心の中では互いに距離を測り続けている」
私は自分の言葉が浅はかだったと痛感し、沈黙を守った。彼はそんな私に構わず、自嘲気味な笑みを浮かべて続ける。
「なぜそんなに女性を警戒するんですか? 堂島さんに対しては、少なくとも敵意はなさそうですけど」
私が恐る恐る尋ねると、彼は視線を床に落とし、独り言のように呟いた。
「警戒というか……もう、どう信じればいいのか分からないんです。過去の交際相手には、ことごとく裏切られてきましたから」
彼がポツリと「女性には騙され続けられたから」と消え入るような言葉を零す。
「騙された、とは?」
私が問い返すと、彼は乾いた笑いを漏らした。
「付き合っていた女性が、実は金目当てだったり、他の男と同時進行で付き合っていたり。……俺がエンジニアとして稼ぎ始めた途端、手のひらを返したように態度を変えるんですよ」
その言葉には、彼が長い時間をかけて蓄積してきた不信感が凝縮されていた。誰かを信じては裏切られ、その傷が癒える前にまた次の裏切りに遭う。
「だからこそ、女性は理解不能な生き物なんです。俺にとっては、信頼という言葉が一番縁遠いものになってしまいました」
私は彼が背負ってきた重荷の正体を知り、胸が締め付けられる思いだった。彼は自分を守るために、他者との間に高い壁を築くしかなかったのだ。
私は看護師として彼を支える立場にありながら、彼の抱える痛みの本質からこれほど遠い場所にいたのか。
自分の浅はかさを恥じ、私は言葉を失ったまま立ち尽くす。九条さんはそんな私の沈黙を気にも留めず、また窓の外の空へと意識を戻してしまう。
彼が抱える女性への不信と、事故によって奪われた平穏な日常。ふたつの痛みが、この狭い病室の中で互いに混ざり合うことなく存在している。
私は彼がこれからどんな風にこの街で生きていくのかを、想像しようとしてやめた。未来のことを考えるのは、今の私にはまだ早すぎる気がしたからだ。
私たちはただ、この場所で言葉を積み上げ、互いの距離を測り合うことしかできない。窓の向こうで日が暮れ始め、街がオレンジ色に染まっていく。
その光景を眺めながら、私は彼の隣にいるという事実を噛みしめる。明日にはまた、いつもの無機質な日々が戻ってくる。
それでも、今日交わした言葉の断片だけは、私の心の中に静かに刻まれていくような気がした。私は何事もなかったかのように、彼の隣から少しだけ距離を置く。
それが彼を守り、私を守るための唯一の方法なのだと信じて。ナースステーションに戻る足取りは、先ほどよりも少しだけ軽くなっているような気がした。
九条航平という男の存在が、少しずつ私の日常の中に染み込んでいく。その事実は、私にとって少しだけ恐ろしく、そして何よりも愛おしい変化だった。
夜の帳が本格的に下りて、病院の廊下には静かな時間が流れていく。私は自分の制服を整え、明日の準備をするために歩き出す。
この夜の記憶を胸の奥にしまい込み、私は再び看護師としての仮面を被るのだ。私は自分の部屋のドアを開け、明日の朝を待つための長い夜へと身を沈めた。
彼は事故以来、自分の人生が他人によって支配されているような感覚に陥っているのかもしれない。どれだけ親切な言葉をかけられても、それが加害者側の義務感から来るものだと理解している。
だからこそ、無関係なはずの私に対して、彼はこれほどまでに強い拒絶を示していたのだ。私は彼の孤独を癒やそうとするのではなく、ただそこに存在することを認めなければならない。
病院という施設は、病人を管理し、治癒させ、社会へ戻すための効率的なシステムだ。しかし、この特別室の中で起きているドラマは、そんな効率性とは無縁の場所で脈打っている。
私は自分のナース服の胸ポケットからペンを取り出し、カルテに今日の観察記録を書き込む。彼が少しだけ心を開いてくれたかもしれないという希望は、私の胸を小さな灯火のように照らした。
もちろん、明日になればまた彼は私を”余計な優しさ”を振りまく敵だと見なすだろう。それでも、私はこの関係を維持し続けたいと願っている自分がいることに気づく。
須磨の海から吹き込む潮風が、窓の隙間からかすかに侵入してくる。私はその冷たい風を浴びながら、深呼吸を繰り返した。
私たちは互いに何かを隠し合い、それでも言葉を交わすことで繋がろうとしている。この不思議な空間で過ごす時間が、いつか私たちの魂を解き放つ鍵になるだろうか。
私は明日、彼にどんな言葉をかければいいのかを考えながら、夜の静寂の中に溶け込んでいった。病院の灯りがひとつ、またひとつと消え、世界が暗闇に包まれる。
それでも、どこかで誰かが息をしているという気配が、私を孤独から救い出してくれる。九条さんの眠りが、少しでも安らかなものでありますように。
私はそう祈りながら、自分自身の生活という檻の中で、明日への準備を黙々と進めるのだった。この狭い病室で交わされた、不器用な魂のぶつかり合いを、私は決して忘れない。
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