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第8話(1)踏み出した1歩【フェニス第3従響星】

「気をつけてね、アリシア」

「うん……じゃ」


 バタン、と中空の金属でできた扉が閉まる音。

 アリシアに向けて振った右手が、行き場を失い宙をさまよう。

 玄関に取り残されたリメアは、最後にショートボブの後ろ髪が揺れた空間をじっと見つめていた。

 ハンバーガー事件の翌朝は当たり前のようにやってきて、アリシアはいつもと同じように仕事へ向かう。

 言葉らしい言葉を、交わすこともなく。

 小さくヒビの入った掛け時計の針の音だけが、虚しい機械音を響かせていた。


「リメア様」

「……なぁに、リッキー」

「その、ご提案なのデスが……お散歩にでも、出かけられてはいかがでショウ」

「……おさんぽ」

「大丈夫デス、アリシア様が帰って来るより前に戻れバ、問題ありまセン。ベランダからの景色だけではなく、歩きながらだと今のお気持ちも整理できるはずデス」

「…………うん」


 リメアは頷き、玄関のドアノブに手をかける。

 ガチャリ、と錠前を開け扉を開くと、外は雨だった。


「アー……。ワタクシとしたことが……申し訳ございまセン……」

「いいよ。行こう」


 リメアは暗い階段を一段ずつ確かめるように踏みしめながら降りていく。

 アパートから出ると分厚い曇り空の振り落とした雨が、街中に水たまりを作っていた。


「傘は、よろしいのデスか?」

「いらない」


 リメアはいつもより人通りの少ない商店街を歩いていく。

 灰色の街並み、汚れたショーウィンドウ、道端に転がった空の瓶。

 生ぬるい雨が、頭や肩を打つ。


「ねぇ、リッキー」

「ハイ、リメア様」

「新しい家に引っ越してから、わたし、なにか変わったかな」

「……イエ、特には」


 リッキーは小首を傾げるように顔の角度を変える。

 そこで会話は一旦途切れ、リメアは黙ったまま水たまりを避け続ける。

 ぼんやり考え事に集中していたからか、ぴょんと水たまりを斜めに越えた先で、待ち構えていたもう1つの水たまりに右足を突っ込んだ。

 ばちゃり、と黒砂混じりの水が飛散る。

 唇を噛み締めていた力がほんの少し強くなり、後から大きなため息が出た。

 

「……最近さ、アリシアとあまりおしゃべりできてないんだ」

「お忙しいので、仕方ないカト」

「分かってるよ。でも、思うの。最近は特にだけど、わたし、アリシアと出会ったときから、あんまりちゃんとおしゃべりできてないなって思ったんだ」

「……」


 商店街から少しだけ離れたところで、小さな桟橋に差し掛かる。

 生活排水が垂れ流しの、苔むした用水路だった。

 リメアは濡れた欄干に寄りかかり、下を覗きこむ。

 張り出すように建て増しされた家屋の鉄骨柱を、茶色く濁った水が縫うようにして流れていく。


「楽しいお話とか、遊びに行く予定とか、お買い物に行ったりとか。そういうことはね、できるの。気づいたら、やってるの」

「ええ、いつも見守っておりマス」

「でもね、それだけなの。それだけしか、ないの」

「……それだけでは、ダメなのデスか? お友達とは、一緒にいて楽しいものだと思いマスが」


 リメアは欄干の上で組んだ両腕に顔を埋め、首を横に振る。

 

「………………ダメなの」

「……」


 額から流れる雨水が、幾本も連なって鼻梁を流れ落ちていく。

 遠くで雷鳴が轟いている。

 川の濁流はゴーっと低い音を鳴らしながら、リメアの知らないどこか遠くへと流れ続けていた。


「わたしね、昨日、何もできなかった。ビックリして、ハンバーガーを落としちゃってから、ずっと」

「……仕方ありまセン、あのハンバーガーはデータ上のどのハンバーガーとも異なりマス。この星郡は元々、観光地として設計されていた星々デス。しかし、今のところ、そのような面影はございまセン」

「……」

「おそらく、長い年月の間に、この星の文明、特に精霊の設計思想に大きな変化、不具合があったのでショウ。食料資源の枯渇、流通インフラの停滞などが原因で文化が変容したと考えられマス。リメア様が驚いてしまわれるのも、同意できマス」

「……」

 

 リメアはボーっとしたまま、リッキーの話を聞き流しながら川を見つめていた。

 うまくまとまらない思考の中で、昨日の情景が繰り返し脳裏に浮かんでくる。

 小さくため息をつきながら、リメアは頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出していく。


「この星がどうなっちゃったとか、なんであんなハンバーガーが出てきたのかとか、よくわからないよ。そんなことはいいの。そんなことより、アリシアがね。急に怖いアリシアになっちゃって。目もわたしを見てなくて。いつものアリシアじゃない、別の人みたいで」

