第11話(1)小さな手のひら【フェニス第3従響星】
闇の中を、虫が飛んでいた。
何匹も、何匹も、飛んでいた。
力の抜けた手で振り払っても、またすぐに戻って来る。
「……………………………………このままじゃ、アリシアが……かわいそう」
リメアがようやく腰を上げたのは、夜の帳がすっかり下りてからだった。
冷たくなった少女の体を抱きかかえ、少し、顔をのぞき込む。
青白い星灯りに照らされた横顔は、安らかに眠っているようだった。
カサリ、カサリ。
草をかき分け、無言で歩く。
ひとりぶんの足音。
カサリ、カサリ――。
心は、凪のようだった。
どこへ向かうでもなく、歩き続ける。
感情から切り離されたまっさらな頭の中で、誰かが静かに問いかける。
(なにが、いけなかったの。どうして、こうなっちゃったの)
文字と化した言葉は音をなぞるだけで、意味は漂白されていた。
問いかける先もないままに、次の問いが浮かんでは消えていく。
ただそれだけを、繰り返していた。
おもむろに、空を見上げる。
宇宙船の窓から眺めた時とさほど変わらない景色が広がっている。
違うところと言えば、地平線があって、星の数が少なく見えるだけ。
飽きるほど見た闇に浮かぶ光たちが、うるさく感じられた。
無意識にそんな空を睨みつける。
すると星の合間を滑り落ちるように、流れ星がひとつ、尾をたなびかせる。
「……っ!」
流れ星を見たのは、それが初めてだった。
大気圏で燃え尽きる隕石は、宇宙船からは決して見ることはできない。
コンマ数秒にも満たない、小さく細い光の涙。
それはあまりに儚く、美しかった。
息を呑んでしまうほどに。
そしてリメアは、乳白色に輝く川と瞬く星を見て思い至る。
(おんなじ夜空なんて、本当は1度もなかったんだ……)
あの夜も、あの夜も、あの夜も。
たった一度だって、同じ気持ちで迎えた夜はなかった。
毎晩、違う顔を、リメアは空へと向けていた。
楽しいことばかりじゃなかった。
辛かったり、怖かったり、不安で眠れない日もあった。
それでも明日になれば、なにか変わるかもしれない。
そんな淡い期待を遠くの星々に託すことができた。
でも、今は違う。
明日なんて、来なければいい。毎日一日ずつ、昨日に戻れたらいい。
そんなことをずっと考えている。
ずっとずっと戻って、最初の日に戻れたら。
戻ることが、できれば。
(わたしはアリシアに、何をしてあげられたかな……)
歩く歩幅に合わせて、体が左右に揺れる。
だらりと力なく垂れ下がったアリシアの手。
(アリシアが手を振るときは、こんなんじゃなかった。いつも背中を丸めて、控えめに手を振っていた)
汚れて毛羽立ったショートボブが、風に揺れている。
(いつもはこんなに乱れてなかった。アリシアは自分で髪を切るのが上手だった。いたずらして脅かしたら、びっくりして切りすぎちゃって、怒られたこともあったな。仕事に行く前は、必ず髪を梳かしてた)
乾ききった唇が、固く閉じられている。
一番笑わせてくれて、一番困らせられて、一番心配させられて。
今、一番動いてほしい、小さな唇。
(この唇といっしょにいつも、わたしの心は弾んでた)
紫苑の瞳は、閉じた瞼からもう顔を出さない。
本音を隠しがちな唇よりも、ずっとおしゃべりだったあの瞳。
ときどき遠くを眺めて、ぼうっとしていた、あの瞳。
自分の姿をまっすぐ映してくれた、あの瞳。
(アリシアのきれいなあの瞳の奥を、わたしは、どれだけ知っていたのかな)
冷たくなった喉は、もうリメアの名を呼んではくれない。
少し掠れてて、普段は低めだけど、驚いたときには高くなる、そよ風みたいな声。
諭すように、優しく囁いてくれた、とっても安心する、大好きだったあの声。
(日記を見て、やっとわかったよ。お姉さんみたいなしゃべり方は、お姉さんになってくれようとしてたからだったんだ。しゃべり方が違っても、わたしにとってのアリシアは何1つ変わらないのに。少しでも長く、あの声を、聞いていたかったな)
髪も、手も、唇も、瞳も、声も、その優しさも。
(ぜんぶ……ぜんぶ……ぜんぶ。ひとつも、わすれないよ、アリシア――)
口元が、わずかに歪む。
リメアにとってアリシアと過ごした日々は、とても新鮮で、繊細で、淡く透き通っていて。
共に過ごした日々の記憶が、瞼の裏から、離れてくれない。
気がつくと、大きな木の下にたどり着いていた。
そこは小さな丘になっていて、見晴らしが良く、夜風が気持ちいい。
「…………ここに、しよっか、アリシア」




