第11話 第二回手術前夜
第二回手術の前日。病室を包む空気が、いつもよりわずかに粘り気を帯びていた。陽光がブラインドの隙間から細い矢となって差し込み、白銀のシーツに縞模様を刻んでいる。
患者自身がどんなに平気な顔をしていても、周囲には薄い膜のような緊張感が漂うものだ。医療スタッフである私でさえ、明日の手術の成功を祈りつつ、心のどこかで張り詰めた糸がちぎれそうな感覚を覚えている。
でも、九条さんはいつも通りだった。表情には乏しく、淡々とした雰囲気のままベッドに腰を下ろしている。会話も相変わらず必要最低限で、こちらの問いかけに対して、ただ肯定か否定を返すだけという状態が続いていた。私は手慣れた仕草で、術前確認のための書類をチェックしていく。明日の手順や注意点について、ひとつずつ説明し、漏れがないかを確認しなければならない。
「九条さん、明日の手術について、何か気になることや不安な点はありますか」
私が穏やかな口調を意識して尋ねると、彼は視線を少しだけ泳がせた。
「別に。いつも通りやるだけだろ」
その返答は、あまりにも素っ気ないものだった。いつもの彼らしい、感情を押し殺したような態度だ。だが、私は帰ろうとして部屋を出る直前、ふと違和感を覚えた。九条さんの手元にあるスマホの画面が、明かりを灯したまま放置されている。通知もなく、サイトすら開かれていない。真っ暗な壁紙が表示されているだけだ。彼は、その何もない画面をじっと見つめたまま、微動だにせずに座り込んでいた。
彼が指先で画面をなぞることもなければ、スクロールをする様子もない。ただ、機械的な光だけが、彼の無表情な顔をぼんやりと照らしている。その姿があまりに非現実的で、私は思わず立ち止まってしまった。九条さんは、誰に聞かせるでもなく、本当に小さな声で呟いた。
「……もう、指が動かなくなるかもしれないな」
その言葉は、空気に溶け出すように病室の隅へと消えていった。私が聞こえなかったふりをして部屋を出るには、距離が近すぎたし、その呟きに含まれていた響きは、無視できない重さを持っていた。
(あぁ、そうか。彼は本当に、この状況をただ受け入れているだけじゃないんだ)
私は心の中で、自分の言葉を反芻する。医師から、神経がつながらない可能性があると聞かされていたのだ。SEという職業において、指先が使えないことは、自分のアイデンティティを根こそぎ奪われることに等しい。キーボードを叩くという行為は、彼にとって呼吸と同じくらい当たり前の日常だったはずだ。それが失われる恐怖は、私たちが想像するよりもずっと深くて暗い海のようなものかもしれない。
それを誰にも言わずに、一人で抱え込んでいたのだ。私はどう言葉をかけていいのか分からず、ただ廊下に続くドアの取っ手を握りしめることしかできなかった。もし私がここで、無責任に「大丈夫ですよ」なんて励ましてしまったら、それは彼にとっての救いではなく、ただのノイズになってしまう気がした。でも、このまま黙って立ち去ることも、今の私にはできなかった。
「九条さん」
私はくるりと振り返り、あえて努めて明るい声を出した。
「またキーボードを叩く姿、楽しみにしている人が必ずいますよ」
九条さんはゆっくりと視線を上げて私を見た。その瞳には、今まで見たことのない深い迷いと寂しさが混ざり合っているように見えた。彼は何も言わなかったけれど、その唇がわずかに震えたように見えた。病室の空気が、少しだけ動いた気がした。先ほどまでの、息が詰まるような感覚とは違う。彼が抱えている不安の一部が、言葉となって外に出たことで、少しだけ中和されたのかもしれない。
私はスマホから視線を離し、一歩、彼の近くへと歩み寄った。看護師として手術の成功に全力を尽くすことはもちろん、一人の人間として、彼が抱えるこの切実な想いに寄り添いたいと思った。
「退院したら、教えてくださいね。どんなシステムを作っているのか」
その言葉を耳にしたとき、九条さんの眉間からわずかに力が抜けたように見えた。彼は小さく頷き、スマホの画面をタップして明かりを消した。ようやく、彼が現実の世界に戻ってきたような気がした。
手術前夜の夜は、長い。明日の朝、彼が目覚めたとき、一番に見る景色が昨日と同じものでありますように。私は心の中で小さく祈り、病棟の廊下に出た。夜勤のスタッフが巡回する足音が、規則正しく響いている。
ナースステーションに戻り、彼のカルテに今日の様子を詳細に書き込んだ。特に大きな変化はなし。しかし、精神的なケアの必要性を、余白のメモ欄にしっかりと記した。これが、私の今の精一杯だ。明日になれば、すべてが決まる。手術の成功、術後の回復、そして彼がまた複雑なプログラムを読み解けるかどうか。すべては未知数だけど、私は彼が再び、仕事に向き合える日が来ると信じている。
夜の病院は、時折、遠くで救急車のサイレンが聞こえる以外は、驚くほどに平穏だった。私は彼が今夜、少しでも深く眠れるようにと、コーヒーを淹れながら願っていた。明日の成功を、誰よりも強く祈りながら。
廊下の窓から見える月は、冷たくて鋭い光を放っている。手術室のスケジュールを確認し、必要な薬剤のリストを再確認する。その作業が、彼を助けるための歯車の一部であると信じて。
私は自分のデスクの隅に置かれた、小さなカレンダーを眺める。明日、この丸印がただの印ではなく、彼がまた自分の指で世界と繋がるための入り口となりますように。
ふと、遠くのナースコールが鳴った。私は思考を切り替え、足早に廊下を進む。九条さんの抱える不安に寄り添いつつも、目の前の患者さんにも最善を尽くす。それが今の私にできる、唯一の償いのようなものかもしれない。
病室の明かりを落とし、夜勤の時間は深まっていく。九条さんは、あの言葉を漏らした後、どんな夢を見ているのだろう。
もし彼が望むなら、私は朝まで彼のそばで、キーボードの音をイメージする手伝いだってできる。そんなはずはないと分かっていても、そう思わせるほどの切実さが、あの時の彼にはあった。
指が動かなくなることへの恐怖。
それは、彼にとってエンジニアとしての命そのものなのだ。私は、明日の手術が、彼にとっての再起の儀式になることを強く願う。病院という場所は、時に命を救うだけでなく、こうして誰かの未来や誇りを預かる場所でもある。私が看護師として生きる意味を、今の彼が思い出させてくれたような気がした。
九条さんが抱える恐怖は、誰かに共有されることで少しだけ軽くなるかもしれない。そう信じて、私は彼との対話をこれからも大切にしていこうと思う。
どんなに短い言葉であっても、そこには彼の本音がある。それを汲み取り、看護師としてだけでなく、一人の人間として彼を支えたい。
手術は明日。その時が来るまで、私は彼にとっての灯台のような存在でありたいと願う。廊下の向こうから、朝日が少しずつ昇り始めている。病院の一日は、こうして始まる。
九条さん、あなたの明日が、昨日よりも少しだけ明るいものであることを信じて。
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