07.恐怖の引き金
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ロミを拾ったことは、思いがけない収穫だった。あれから私は、毎朝の髪の手入れにやきもきすることがなくなり、学校でもヘアスタイルを褒められることが増えた。
父や母は物乞いを侍女にすることにいい顔はせず、せめて下女として下働きをしながら教育を受けさせるべきだと言った。確かにそれはそうだ。ロミは貴族社会の礼儀作法どころか、字の読み書きすらできない。だから当面の間は、下働きをしながら侍女としての勉強をし、私が呼んだらすぐに駆けつけるという多忙な生活を送ってもらうことにした。
ロミにとっては厳しい環境だと思う。侍女や下女たちが、ロミを歓迎するはずがないからだ。泣き言を言って逃げ出すのなら、それはそれで仕方がないと割り切っていたのだが、意外なことに彼女が私に泣きついてくることはなかった。
「屋敷での生活にはもう慣れた?」
ロミを雇い入れて七日後、私は彼女を連れて街を歩いていた。
ロミは私の一歩後ろを歩きながら、大きく頷いた。
「はい! 一日三食、ちょっとしかカビの生えていないパンが食べられるなんて、滅多にないことなんですよ! それにお嬢様たちが食べ残したおかずまで食べていいと言ってくれて……こんなに幸せなことはありません!」
ロミは目をキラキラさせながら、言葉を続けた。
「覚えることが沢山あって大変ですけど、皆さん優しく教えてくださいます。あたしが間違えても、細い木の枝でふくらはぎを叩くだけで許してくださるんです。路上で生活していた時は、理由もなく知らない人に殴られたり蹴られたりが当たり前だったから、お屋敷の皆さんの優しさが身に染みます!」
しっかりと他の下女たちから虐められているようだが、どうやらこれまでの環境が劣悪すぎて、本人は気づいていないらしい。
ロミよりも後ろに控えさせた侍女へ視線を送ると、彼女は気まずそうな顔で目を逸らした。
「あなたがそれでいいなら、何も言うことはないわ」
「? はい!」
技術や美的感覚が優れているだけでなく、根性もあって体力もあり、他人の悪意を受け流す鈍感さもある。下女頭の話では、覚えも悪くはないようだ。
「ところでエステル様。今日はどちらまで行かれるのですか?」
「お菓子を買いに行くのよ」
私が足を止めたのは、ロミを拾った時に焼き菓子をくれたあの店だった。
「まぁまぁ! エステル様! またお目見えできるなんて、感激ですわ!」
「先日頂いたお菓子がとても美味しかったから、お父様たちにも召し上がっていただこうと思って。大きな箱に詰めてくださる?」
店主は目を輝かせ、急いでお菓子を用意し始めた。私が連れている少女がこの間の物乞いだとは、気づいていないようだ。
「それと、箱とは別に五つほど袋に入れてちょうだい」
「はい。ただいまご用意いたします」
店主が包み終えるのを待つ間、ロミは恍惚とした表情で店内を見渡していた。物乞いの身なりでは店に入ることなどできなかっただろうし、この甘い匂いを店の外で肺いっぱいに吸い込んでは、想像を膨らませていたのだろう。
「お待たせいたしました」
大きな箱と、小さな包み。それをロミが抱えて店を出た。
「その包みはあなたのよ。屋敷に持って帰ると取り上げられるかもしれないから、そこのベンチで食べてしまいなさい」
「……へ? あ、あ、あたしにくださるんですか!?」
「今のところ、私の期待以上に頑張っているみたいだから、ご褒美よ。それに私の使用人がこんな痩せっぽちじゃ、周りから酷い主人だと思われるわ」
「酷い主人だなんてとんでもない! エステル様は、本当に天使みたいなお方です!」
「お、大袈裟ね……」
使用人にこんなにも感謝されたことなどないから、なんだか変な気分。
噴水のある広場へ移動し、ベンチに腰を下ろす。隣にロミを座らせると、彼女はいそいそと包みを開けた。
「はい。エステル様、どうぞ」
包みから取り出したお菓子を、私に差し出す。