「ええ、そうでしたネ……」

「びっくりした。すっごく怖くて、どうしていいかわからなかった。……でもね、昨日朝までずっと考えて、……今もまだ考えてるんだけど、なんとなくね。思ったの。いつもの優しいアリシアも、昨日の怖いアリシアも、ほんとはどっちもアリシアなんじゃないかって」

「どっちも、デスか……?」

「うん。アリシアが笑う時、いつもちょっと無理してるの、気づいてた。アリシアが自分のお部屋に戻る時、ちょっとだけ横顔がホッとしているのも、アリシアには内緒だけど、気づいてた」

「……」

「そんな時、いつも胸の奥がぎゅってするんだけど……。なんて声をかければいいか、わからないの。今だって、ずっと、わからないの」


 リメアは空を見上げる。

 雨脚は弱まるどころか、より強くなっている。

 曇り空はどこまでも、どこまでも続いていた。

 

「ねぇ、どうすればいいの、リッキー」

「……」


 銀色の球体は、やや俯いたまま沈黙する。

 リメアはそれに怒るでもなく、声を荒げるでもなく。

 ただ弱々しく尋ねた。

 

 「ねぇ、なんで教えてくれないの……リッキー?」


 リッキーはしばらく考え込み、とても答えづらそうな様子で口を開いた。


「…………リメア様。アリシア様は……今のリメア様には、おそらく……どうすることも、できまセン……」

「……どうして?」


 リメアは目だけを動かし、鼻声で聞き返す。

 返ってきた機械音声は、冷静で正確で、耳をふさぎたくなるような状況見聞だった。


「都会の人々の言動や、これまでの情報から推測いたしマスと……アリシア様の置かれている環境は、この星ではごくごく一般的なものだと考えられマス。同じような孤児の方は、大勢いらっしゃるハズ。つまりこれが、この星の日常なのデス。これが一点目、デス」

「……うん」

「二点目は、アリシア様の体調についてデス。客観的に見ても、病院にて適切な治療を受けるべき状態に間違いありまセン。しかし、御本人がそれを断固とシテ拒否。……おそらく、金銭的な問題が大きいのでショウ。しかし、リメア様はこの星の住民でない上に、決済するためのICチップもお持ちではありまセン、ですカラ――」

「そんなこと、わかってるよ! わかってるよ……」


 握りしめたはずの手を、力なくだらりと垂らし、何度ついたか分からないため息を重ねた。

 前髪にぶら下がった雫は一定の大きさまで膨らむと、重力に従い、用水路に向かって落ちていく。

 繰り返し、繰り返し。

 まるでそれが、自然の摂理だと言わんばかりに。


「アリシアはね。きっと、わたしが無理しないでって言っても、無理しちゃうの。気にしないでって言っても、なにかしてくれようとするの。それを、わたしは、やめてって……言えないの……」


 声を絞り出すのがやっとで、言葉尻は情けなく震えていた。


「どうしたら、わたしは……アリシアを、助けてあげられるのかな……?」

「……リメア様……」


 リッキーは一旦言葉を区切り、言い淀む。

 リメアは縋るような目で、彼女が唯一頼ることのできるAIホログラムを見つめ続けた。

 しばらく逡巡していたリッキーだったが、とうとう諦念したように首を振り、項垂れる。


「……リメア様には、経験が、足りまセン」

「それは、大人じゃないから、だめだってこと?」

「そういうことではございまセン」

「じゃあ、どういうこと?」

「それハ……難しい問いデス。デスが、今リメア様は、この状況でどうすればいいか、わからなくなってイル。つまりそれが、そのままその答えなのデス」


 とても曖昧で、雲を掴むような話だった。

 まるで煙に巻かれたように感じられ、もどかしさについ語気が強くなる。


「……じゃあ、アリシアを見捨てるってこと? リッキーはそうしろって言うの?」

「そういうことではございまセン」

「なにが、違うの……!」


 ざあざあと、雨が激しく降り注ぐ。

 周囲には大通りを時折通過する車以外、誰も見当たらない。

 灰色に染まった街全体が、リメアたちを無視し続けているようだった。

 だったら、もういい――。

 ぐちゃぐちゃに絡まった思考を、リメアは放り投げる。


「わたし、決めた」

「……ハイ」

「次、アリシアに同じようなことがあったら、わたしが助ける」

「ハイ」

「なにがなんでも、助ける! 知識回路接続して、医療系の情報をインストールして! 病院にいかなくてもいいように、わたしがお医者さんの代わりになって助ける!」

「……ハイ」

「そしたら、そしたらきっと、アリシアだって……」


 リメアはぎゅっと歯を食いしばり、痙攣しせり上がってくる喉を抑え込む。


「……わたしのこと、しっかりしてるなって思って……いろんなこと、お話してくれると思うから……」

「……ええ、きっと」


 リメアは橋の欄干から体を起こすと、ゴシゴシと目をこすりながら歩き出す。

 雨で白む道の向こう、誰もいない空っぽの家に向かって。

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