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<全話投稿> 一ノ瀬玲は、恋をしない ~触れない看護師と、壊れた彼の特別室~  作者: 第三ひよこ丸
第2章:静かに侵される距離

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第15話 須磨の夜景

 夜の帳が下りた特別室は、空調の作動音だけが響く閉鎖空間だ。窓の外には須磨の海が広がり、対岸の街明かりを吸い込んで暗い真珠のように鈍く光を放っている。


 両腕を複雑に固定された九条さんは、ベッドの上で窮屈そうに身じろぎを繰り返していた。ふいに彼が、絞り出すような声で窓の方角を指し示す。


「……外を見たい」


 私は無言で彼に歩み寄り、電動ベッドの操作パネルに手をかける。背もたれをゆっくりと起こしていくと、九条さんは苦痛に顔を歪めながらも、窓への視線を外そうとはしなかった。


 私は彼がこれ以上痛みを感じないよう注意深く背中を支え、窓の方へとその上半身を向けさせる。ようやく視界が開けたのか、彼は満足げに、けれど寂しげに息を吐き出した。


 そのままの姿勢で、彼が唐突にその低い声を暗闇に投げかける。


「あれ須磨ですか?」


 私は歩み寄って彼の隣に並び、視線を対岸の柔らかな光の弧へと移した。生まれ育ったこの街の海であり、どこから見ても須磨の海岸線であることは一目瞭然だ。

 しかし、私は敢えてその確信を言葉にすることを避ける。患者に対して余計な親近感を見せたくないという私の生存戦略と、突き放すことで自分を守ろうとする心理が、言葉を濁らせるのだ。


「……まあ、そうですね」


 わざと少しだけ声を突き放し、彼との間に一定の心理的な壁を築く。


「あそこに見えるのが、ヨットハーバーですか?」


 彼が顎をしゃくって問うので、私は目を凝らす。


「そうですね。この時間帯はもう船は動きませんけれど、昼間は賑わいますよ」


 九条さんは小さく頷き、また少しだけ黙り込んだ。


「……随分と遠くまで来た気分です。仕事でこの街に来て数年になりますが、夜の海をこうして眺めるのは初めてかもしれません」


「出身は、こちらではないのですか?」


 私が何気なく尋ねると、彼は少しだけ自嘲気味に口元を緩めた。


「ええ、北の方の出身です。……故郷とはまるで違う、この街の湿った空気にようやく馴染んできたところだったんですが、結局こうして天井を眺める毎日ですよ」


 私は彼が何を恐れているのかを、誰よりも理解しているつもりだ。裏切られることの恐怖、そして自分の尊厳が他者の軽薄な同情によって損なわれることへの過剰な怯え。


「何か、必要なものはありますか? 飲み物とか、読みたい本とか」


 あえて事務的な提案をすることで、私は彼との距離を測る。


「いいえ。余計なものは要りません。……貴女のその、取り繕ったような優しさは、もう十分です」


 彼は私を横目で射抜くように見た。


「海、好きなんですか?」


 唐突な問いかけに、私は反射的に自分の心に湧き上がる感情を枯れ木のように押し潰す。


「別に」


 その突き放したような一言は、看護師としての私が彼に対して敷いている防御線の壁だった。


「そうですか。俺は、あまり好きじゃありません。……海って、全てを流して消してしまうでしょう。俺がこの街に来て積み上げた仕事も、信用も、何もかも」


「流すだけではありませんよ。新しいものを運んでくることもあります」


「それは貴女のような、この街で根を張って生きている人の言い分だ」


 彼の言葉には棘がある。だが、その棘の根底にあるのは剥き出しの不安だった。私は敢えて冷ややかな美貌を武装として使い、これ以上彼に付け入る隙を与えないように努める。


 沈黙が長く続き、室内には波音さえ届かない隔絶された時間が流れていく。不意に彼が、何かを吐き出すようにして付け加えた。


「見るだけなら」


 私は彼の言葉の裏側にある、切実な拒絶の意思を受け止めるように、小さく頷く。海はただ眺めるだけの距離にあるからこそ、砂に足を取られることもなく、潮に流されることもない。


