第12話 夜勤
夜勤という時間は、病院という場所を全く別の顔へ変貌させる。
日中の慌ただしい足音や、あちこちで交わされる指示の声は消え去り、ただ空調の機械音と遠くのナースステーションから漏れる微かな電子音が、広大な廊下を埋め尽くすだけだ。
私は静まり返った床の上で、ナースシューズの音を極力抑えながら巡回を続けていた。
無機質な廊下を照らす深夜の灯りは、どこか心細いような、それでいて誰にも干渉されない安らぎを含んでいる。
特別室の前に差し掛かったとき、私は無意識のうちに足を止めた。
扉の隙間からは、橙色の柔らかな光が漏れている。
時計の針は二時を回ったところだったが、九条さんの部屋はまだ眠りについていなかった。
私は迷った末に、軽くノックをしてから扉を押し開けた。
部屋に入ると、ベッドの上に座った九条さんが、窓ガラスの向こうに広がる黒い闇を見つめているのが分かった。
その横顔には、昼間の尖ったような苛立ちはなく、ただ深い徒労感が張り付いているように見えた。
「眠れませんか?」
「まあ」
私が問いかけると、彼はゆっくりと視線をこちらへ戻した。
返ってきたのは、投げやりに近い短い一言だけだった。以前の彼なら、もっと鋭い言葉で私を追い返していただろうに、今夜の彼は妙に穏やかだった。
私はそのまま引き返そうとしたのだが、彼がふいに口を開いた。
「看護師って夜眠いんですか?」
予期せぬ質問に、私は一瞬だけ立ち止まった。
入院して以来、彼から自分に関係のない話題を振られたことなど一度もなかったからだ。
「眠いですよ。でも仕事中なので。倒れない程度には」
私は素直に答えた。
正直、眠気で頭がぼんやりとすることもあるけれど、それは口に出すべきではないだろう。
私は自分の体調管理を自虐気味に告げた。
本当は、この激務の中で感情を麻痺させることが、私にとっての唯一の安らぎだったのだけれど。
「ふっ……」
すると、部屋の中に小さく喉を鳴らすような笑い声が響いた。
それは軽蔑を含んだものではなく、どこか自嘲にも似た、とても人間味のある音だった。
私は驚いて彼の顔を見た。
暗い部屋の中で、彼の目元が僅かに細められている。
ずっと張り詰めていた彼の中の何かが、この深夜の静けさに溶かされたのか、あるいは私の何気ない答えが彼の警戒心を少しだけ解いたのか。
それまで通りの冷え切った関係であれば、決してあり得ない光景だった。
私はただその一瞬の余韻に触れないようにしながら、彼の枕元の水差しが空になっていないかを確認した。
病院の夜は、時に残酷なほど時間が長く、時にあっという間に過ぎ去っていく。
私はナースステーションに戻るまでの間、自分の吐息が少しだけ弾んでいることに気づいた。九条さんが見せてくれたあの小さな笑みは、単なる気まぐれだったのだろうか。それとも、彼もまた私と同じように、この閉ざされた空間で何かを期待していたのだろうか。
私は自分の制服の袖をぎゅっと握りしめた。誰かを愛することも、愛されることも避けて生きてきた私にとって、他人の感情に触れることは何よりも怖いことなのだ。
でも、もし彼が私と同じように、この夜の闇に孤独を感じているのだとしたら。
そんな考えが頭をよぎり、私は慌てて首を振った。仕事に感情を持ち込むのは、一番の禁忌だ。
私はナースステーションの椅子に深く腰掛け、次の巡回の時間まで、自分の鼓動を落ち着かせることにした。
モニターに映し出される波形だけが、私の今の世界を形作っている。患者の命を守るための数値、ただそれだけの存在として、私は明日を迎えなければならない。けれど、さっきの九条さんの笑い声が、どうしようもなく耳の奥で残響を続けていた。
窓の外を見上げれば、神戸の街の明かりが遠くに小さく輝いている。あそこには、私とは無縁の温かな暮らしがあるのだろうか。誰かと笑い合い、何気ない夜を過ごす、そんな普通の時間が。
