第13話 眠れない夜
深夜の外科病棟。
ナースステーションのカウンターに並ぶモニターの波形が、規則正しく無機質な電子音を刻み続けている。
その単調なリズムは、長時間勤務で少しずつ鈍くなった意識を、ゆっくりと眠気の底へ引きずり込もうとしていた。
夜勤という仕事は、不思議な時間感覚の上に成り立っている。
忙しさに追われて数時間が一瞬で過ぎ去る日もあれば、たった十分が永遠みたいに長く感じられる夜もある。
今夜は後者だった。
消灯後の病棟には、昼間には存在しない静けさがある。面会者の話し声も、医師たちの慌ただしい足音も消え、残されるのは空調の風と点滴ポンプの作動音、それから時折どこかの病室で鳴る小さな咳だけだった。
窓の外には神戸の夜景が滲むように広がっている。海沿いを走る車のライトが細い線になって流れていく様子をぼんやり眺めていると、自分が巨大な水槽の中に閉じ込められているような感覚になることがある。
私は電子カルテの入力を終え、小さく肩を回す。長時間のパソコン作業で固まった筋肉がじわりと痛む。
その時だった。ふいに、静寂を切り裂くようにナースコールが鳴り響く。
私は反射的に顔を上げ、モニターに表示された病室番号を確認した。
特別室。九条航平という名の男性患者の部屋だった。
私はすぐに立ち上がり、ナースシューズの乾いた音を廊下へ響かせながら、薄暗い病棟を足早に進んでいく。
深夜の廊下は昼間よりも長く感じられる。白い壁も、等間隔に並ぶ病室の扉も、夜になるとどこか現実感を失う。
私は特別室の前で一度呼吸を整え、軽くノックをした。
「失礼します」
返事はない。私はそのまま扉を開けた。
飛び込んできたのは、窓から差し込む月明かりがぼんやりと照らす、どこか温度のない光景だった。
ベッドの上で彼は上半身を起こすこともなく、ただ天井の一点を見つめている。
白いシーツの上に固定された両腕が、暗がりの中でやけに痛々しく見えた。
モニターの数値に異常はない。酸素飽和度も脈拍も安定している。
私はゆっくりとベッドサイドへ歩み寄り、できるだけ穏やかな声で尋ねた。
「どうしましたか? 痛みが増したり、息苦しくなったりしたのですか?」
彼はすぐには返事をしなかった。
数秒ほどの沈黙。それは、病院の夜では、その短い空白さえ妙に長く感じられる。
やがて彼はこちらへ視線を向けた。その瞳の奥には、壊れかけたガラスみたいな危うさが宿っている。
強く触れれば、そのままひび割れてしまいそうだった。
「……すみません」
掠れた声だった。
「いえ、どうされましたか?」
「何でもないです。押したのも、たぶん勘違いで」
彼はそう言って、私から視線をそらす。唇が少しだけ強張っている。
――拒絶――
それは初日からずっと変わらない。必要以上に話さず、距離を取って、先に壁を作る。
まるで誰かに踏み込まれる前に、自分から閉じてしまおうとしているみたいだった。
私はこれまで多くの患者を見てきた。痛みに苛立つ人もいれば、不安から怒鳴る人もいる。だが、彼みたいに、自分自身を守るために徹底して感情を閉ざしている人は珍しかった。
私は彼が暇つぶしでナースコールを押すような人間ではないことを知っている。
むしろ逆だ。本当に苦しくなるまで、絶対に人を頼ろうとしない。だからこそ、今ここで呼ばれたことに意味がある気がした。
私は少しだけ迷ったあと、ベッドの横に置かれた椅子へ静かに腰を下ろした。
「眠れないのですか?」
彼は答えない。
「体調に変化がないなら、夜が長く感じているのかもしれませんね」
それでも返事はない。
部屋の中には空調の風が流れる音だけが残る。点滴スタンドの影が壁に細く伸び、窓の外では遠くの車のライトが揺れていた。