 私たちが互いに心の奥底を覗き込まないためには、このくらいの距離感がちょうど良いのだ。そう納得して私は自分の呼吸を整えるが、胸の奥で微かな罪悪感がざらつくのを感じた。


 過去に友人たちとの関係を崩壊させてきた私にとって、誰かと親密になることは平穏を壊すことと同義だったからだ。私はその罪悪感を、仕事という鎧の中に深く封じ込めることに慣れきっている。


 看護師としての献身は、誰かを救うためではなく、誰からも愛されないための切実な生存戦略だった。九条さんはなおも沈黙を続け、その視線は再び海の方へと引き寄せられていく。


 部屋の中に流れる時間は、驚くほど緩やかで、私にとっては救いのように感じられた。その日は不思議と、言葉の端々に漂うはずの気まずさが薄れていくように思える。


 私が彼の隣に立ち、彼が海を見ているというだけの事実が、なぜか胸の奥を少しだけ温めた。それは看護師と患者という関係を超えて、同じ暗闇の中に身を置く孤独者同士の、静かな共鳴かもしれない。


 私は意識して視線を彼から外し、窓の端に付いた結露を指先でなぞる。結露の跡が、ガラスに描く無機質な模様が、私の今の心情を物語っているようだった。


 誰にも見えない檻の中に自分を閉じ込めることで、私はこれまで平穏を維持してきたのだ。この夜の須磨の光景は、いつか終わる夢のように、私の記憶の底に沈んでいくのだろうか。


 遠くで船の汽笛が鳴り、その低い音が夜の帳をわずかに揺らしたような気がした。九条さんはその音に反応するようにして、肩の力を少しだけ抜く。


 彼の硬い表情が、闇の中でほんのわずかに解けていくのを、私は横目で見逃さなかった。たとえ明日になれば、また彼が私を敵視したとしても、今夜のこの時間だけは嘘ではなかったはずだ。


 私は窓枠を掴んでいた手をそっと放し、一歩だけ彼との距離を置く。これ以上近づけば、きっと私は友人関係を壊したときのように、自分自身の制御を失ってしまうだろう。


 だからこそ、今のままの冷めた距離を維持し続けることが、私なりの優しさなのだ。窓の外には、変わることのない夜景が、ただ果てしなく横たわっている。


 そんな景色を眺めながら、私は自分の鼓動の早まりを、深く長い呼吸で打ち消そうとした。九条さんの横顔は、街灯の薄い光を受けて、どこか儚げな美しさを宿していた。


 彼が纏っている無力さと脆さは、過去に私が友人たちに感じた羨望の裏返しのように思える。私たちは互いに何かを抱えながら、言葉にできない思いを闇の中に溶かしているのだ。


 そう考えれば、この沈黙が少しだけ愛おしく感じられることも、許されるのかもしれない。私はふと、彼が何を求めてこの病院にいるのかを、改めて心の中で問い直す。


 彼はただの患者であり、私はただの看護師という枠組みの中で、私たちは交差してしまった。この交差点がどこへ続いていくのか、今の私にはまだ想像さえできない。


 ただ、この窓辺で過ごした夜の時間は、私の日常という檻に小さな風穴を開けた気がした。私は再び九条さんのほうを向き、彼が何かを言い出すのを待つような姿勢をとる。


 しかし彼は何も語らず、ただひたすらに須磨の海を見つめ続けていた。そんな彼の姿が、なぜかとても強く、同時にひどく孤独に見えて胸が締め付けられる。


 私は自分の制服の袖を強く握りしめ、溢れ出しそうな感情を必死に抑え込んだ。今の私には、感情を露にすることは許されないのだと、自分自身に言い聞かせる。


 夜景が少しずつ遠ざかり、部屋の中の明かりが相対的に暗く感じられるようになる。須磨の夜は更け、私たちを包む闇はより一層深さを増していくようだった。


 私はそっと彼に背を向け、ナースステーションへと戻るための足を動かした。振り返ることのない彼の背中を見つめながら、私はこの夜の気まずさのなさを心に刻み込む。


 明日もまた、同じ病室で同じ光景を眺めることになるのだろうか。そんな曖昧な期待を抱えながら、私は重い足取りで特別室を後にした。

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