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可愛いは最強!〜合理主義悪役令嬢の生存戦略〜  作者: ままはる
《ケーストリデン家の女たち》
35/36

35.湖

「ここか? パシュテールの別荘ってのは」


 男の言葉に振り返ると、見覚えのある建物が見えた。ここは私が子供の頃に魔物に襲われた、あの湖だ。


 ……そういうことか。


 彼らのシナリオの一部が、はっきりと見えた。


 男を取っ替え引っ替えする悪女エステル・パシュテールは、パシュテール家の別荘で男遊びに興じていた――……最悪すぎる。


 これほど最低なシナリオを描いたのは、一体誰なのか。真っ先に頭に浮かんだのは、ブランシュ様だった。


 私が傷物になれば、リュカとの婚約を破断にできる。それを他にも望む者は他にもいる。執拗に嫌がらせを続けるあの侍女たちか、それとも――まさか、アルベリク様やミラーセン侯爵だろうか。


「さて――始めようか」


 男の手が肩に触れた。


 あの別荘の中に入ってしまったら、もう逃げられない。


「っ!」


 私は手を縛られたまま、弾けるように湖の畔を走り出した。


「どこに逃げるんだぁ? 鬼ごっこがしたいなんて、エステル様は可愛いねぇ」


 背後から、男たちの下品な笑い声が追ってくる。


 彼らが本気を出せば、私なんかあっという間に捕まるだろう。怯えて逃げ惑う私を見て、楽しんでいるだけなのだ。


「誰か! 助けて!!」


 無駄だと分かっていても、叫ばずにはいられなかった。長年放置されている別荘に、誰かがいるはずなどないのに。


 怖い……怖い、怖い、怖い! 誰か助けて!


 恐怖で足が上手く動かない。もつれて、その場に強く転倒した。


「もうお終いか?」


「こ……来ないで……」


 立ち上がることができない私に、男の手が伸びる。

 

 何とかしなければいけない。交渉しなければならないのに、頭の中は真っ白だ。


「あ、あんたたち……タダじゃ済まないわよ……私の婚約者は、王国第一騎士の隊長よ! 今ならまだ、許してあげるから……!」


 男たちは、言葉が通じない獣のような顔で笑っている。


 私は、無力だ。


「お金なら、いくらでも払うわ! だから……!」


 男の指先が肌に触れた、その時――


「なんだ、あれ……?」


 男の一人が、湖の方を指差して呟いた。


「あぁ? なんだよ、そんなことより早く――」


「いや、マジで……なんか、すごい数の……」


 横目で、私も湖を見る。


 夜の闇に広がる水面の奥に、赤く揺れる何かが見えた。


 ――私は、この赤の正体を知っている。


 喉の奥が詰まり、全身が金縛りに遭ったように竦んだ。次の瞬間、暗い水面がどろりと波打ち、夥しい数の魔物が陸へと上がってきた。


「う、うわああぁっ!? 魔物だ!」


「くそ……っ! 逃げるぞ!」


 血のように赤い目をした、大きなトカゲのような魔物が、水辺の近くで腰を抜かした男に一斉に飛びかかる。


 耳をつんざく悲鳴に、私は固く目を閉じた。


 ああ、もうダメだ……


 瞼の裏に、幼いリアーナを抱えた父の背中が浮かぶ。


「助けて……」


 せっかく傷痕は薄れていたのに、結局私はこの湖に囚われ、また引きずり戻されるのだ。


 二人目の男が、魔物の牙に捕らえられ湖の中へと沈められていく。


「助けて……お父様……!」


 体が震えて動かない。逃げられない。


 一匹の魔物と――目が合った。


「助けてよ、リュカー!!」


 叫んだのとほぼ同時。私の目の前を、蒼い炎が迸った。炎は魔物を丸ごと包み込み、その身を焦がしていく。


「……え……?」


 この炎を、私は見たことがある。カレイド鉱山の、武器工房で――


「エステル!」


 馬の嘶きと共に、黒馬に乗ったリュカが私の前に現れた。


「……リュカ……」


 これは、夢だろうか。それとも、実はもう私は死んでしまっていて、走馬灯のようなものでも見ているのだろうか。


 リュカはカレンからひらりと飛び降りると、抜身の剣を構えて次々に魔物を斬り伏せていった。


 あれだけの数の魔物が、あっという間に死屍累々となって積み上がっていく。


 かつてアルベリク様が、リュカを狂人だと称していたのを思い出した。しかしその顔は、決して笑ってなどはいない。寧ろ激しい怒りを孕んでいた。


「……エステル。エステル!」


 どのくらい、呆然としていたのだろう。名前を呼ぶリュカの声に、私はようやく我に返った。


「リュカ……」


「大丈夫か? 怪我はしていないか? あいつらに何か――」


「何もされていないわ」


 気丈に答えたつもりだった。助けに来るのが遅いと、彼を罵ってやるつもりだった。けれど言葉の続きは、込み上げる涙と嗚咽に邪魔をされて、紡ぎ出すことができなかった。


「ごめん……怖い思いをさせて、本当に悪かった」


 リュカが強く私を抱き締める。


「ごめん。ごめんな……」


 何度も謝るその腕の中で、私は言葉にならない声を上げて、ただ泣き続けた。


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