第51話 魔王の矢傷と、女たちの恐怖のストッパー網
夕闇が完全に夜の底へと沈み込んだ頃、俺は案内された武者の背中を追い、小牧山城の敷地内へと足を踏み入れていた。
普段なら物見高い気分でキョロキョロしてしまうところだが、今日ばかりはそんな余裕はない。
城内は松明の炎があちこちで焚かれ、具足を鳴らして走り回る兵たちの怒号と、むせ返るような血と汗の臭いが充満していた。
案内されたのは、立派な大広間――ではなく、その前にある広い中庭だった。
「こちらへ」
促されて中庭の玉砂利に足を踏み入れると、そこには床几――折りたたみ式の陣中椅子――にどっかりと腰を下ろしている一人の男がいた。
帰還したばかりの大殿、織田信長さんである。
その周囲には武井夕庵様をはじめ、顔見知りの重臣たちが青ざめた顔で控え、異様な緊張感が漂っていた。
そして俺は、信長さんの姿を見てすべてを悟った。
(……やっぱり。
呼ばれた理由は、これか)
彼の左腕は血で赤黒く染まり、そこには戦場で受けたであろう手痛い「土産」が突き刺さっていたのだ。
まさかのVIP患者、それも最上級の「魔王」ご本人である。
俺は心の中で頭を抱えた。
予想はしていた。
しかし、いざ本人を目の前にするとプレッシャーが半端ではない。
しかも、俺の腰袋に入っているのは、使いかけの消毒用アルコールとホッチキス(一応、医療用と言い張っているが)のみ。
一度店に戻って、詩織さんが準備してくれているはずの『往診セット』を取ってくるべきか……?
だが、この空気で「あ、忘れ物したんでちょっと帰ります」などと言えるわけがない。
「よく来た、平田」
俺の葛藤などお見通しのように、信長さんが低く通る声で口を開いた。
痛みで顔をしかめることもなく、まるで「ちょっと肩が凝った」くらいのテンションだ。
「すぐに腕の怪我を見てくれ」
「は、はい!
すぐに!」
俺は慌てて平伏してから立ち上がり、信長さんの左腕に顔を近づけた。
じっくりと観察して、俺は思わず内心で唸った。
(……すげえ。
理にかなってる)
信長さんの腕に刺さっているのは、鏃だ。だが、長い矢の柄の部分は、移動の邪魔にならないよう、傷口のすぐ近くで短く切り落とされていた。
現代のファーストエイドでも、「深く刺さった異物は無理に抜かない」というのが鉄則だ。
無理やり引き抜けば、内部の太い血管を切り裂き、大出血を起こしてあっという間にショック死してしまう。
激戦と敗走の最中、冷静に矢の柄だけを折り、そのまま固定して帰還するとは。
戦国武将のサバイバル知識と、信長さん自身の肝の据わり方に、元修理工としての妙なリスペクトが湧き上がってくる。
とはいえ、感心している場合ではない。
これを抜いて、止血して、消毒して、縫合しなければならないのだ。
ピンセットも、ペンチも、肝心の大量の予備針もない。
(どうする?
素手で抜くのか?
いや、血の海になるぞ。
とにかく大森か誰かに道具を持ってきてもらうよう、伝令を頼まないと……)
俺が冷や汗を流しながら口を開きかけた、まさにその時だった。
「報告いたします!!」
中庭に、一人の伝令が転がるように駆け込んできた。
「城門前に、平田殿の配下・大森殿が面会を求めて参っております!
なんでも、『平田殿の治療道具一式をお持ちした』とのこと!」
伝令の声は、戦場の癖が抜けていないのか、やたらとデカかった。
おかげでこの場にいる全員に、その内容がバッチリと響き渡った。
俺は心の中でガッツポーズをした。
(大森!
お前ってやつは最高の後輩だよ!
タイミング神か!)
ちょうど信長さんに「道具を持ってこさせてください」と頼もうとしていた矢先だ。
俺はホッとして信長さんに視線を向けた。
「大殿、そういうわけですので、大森をこちらへ――」
「すぐに大森もここへ通せ!」
俺が言い終わるよりも早く、信長さんが伝令に向けてピシャリと命じた。
相変わらずの即断即決、ショートカット大好き人間である。
数分と待たず、両手に木箱や布袋を抱えた大森が、小走りで中庭に現れた。
大森は信長さんの姿を認めるなり、荷物を置いてビシッと美しい平伏を見せた。ホームセンターのクレーム対応で鍛えられた、完璧な土下座フォームだ。
「大殿!
平田の助手、大森にございます!
急ぎ、道具をお持ちいたしました!」
「うむ、大儀。平田、さっさと始めよ」
「は、はい!」
俺と大森は、信長さんの横に並んで治療の準備を始めた。
木箱の中から、ピンセットの代わりになる細身のやっとこや、清潔な布、そして予備のステープラーと消毒液が次々と取り出される。
大森が布を広げながら、俺の耳元に顔を寄せ、誰にも聞こえないような小声で囁いてきた。
「先輩……まだ、大殿に対して『変な約束』はしていませんよね?」
「……は?
何だそれは?」
俺がアルコールの蓋を開けながら聞き返すと、大森は周囲を警戒しながら早口で状況を説明した。
「先輩が城に向かった直後ですよ。
うちの詩織が俺を捕まえて、『すぐに治療道具を持って追いかけて!』って怒鳴ったんです」
「ああ、それは助かった。
さすが母栖さん、気が利く」
「いや、道具を届けるのは二の次だったんですよ」
「え?」
「詩織曰く、『平田さんはお人好しだから、大殿に凄まれたら、何でもホイホイ無理な約束を引き受けちゃうに決まってる。だから大森くん、全力で横から口を挟んで阻止して!』って」
「…………」
「これ、現代にいる澄田さんから、詩織さんが固く申し付かっていた『対・平田先輩ストッパー指令』らしいです。
『あの人はヘタレのくせに見栄っ張りだから、監視が必要だ』って」
俺の手に持っていたアルコールの瓶が、カタカタと震えた。
……なんだその、女たちの間に構築された強固な連絡網は。
澄田幸代(現代の参謀・毒舌女子大生)から、母栖詩織(戦国のオカン・実質的現場監督)へ。
そして大森拓也(パシリ・実行部隊)を経由して、俺(ポンコツ社長)の暴走を未然に防ぐ完璧なシステム。
いや、暴走というか、俺はただ流されやすいだけなのだが。
「……俺、裏でそんなに信用ないの?」
「ないですね。
断言しますけど、ゼロです」
「即答するなよ傷つくだろ!
魔王のプレッシャーより、うちの女子陣のほうがよっぽど怖えよ!」
「俺も同感です。
うちの嫁を怒らせたら、戦国武将よりタチが悪いですからね」
ヒソヒソと悲しい中間管理職のような愚痴をこぼし合う俺たちの頭上から、信長さんの呆れたような声が降ってきた。
「おい、平田。
何をヒソヒソやっておる。
戦に勝つ算段か?」
「ひぃっ!
い、いえ!
道具の消毒手順の確認でございます!」
俺は慌てて姿勢を正し、やっとこを手に取った。
まずは目の前の天下人の腕に刺さった矢を抜き、令和のホッチキスでバチンとやらなければならない。
俺のヘタレな威厳はすでに身内によって粉々に砕け散っていたが、せめて修理工としての腕前だけは、この戦国時代に見せつけてやろうと腹を括ったのだった。




