第60話 孫子の兵法と竹中半兵衛
どうにかこうにか、信長公と愉快な脳筋重臣たちが揃う「虎口」……もとい、圧迫面接会場から生還した俺と大森は、小牧山城下にある自分たちの屋敷に転がり込んだ。
「……死ぬ。
今度こそ死ぬ。
もうあの人、コミュニケーションの基本を義務教育からやり直してほしい」
「平田さん、無理っすよ。
あの人、教科書を自分で書き換えるタイプですから……」
大森と二人、縁側で真っ白な灰になって燃え尽きていると、そこへドカドカと前野将右衛門さんがやってきた。この人は相変わらず元気だ。
「平田様!
吉報にござる!
蟄居中の竹中半兵衛、その潜伏先を突き止めましたぞ!」
その報告に、俺は這々の体で顔を上げた。
前野さんと、その相棒である有能すぎる堀尾茂吉さんによる情報収集の結果、半兵衛はやはり栗原山の麓にある粗末な庵に一人で引きこもっていることが確定した。
本来なら「よし、すぐ行こう!」となるところだが、俺のHPはすでにゼロだ。
あの圧迫面接のような報告で寿命を十年は削られた。
なんで俺になんか報告させるかな。
知っていることはすべて上司である武井様に報告すみなので、絶対に武井様から信長さんに使わっていたはずだ。
なのに、あれ、何?
しかも脳筋ばかり(これは誇張だが)集めての表情の場でって、ありえないでしょう。
俺だって、あれがほとんど奇跡の産物だと思っているのに、それを俺の口から報告させるなんて、絶対に信長さんってMだ。
俺をいじめて楽しむ趣味でもあるんだな。
いかん、現実に戻らないと、俺も部下からの報告を聞いている最中だった。
「……前野さん、堀尾さん。
明日からの接触は、ひとまずお二人に任せてもいいですか?
俺と大森は、ちょっと魂が抜けていて……」
「ははは!
致し方なし。
あの御前では致し方なし!」
笑い飛ばす前野さん。
一方で、堀尾さんは「承知いたしました。まずは礼節を尽くし、様子を伺って参ります」と、実に頼もしい返事をくれた。
それから数日。
俺と大森は、抜け殻のようになりながらも、城下町に開いた「店(治療所)」の片隅で、ぼんやりと患者の受付をしていた。
主にテキパキと処置をしているのは母栖さんだ。
「平田さん、大森さん、しっかりしてください。戦国時代はメンタルも体が資本ですよ?」
聖母のような微笑みでドクダミ茶を濃くした煮汁を傷口に塗る彼女を見ていると、現代に残してきた元上司の汚い顔が浄化されていく気がした。
そんなある日、栗原山へ通っていた堀尾さんから「接触に成功し、庵の中へ通された」との連絡が入った。
さすがは有能枠の堀尾さんだ。
俺は重い腰を上げ、大森を連れて(半分引きずって)半兵衛の庵へと向かった。
囲炉裏を囲んで対面した竹中半兵衛は、歴史の教科書に出てくるような「病弱な美青年」――それをさらに研ぎ澄まし、余計なものを削ぎ落としたような、静かな知性の塊だった。
最初は美濃周辺の地味な政治談議から始まった。
そして――ここからが本題だ。
「竹中殿、このようなものはいかがかと」
俺たちは数日おきに通い詰め、ほとんど使われてない商売道具に混ぜて「知」を持ち込んだ。
兵書。
解釈。
異説。
この時代の知識人であれば、『孫子』の名など当然知っている。
しかもそれは単なる古典ではなく、魏の曹操――すなわち魏武帝による注釈を伴った体系、いわゆる『魏武注孫子』として理解されているはずだ。
だからこそ、俺たちが差し出したそれは――
“見たことがあるはずなのに、どこかがおかしい孫子”だった。
澄田さんがまとめたダイジェストは、魏武注の骨格を崩さない。
むしろ丁寧に踏まえている。
だが、その上に――
現代の戦略論による再整理と、そして意図的に差し込まれた“別系統”の断片が重ねられていた。
――孫臏。
孫子の後裔とされながら、その兵法は長く失われ、断片的な伝承のみが語られてきた存在。
そこに見えるのは、正攻法ではなく、「状況そのものを歪める」戦い方だ。
俺たちはそれを、あえて並べた。
孫子の「原理」。
魏武の「実戦的解釈」。
そして孫臏の「応用と逸脱」。
整合しないまま、あえて提示する。
読む側の頭の中で、再構築が始まるように。
「……おかしい」
半兵衛が、ぽつりと呟いた。
「これは……魏武の注と整合している。
だが、この“勢”の扱いは……いや、こちらは違う……」
視線が走る。
紙を追う速度が、明らかに上がる。
「同じ“虚実”でも、こちらは敵の配置ではなく……認識を動かしている……?
この発想は……どこから……」
そして、顔を上げた。
「――誰が、これをまとめたのですか」
食いついた。
完全に、“理解しきれないこと”に食いついた。
最近は澄田さんの入れ知恵で堀尾さんも議論に加わり、
「魏武ならここで確実性を取る」
「だが孫臏なら、あえて誤認を誘う」
といった応酬が飛び交う。
囲炉裏の火を挟んで、時代の異なる思考が衝突する。
もはやただの政治談議の場ではない。
ここは小さな庵に偽装された“思考実験場”だった。
――これはいける。
調略の糸口は、未知の知識ではなかった。
既知の体系を、壊しに来る知識。
完成された学問では人は動かない。
だが、自分の理解が揺らぐ瞬間――人は、その先を覗かずにはいられない。
竹中半兵衛は、まさにそういう人間だった。




