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第7話(1)境界値【フェニス第3従響星】

 夕暮れ空を、雲が流れていく。

 リメアは手すりにほっぺを押し付け、小さくため息をこぼした。

 ベランダから空を眺めて過ごす時間が、以前よりも増えていた。

 一人でボーっとするのには慣れてたはずなのにな、とリメアは思う。

 四百年も狭い宇宙船の中で、変わり映えしない景色と過ごしてきた。 

 地上では景色が移り変わるので、宇宙船の中よりも飽きない。

 それでも今日既に何回も繰り返した言葉を、口に出さずにはいられない。


「今日は早く帰ってくるといいな……」


 アリシアは最近職場に泊まる日が増え、翌朝帰ってきてもすぐに寝てしまう。

 休日も「疲れているから」と言って部屋にこもることが多くなった。

 こぼした声は、冷たくなってきた風に溶けていく。

 道行く人の数はだんだんと減っていき、街頭に明かりが灯り始めた。

 オレンジ色の空が薄紫に染まり、やがて群青に覆われていく。


「……そろそろ、部屋の明かり点けなきゃ」


 薄暗くなった部屋を抜け、玄関のスイッチを押し込む。

 頭上で照明が二、三度瞬き、暖かい光がリメアを包みこんだ。


「よし」


 部屋に戻りお片付けを始める。

 お片づけとは言っても洗い終わったアリシアのお皿をしまい、ソファ回りを整える程度。リメアのワンピースはエーテルで生成しているため常に清潔に保たれており、アリシアの洗濯物は彼女が自分で洗っている。つまり、することがほとんどない。

 なにかないかな、とできることを探すリメア。

 見れば棚の上のクレヨンの蓋に、薄っすらと埃が溜まっていた。

 乾いた雑巾取り出し、軽く棚を拭いていく。

 クレヨンはもうほとんどなくなってしまった。

 はじめに黄色、次いで肌色や青がなくなり、赤もなくなった。

 残った色もわずかとなり、少ない色で描けるものを描いていたが、もうそれも厳しくなっていた。

 リメアはこの星基準での“大人”ではないため、自分で働いて新しく買い替えることはできない。忙しそうに頑張っているアリシアに頼むなんてことは、もっとできなかった。

 やることが完全になくなってソファに寝転んでいると、ガチャリ、と玄関から音がする。


「あ゛ー…………、疲゛れたーーー…………」


 靴音と一緒にアリシアの声。

 リメアが飛び起きて玄関に向かえば、そこには壁に張り付くようにもたれかかったアリシアの姿があった。


「アリシア! お仕事お疲れさま!」

「うんうん、ありがとね」

「アリシア……、お鼻……」


 リメアが指差した先には、鼻から滴る真っ赤な血。

 アリシアは心個々にあらずと行った様子で鼻下に手をやる。


「あー……」


 拭った指先に付着した血を見つめたまま放心しているアリシアに、リメアはタオルを取ってきて渡す。


「ほら、これで拭いて!」

「…………ありがと」


 ズピ、と鼻をすすりながら、アリシアは壁に背を預けたまま床にずり落ちる。

 疲労困憊といった様子で、いつになくふにゃふにゃだった。


「アリシア、大丈夫? 最近、お仕事大変そう……」

「……」


 アリシアは聞こえているのか聞こえていないのか、口を半開きにして、天井のライトを見上げている。


「アリシア……?」


 もう一度名前を呼ぶとようやく気がついたのか、ゆっくりとこちらに視線を向ける。

 焦点があっているか定かではない紫苑の瞳に、リメアの不安そうな顔が映った。

 すると少しずつ目に活力が戻っていき、大きく息を吸い込むといつもの笑顔が帰ってくる。


「……ううん、ごめんね、だいじょう、ぶっ!」


 アリシアは緩慢な動作で頭をもたげて、膝を支えに立ち上がる。

 ふぅ、と一呼吸置いた顔を見ると、いつもと変わらない笑顔がそこにあった。


「アリシア……」

「なーに? そんなしょぼくれた顔しちゃって。大丈夫よ。心配しないで。連勤で疲れただけよ」


 荷物を床に置きジャケットを壁に掛け、アリシアはリメアの頭にぽんと手を置いてから隣を抜けていく。

 と、部屋に入ったところでピタリ、と立ち止まった。


「どうかしたの?」


 家事はしっかりと終わらせはずだけど、忘れてたことなんてあったかな、とリメアは不安げにその背中を見つめた。

 くるり、とアリシアは振り向くと、俯いたまま唇に手を当て考え込んでいる。

 チラ、とこちらを見てくる上目遣いの紫苑の瞳。

 アリシアは目が合うやいなや、いたずらっぽい笑みを浮かべる。


「……?」

 

 首を傾げていると、アリシアはずんずん近づいて来た。

 わけがわからず固まっていると、アリシアは頬を寄せてきてそっと耳打ちをする。


「明日、ハンバーガー、食べに行こっか……?」


 それを聞いた瞬間、リメアはぱあっと瞳に星を浮かべた。


「わぁっ! ありがとう、アリシア! この前のお願い、覚えててくれたの!?」

「もちろんよ。たとえ何ヶ月たとうが、何年たとうが忘れないわ」

「さすがアリシア! 大好き!」


 ぼふっ、とリメアはアリシアに抱きつく。


「こ、こらっ! さっきの血、どこかついてたら移っちゃうでしょ!」

「えへへ~」


 アリシアの匂いがする。

 お陽さまと草原、そしてお仕事で使うお薬の香りがほんの少し。


「もう、離れなさいってば~」

「やだ~」


 抱き合った二人は、ふらふらとよろめき、そのままソファへと横たわった。

 アリシアのお腹の上でリメアは横髪をいじりながら、楽しげに話す。


「あのね、あのね、色々とお話したいことあるの。今日流れてた雲がね、アリシアにとってもそっくりだったの。笑ったときの! あとね、あとね。そうだ、明日食べに行くハンバーガーはね、この星でとっても有名なんだって! 絶対食べたほうがいいって、えぇと、リッキーが言ってたの。わたし、楽しみで何回か調べちゃったんだけど、なんかね、小麦? パン? がすごく良くてね、お肉が凄くジューシー? で、 きっとアリシアも――」

「……リメア様」


 頭の中に響くリッキーのヒソヒソ声に、リメアはハッとした。

 開きっぱなしの口に手を当てたまま、そろり、そろりと体を起こす。

 アリシアはよほど疲れていたのか、既にすやすやと眠りに落ちていた。


「……おやすみ、アリシア」


 耳元で小さく囁くと、リメアは抜き足差し足で玄関の照明を消しに行く。

 部屋も暗くして、再びアリシアの寝るソファまで戻って来る。


「わたしも寝るね、おやすみ、リッキー」

「ええ、おやすみなさいマセ、リメア様」


 リメアはソファの隣で床に寝転ぶ。

 下からだとソファの上に寝るアリシアの顔は見えなかったが、穏やかな呼吸は聞こえてくる。リメアは明日のハンバーガーに胸を膨らませながら、アリシアの寝息を子守唄に目を静かに閉じたのだった。

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