私は大きく息を吐き出し、デスクの上にある看護記録に目を落とす。次の巡回で、また彼と何か話すことができるだろうか。
いいえ、そんなことは考えてはいけない。私はただの看護師であり、彼はただの患者なのだから。
その境界線を守り続けることこそが、私たちが壊れないための唯一のルールなのだと、自分に言い聞かせた。
深夜一時。
再び廊下を歩く足音が響く。
私はまた特別室の前で立ち止まるかどうかを迷いながら、ゆっくりと歩を進める。
彼が今、何を考えているのかは分からない。ただ、この暗い病院の中で、私たち二人が同じ時間を共有しているということだけは確かな事実として残っている。
それは、私の閉ざされた心にとって、少しだけ眩しすぎる光なのかもしれない。
私は自分の歩幅を整え、ナースコールが鳴らないことを祈りながら、長い廊下を突き進んでいった。
この夜が明ければ、またいつも通りの日常が始まる。患者のケアをして、バイタルを測り、事務的なやり取りを繰り返す日々。
でも、たった一度の笑い声が、私の心の中で確かな波紋を広げている。この波紋が、いつか私の檻を突き破ってしまう日が来るのだろうか。そんな不安を抱えながら、私は夜の深淵へと足を踏み入れた。
私はふと、自分の手のひらを見つめる。そこには、これまで数え切れないほどの患者の命を支えてきた証が刻まれている。
でも、誰かを救うことで自分を救うなんて、そんな綺麗事は信じていなかった。
九条さんとの出会いが、私の運命を大きく変えることになるなんて、この時の私はまだ知る由もなかった。ただ、この夜の静けさが、私たちの距離を少しだけ縮めてくれたということだけを感じていた。
明日の朝が来るのが、少しだけ待ち遠しいような、あるいは怖いような、複雑な気持ちで、私は再び特別室の扉へと向かった。
今度は、もっと何か言葉を交わせるだろうか。あるいは、ただ沈黙の中に身を置くだけになるだろうか。
何が起きても、私は看護師として、彼を見守り続けなければならない。
それが、私の選んだ道なのだから。
私は一歩、また一歩と歩みを進め、再び特別室の前へと戻ってきた。扉の向こうからは、相変わらず穏やかな気配が漂っている。
私はノックをするか迷ったが、結局そのまま扉を少しだけ開けて、中の様子を覗き見る。彼はまだ、眠らずに窓の外を見つめていた。私の視線を感じたのか、彼はまたこちらを向いた。
今度は、昼間のような攻撃的な瞳ではなく、穏やかな光を宿していた。ただ、そこにいるという事実だけで、お互いの存在を確認し合えているような、不思議な感覚に包まれた。
私は微笑むこともできず、ただ小さく会釈をして、その場を離れることにした。廊下の先へ消えていく私の背中を、彼が見つめていたような気がした。それは、私の錯覚だったのかもしれないけれど、確かな温もりとして、私の心に残り続けた。
私はナースステーションに戻り、仕事の手を動かし続ける。
こうして、私の夜は過ぎていく。誰にも知られることのない、私だけの秘密の夜が。
この物語がどこへ向かっているのか、私にはまだ分からない。でも、この道が、私を新しい場所へと連れて行ってくれるような気がした。
そんな予感を胸に、私は次の巡回の準備を整えた。明日の朝が来る前に、やるべきことはまだたくさんある。 私は自分を奮い立たせ、再び戦場のような日常へと身を投じていく。
この夜勤が終われば、またひとつ、私の心は少しだけ変わっていくのだろうか。
そう考えると、少しだけ勇気が湧いてきた気がした。
私という人間の物語が、今、静かに動き始めている。それは、私にとって、最初で最後の冒険になるのかもしれない。
そんなことを思いながら、私は朝日が昇るのを、ただ静かに待つことにした。
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