私は無理に言葉を続けなかった。沈黙に慣れているからだ。看護師という仕事は、会話だけで成立するわけじゃない。言葉にならない時間の方が、むしろ長い。
しばらくして、彼がぽつりと呟いた。
「……寝るのが嫌なんです」
私は小さく目を瞬かせる。
「嫌、ですか?」
「目を閉じたら、明日になるから」
その声は驚くほど弱い。
「明日が来るのが怖いんです」
私は何も言えなかった。
彼にとっての明日は、ただ時間が進むことではない。失ったものを認め続ける行為なのだと、直感的に分かった。
朝になれば目が覚める。そして毎回、自分の腕が動かない現実を確認する。
以前まで普通にできていたことが、何ひとつできなくなっている。食事も、着替えも、髪をかくことさえ他人の手を借りなければならない。
自分の身体なのに、自分の思う通りにならない。それはきっと、想像以上に人の尊厳を削る。
「起きた瞬間、一回確認するんです」
彼は天井を見たまま続けた。
「夢じゃないかなって。でも動かないから、ああ現実かって思う」
私は静かに彼の顔を見る。その顔は、疲れていた。痛みだけじゃない。誰にも見せないように押し込め続けた疲労が、少しずつ滲み出ている。
「情けないですよね」
「そんなことありません」
反射的に言葉が出た。彼が少しだけ眉を寄せる。
「慰めですか?」
「違います」
「看護師って、こういう時ちゃんと否定するんですね」
「仕事だから言ってるわけじゃありません!」
自分でも少し強い言い方だったと思う。でも訂正する気にはなれなかった。
彼は数秒だけ黙り、それから小さく息を吐いた。
「……変な人ですね」
「よく言われます」
「褒めてないです」
「知っています」
そこで彼の口元がほんの少しだけ緩んだ。
本当に一瞬だった。だけど初めて見る、作ったものではない表情だった。
私はその顔を見て、不意に胸の奥がざわつく。この人はきっと、ずっと一人で耐えてきたのだ。
誰かを信用する前に、裏切られる準備をしてしまうほどに。
私はゆっくりと視線を落とす。シーツの上に置かれた彼の手は、驚くほど冷えているようだった。
思わず触れそうになって、私は指先を止める。看護師として、一線を越えてはいけない。そんなことは分かっている。
それでも。
誰かと親しくなれば、必ず何かを壊してしまう。そう思い込んで感情を閉じ込めてきた私には、彼の怯えが他人事に思えなかった。
「私のことなんて、あなたには関係ないでしょう」
彼が低い声で言った。
「あなたも結局、あの女社長と同じだ。義務で優しくしてるだけでしょう」
その言葉には鋭い棘がある。しかし、怒りより先に、痛みの方が伝わってくる。
私は静かに息を吐いた。
「そう見えるなら、それでも構いません」
彼がわずかに目を動かす。
「でも、今ここにいるのは義務だけじゃないです」
部屋の中に沈黙が落ちる。
私は彼を見つめるが、拒絶されてもいいと思った。どうしても、この人を一人きりにはしたくなかった。
夜の病室は、人を弱くする。昼間には押し込められる不安や孤独が、暗闇の中では簡単に溢れてしまうからだ。だからせめて、この長い夜の間だけでも、彼が完全な孤独の中へ沈まないようにしていたかった。
窓の外では、神戸の街の灯りが静かに瞬いている。この夜が明けるまで、私たちはきっと、この曖昧な境界線の上に座り続けるのだろう。
まだ互いのことを何も知らないまま、それでも少しずつ、閉ざした場所へ触れていく。
彼の深い沈黙の奥にある傷を、私は知りたいと思ってしまう。それが看護師として正しい感情なのかは、自分でも分からない。
ただ、彼がもう一度こちらを見るのを、私は祈るみたいな気持ちで待ち続けていた。
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