第8話(2)踏み出した1歩【フェニス第3従響星】
ポーン、と鳴る電子音に起こされて、リメアは目を覚ます。
「……あれ? アリシア?」
ソファから壁掛け時計を見ると、時刻は夜の12時を示していた。
雨に濡れて疲れたのか、連日の徹夜が響いたのか。
リメアはおさんぽから帰ってきた後、体を拭き、そのまま深い眠りについてしまったようだった。
部屋はベランダの外と同じく、真っ暗だった。
ぴょんと飛び起き、パチン、と照明をつけて廊下を覗く。
アリシアの靴は、ない。
「今日も、残業なのかな……?」
彼女がまだ帰ってきてないという事実に、リメアはちょっぴりホッとする。
以前アリシアが帰宅したとき、ちょうどリメアが寝てしまっていた事があった。
玄関も、部屋も真っ暗だった。
扉が閉まる音で目が覚めアリシアを迎えに行ったのだが、ぽつんと点いた玄関のポーチライトの下で、アリシアはとても寂しそうな顔をしていた。
それからというもの、アリシアが帰る頃に照明をつけておくのがリメアの仕事になった。
明かりさえついていれば、いつだってアリシアは、どんなに疲れていてもホッとした顔で笑ってくれる。
だから、この時間に真っ暗な玄関はダメなのだ。
リメアはてててっと小走りでベランダに向かうと、身を乗り出して通りを眺めてみる。
雨はいつの間にか上がっており、街路の水たまりにはネオンサインが反射していた。
アリシアは、見当たらない。
「目が覚めたときに、アリシアが帰ってきてたらいいな……」
リメアはソファに戻ると、毛布にくるまり、目を閉じる。
はっと気がついた時には、すでに日は高く昇っていた。
部屋全体がいやというほどに明るい。
ざわりと、胸騒ぎがする。
リメアはアリシアの閉じたままの部屋のドアを横目に、恐る恐る、玄関へと向かう。
靴が、――ない。
アリシアは昨日、丸一日帰ってこなかったのだ。
思わず玄関から飛び出し階段を覗く。
薄暗い踊り場にアリシアが倒れているのではないかと心配したが、そこにも彼女の姿はなかった。
リメアはそろそろと玄関に戻り、そのままの足でベランダに出た。
濡れて少し柔らかくなってしまった段ボールの箱によじ登り、手すりによじ登る。
目を皿のようにし、通り全体を見渡した。
やはりアリシアはいない。
もしかしたら忙しすぎて、職場で寝てしまったのかもしれない。
雨がすごくて、会社の人のお家に泊まったのかもしれない。
そう自分に言い聞かせながら、栗色のショートボブを、探し続けた。
昼が過ぎ、夕方になり、夜になった。
時計の針が、深夜四時を回っていた。
(おかしい、遅すぎるよ……!)
心臓がやけに大きく鳴っている。
アリシアがなんの連絡もなしに、これほど遅くなったのは初めてだった。
そもそも職場に泊まることはあっても、翌日の昼を過ぎても帰らなかったことなんて、一度もない。
明らかに異常だった。
「リッキー!」
「なんでショウか?」
「どうしよう、アリシアが帰ってこないの!」
「ムム……なにか、思い当たる点ハ……?」
リメアはぶんぶんと首を横に振る。
「一昨日の朝、家を出るときはいつもと同じだった。なにも変なところはなかったよ」
「置き手紙ナドは?」
「ないよ。そんなのがあったら、わたしぜったい気づくもん」
「デシたら、アリシア様のお部屋に、なにか手がかりガ」
「アリシアの、お部屋――」
リメアはソファの上で膝立ちになり、背後に佇むアリシアの部屋のドアをじっと見つめる。
壁と同じ、白で塗られた木の扉。
リメアは、その向こうへ足を踏み入れたことがない。
以前入ろうとしたところ、アリシアから止められたからだった。
リメアはそれからというもの、部屋について言及するのを控えていた。
ごくり、とつばを飲み込む。
「いいの、かな?」
「緊急事態デスから、やむを得ないカト」
「そう、だよね……」
リメアの小さな手が、真鍮の冷たいドアノブに触れる。
悪いことをしているんじゃないか、という感覚を振り払い、勇気を出してノブを静かに回してみた。
カチャリ、という音とともに、ドアが開く。
部屋の窓は締め切られており、中には暗闇が広がっていた。
「お、おじゃまします……」
そろり、そろりと中へと入り、壁際の照明スイッチを探す。
「あ、あった、これだ」
壁に向かい、背伸びしてスイッチを押し込むと、部屋が一気に明るくなった。
リメアは振り返りそして――息を呑んだ。
ベッド一面に、黒い血がこびりついていた。
床にもところどころ血が落ちていて、乾ききってひび割れている。
服は脱ぎ捨てられ、シーツはところどころ破けている。
浅黒く汚れた枕からは、羽毛が飛び出していた。
部屋は殺風景で、壁にかけられたよそ行きの服以外、ほとんど物がない。
言葉を失い目を見張っていると、リメアの視線はベッド脇に置かれたほとんど空の棚の上で、ピタリと止まる。
そこにあったのは、小さな長方形の箱だった。
最近買ったにしてはやけに年季が入った、傷とサビに覆われた鉄の箱。
正面にはゼロから九までのボタンが付いていて、鍵がかかっているようだった。
しかし――。
「リッキー」
「えぇ」
そのボタンには、血糊がついたまま固まっていた。
四つの数字に付着した血の指紋は、濃い色から薄い色へとグラデーションになっている。
箱を開けるために押すべきボタンは、誰が見ても明らかだった。
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