「あなたにあげたのよ。あなたが食べなさい」
「一緒に食べた方が美味しいです」
強引に私の手に乗せると、ロミは次に離れて控えている侍女の元へ駆けて行った。
「はい、どうぞ」
「わ、私にもくれるの……?」
「はい。色んなことを教えてくださる先輩なので」
屈託なく笑って手渡すと、さらに護衛の二人にも一つずつ与えてベンチに戻ってきた。
「あなた……やっぱり馬鹿なの? あなたの分、一つだけになっちゃったじゃない」
「こんな高価なもの、一つ食べられたら十分です。独り占めしたら、きっとお腹を壊してしまいます」
カビの生えたパンを食べられる人が、そんなことでお腹を壊すはずがない。けれどロミは心底幸せそうな顔で、お菓子を頬張った。
「わあぁぁ……! 美味しいです! この世のものとは思えない美味しさです! エステル様も召し上がってください!」
「私はこの前食べたから知ってるわよ」
それでも口に含んだそれは、なんだかこの前よりも美味しいような気がした。
「――あ。エステル様、あのお花は何のお花ですか?」
噴水の側の花壇に咲いた花を指差し、ロミが尋ねた。
「バラよ」
「あれがエステル様がお好きなバラですか」
ロミは花壇に近づいて行って、花弁に鼻を寄せる。
「なるほど、これがバラ……」
「バラがどうかしたの?」
「香油の見分けがつくように、覚えているんです。ジャスミンとラベンダーとキンモクセイは覚えました」
うちの侍女たちは、ロミの向上心を見習うべきだわ。
感心していると、不意に私の上に影が落ちた。空が曇ったのかと首を持ち上げると、そこには知らない男の顔があった。
「きゃあっ!?」
「なぁ。あの娘、この間あんたが連れて帰った物乞いの娘?」
私の悲鳴に慌てて護衛が駆けてきて男を捕らえようと手を伸ばしたが、男はその手をさらりと躱した。
「無礼者! こちらのお方をどなたと心得る!?」
「パシュテール伯爵の娘だろ? 次女の……悪い、名前はなんだった?」
護衛の一人が私を背後に庇うようにして、男の前に立ちはだかった。もう一人は何度も男を捕らえようとするが、まるでダンスでも踊っているかのようにするするとすり抜けていく。
「エステル様、お知り合いですか?」
「い、いいえ……」
私の側へ駆けつけてきたロミに、首を振って答えた。声が思うように出なかった。無意識に、右手が左手首の傷痕を押さえる。
二十歳くらいだろうか。黒い髪をした、どこか挑戦的な目をした男だ。身なりはこざっぱりしているが、身分があるようには見えない。腰にぶら下げた剣が視界に入り、背筋に寒気が走った。
「別に怪しいもんじゃない。ちょっと質問しただけだろ」
「どこの馬の骨ともわからん奴が、気安く声を掛けていいお方ではないわ!」
「あ、あのぉ! あたしの事ですよね? 確かにあたしは、この間エステル様に拾っていただいた物乞いです!」
激昂する護衛の声に勝るとも劣らぬ声で、ロミが言った。男は面白そうに口角を上げると、満足そうに頷いた。
「経緯に興味があるけど、こいつらがいたらゆっくり話ができねぇな。出直すわ」
「次にその顔を見かけたら、侮辱罪でひっ捕えるからな!」
男は笑って片手を振ると、足早に広場から出て雑踏に紛れた。
「エステル様。大丈――」
私の手に触れたロミが、息を呑んだのがわかった。私の手が、異常に震えていたからだろう。自分でも止められない。
「あの男、追いますか?」
「……いいえ、追わなくて結構」
追ったところで、護衛でも捕まえられない男をロミが捕まえられるはずがない。それより今は、この震えを早く止めたい。
両手を強く握りしめ、護衛二人を睨みつける。恐怖が去ったあとに込み上げてきたのは、強い怒りだった。
「二人もいて、どうしてあの男が私の背後にいたことに気づかなかったの? 彼が私を殺すつもりだったら、確実に死んでいたわ!」
「す、すみません!」
「離れて警護するようにとおっしゃられたのは、エステル様――」
「言い訳なんか聞きたくない! あんたたち、二度と私の護衛につかないで!」




