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第7話(4)境界値【フェニス第3従響星】

「あ? なんだ、行き倒れか」


 叫び声を聞きつけてやってきたのか、通行人の男性がつかつかとアリシアに歩み寄り、顔を覗き込む。


「うわ……なんかヤバそうだ。救急車呼んだほうがいいよ……な? ……で、君はこの子の知り合い?」


 男性は手の甲を耳に当てながら尋ねてくる。

 リメアは両手を胸に力いっぱい押し当てながら、コクコクと頷いた。


「あぁ、じゃああとは任せるね。ごめんね、仕事の途中なんだ、救急車もうすぐ来るからさ、ごめんね」


 男性は耳に手を当てたまま、軽く頭を下げてどこかへと行ってしまう。

 お礼を伝える余裕など、リメアにはなかった。

 倒れたアリシアに近づくことも、声をかけることもできない。

 怖かった。

 なにもかもが、怖くて仕方がなかった。

 視界が滲む。

 アリシアから目を離すまいとひたすら瞬きを繰り返し、次から次に涙が頬を伝う。

 それから先は映画の早回しのようだった。

 色んな音が、光が、歪んでいた。

 世界から自分が切り離された感覚の中、網膜に映されたスクリーン上で事象が通り過ぎていく。

 救急車がやってきて、アリシアが運ばれて。

 足の感覚がないまま手を引かれ、救急車に乗り。

 救急隊員たちの懸命な蘇生作業を視界に収め続けた。

 ようやくパニックが収まり思考を回せるようになったのは、救急車に乗ってしばらく経ってからだった。


「お嬢ちゃん、大丈夫かい。もう、病院につくからね。びっくりしたよね」


 救急隊員がこちらに向かって話しかけていた。

 声をやっと認識できたリメアは、小刻みに頷く。


「あ、あの、アリシアは……」


 大丈夫なの? と訪ねようとしたその時。

 自分の名前に反応したのか、寝かされていた少女はカッと目を見開いた。

 先程までの重体が嘘のように跳ね起き、腕に刺さった点滴を引きちぎる。


「ここはどこっ!?」


 アリシアは目をぎょろぎょろと動かし、鋭い眼光で周囲を睨みつける。

 リメアはなだめるように、経緯を説明しようとした。


「あのね、アリシア落ち着いて。いま救急車の中で、病院に向かってて――」

「戻れッ!!」


 少女の細い喉から出たとは思えないほど芯のこもった怒号に、救急車の中はしん、と静まり返った。

 アリシアは叫んだあとではっとし、周囲の顔を見渡す。

 全員が、怯えた表情でアリシアを見つめていた。

 少女は項垂れ、先ほどとは打って変わって弱々しい声で、小さく告げた。


「…………戻ってください。お願いします……」


 救急隊員たちは顔を見合わせ、ひとりがアリシアの肩にそっと手を添える。


「そ、そうはいかないよ、戻るったって、あの橋にかい?」

「……これが、私のICタグです。住所はここに入ってます。病院じゃなくていいです。お願いします。家まで送ってもらえたら十分です」


 隊員は事情を察したのか、しばらく沈黙した後、操作パネルを壁面から外してアリシアのチップを読み込んだ。

 救急車は病院の直前でUターンし、郊外へ頭を向ける。

 アリシアは隊員たちに諭され、目を開けたまま横になった。

 呼吸や脈拍は一定で、容態はとりあえず安定しているように見えた。

 朝タクシーで来た道をなぞるように救急車は走っていく。

 窓から見える景色が逆方向に流れていくのを、リメアは静かに眺めた。

 朝と夕方で、何もかもがめちゃくちゃにひっくり返ってしまった。

 あれほどまでに目新しくリメアの興味を惹いた白っぽい高層ビルたちも、影に包まれどす黒く変色し、この車を都会から追い立てているようだった。

 最後まで誰ひとり口を開くことはなく、救急車はやがてすっかり日が落ちた商店街の雑居ビル前に到着した。


「本当にいいんだね?」

「……はい」


 アリシアは無感情な声で短く返す。

 すると救急隊員は申し訳無さそうに、小さな紙を手渡した。


「じゃあ、お大事に」


 赤色灯を光らせて夜の街へと消えていく車を、リメアは呆然と見送る。

 振り返れば、アリシアが薄汚れた壁に拳の側面を打ち付けていた。


「ちくしょう、運んだだけなのに、ゼロ何個並べりゃ気が済むのよ、ちくしょう……ちくしょう……」


 もはや、掛ける言葉すら見つからない。

 アリシアが体調を崩してからというもの、リメアは無力そのものだった。

 なにひとつ、できなかった。

 俯くリメアに気づいたのか、アリシアが優しい声で名前を呼ぶ。


「リメア」

「……っ!」

「心配かけてごめんね、怖かったよね。私のせいで、とんだ日になっちゃったね」

「そんなことっ、ないっ……!」

「ううん、あるわ。はぁ、なんでこんなにうまくいかないのかしら」


 アリシアは自嘲気味に笑うと、視線を落とす。

 出かけるときは真っ白だったよそ行きの服も、血と吐瀉物で汚れきっていた。


「………………帰りましょ」

「……うん」


 リメアはアリシアを支えて階段を上り切り、玄関の扉を開けて待つ。

 できたことと言えば、本当にそれだけ。

 ありがと、と弱々しく微笑むアリシアの穏やかな視線が、痛かった。

 汚れた服の着替えを手伝い、水を用意する。アリシアはコップを一息に飲み干した。


「もう本当に大丈夫よ、リメア。シャワーも自分で浴びれる。そのあとは、早めに寝るから」

「……わかった。なにかあったら……すぐ言ってね」


 こくり、と頷き、アリシアはシャワールームへと消えていく。

 いつもより短くシャワーを切り上げたアリシアは、軽くおやすみの挨拶を済ませると、言った通りすぐに自室へ戻っていった。

 カーテンのない窓から、星あかりが差し込み、部屋は薄いブルーに包まれる。

 リメアはソファを背に、床の上で膝を抱いて縮こまった。

 あの時の震えが、まだ指先に残っている。

 昼間の凄惨な光景が、繰り返し脳裏にフラッシュバックした。

 瞼を強く瞑り、おでこを膝頭にこすりつけ、自分自身に言い聞かせる。

 明日になったら。

 そうきっと、明日になったら。

 アリシアは何もなかったみたいに元気になって。

 今日のことは何かの間違いで。

 昨日までと同じような日々が、戻ってきてくれる、と。

 何度も、何度も。

 夜が明け、朝日が昇り、世界が光を取り戻すまで――。

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