35.湖
「ここか? パシュテールの別荘ってのは」
男の言葉に振り返ると、見覚えのある建物が見えた。ここは私が子供の頃に魔物に襲われた、あの湖だ。
……そういうことか。
彼らのシナリオの一部が、はっきりと見えた。
男を取っ替え引っ替えする悪女エステル・パシュテールは、パシュテール家の別荘で男遊びに興じていた――……最悪すぎる。
これほど最低なシナリオを描いたのは、一体誰なのか。真っ先に頭に浮かんだのは、ブランシュ様だった。
私が傷物になれば、リュカとの婚約を破断にできる。それを他にも望む者は他にもいる。執拗に嫌がらせを続けるあの侍女たちか、それとも――まさか、アルベリク様やミラーセン侯爵だろうか。
「さて――始めようか」
男の手が肩に触れた。
あの別荘の中に入ってしまったら、もう逃げられない。
「っ!」
私は手を縛られたまま、弾けるように湖の畔を走り出した。
「どこに逃げるんだぁ? 鬼ごっこがしたいなんて、エステル様は可愛いねぇ」
背後から、男たちの下品な笑い声が追ってくる。
彼らが本気を出せば、私なんかあっという間に捕まるだろう。怯えて逃げ惑う私を見て、楽しんでいるだけなのだ。
「誰か! 助けて!!」
無駄だと分かっていても、叫ばずにはいられなかった。長年放置されている別荘に、誰かがいるはずなどないのに。
怖い……怖い、怖い、怖い! 誰か助けて!
恐怖で足が上手く動かない。もつれて、その場に強く転倒した。
「もうお終いか?」
「こ……来ないで……」
立ち上がることができない私に、男の手が伸びる。
何とかしなければいけない。交渉しなければならないのに、頭の中は真っ白だ。
「あ、あんたたち……タダじゃ済まないわよ……私の婚約者は、王国第一騎士の隊長よ! 今ならまだ、許してあげるから……!」
男たちは、言葉が通じない獣のような顔で笑っている。
私は、無力だ。
「お金なら、いくらでも払うわ! だから……!」
男の指先が肌に触れた、その時――
「なんだ、あれ……?」
男の一人が、湖の方を指差して呟いた。
「あぁ? なんだよ、そんなことより早く――」
「いや、マジで……なんか、すごい数の……」
横目で、私も湖を見る。
夜の闇に広がる水面の奥に、赤く揺れる何かが見えた。
――私は、この赤の正体を知っている。
喉の奥が詰まり、全身が金縛りに遭ったように竦んだ。次の瞬間、暗い水面がどろりと波打ち、夥しい数の魔物が陸へと上がってきた。
「う、うわああぁっ!? 魔物だ!」
「くそ……っ! 逃げるぞ!」
血のように赤い目をした、大きなトカゲのような魔物が、水辺の近くで腰を抜かした男に一斉に飛びかかる。
耳をつんざく悲鳴に、私は固く目を閉じた。
ああ、もうダメだ……
瞼の裏に、幼いリアーナを抱えた父の背中が浮かぶ。
「助けて……」
せっかく傷痕は薄れていたのに、結局私はこの湖に囚われ、また引きずり戻されるのだ。
二人目の男が、魔物の牙に捕らえられ湖の中へと沈められていく。
「助けて……お父様……!」
体が震えて動かない。逃げられない。
一匹の魔物と――目が合った。
「助けてよ、リュカー!!」
叫んだのとほぼ同時。私の目の前を、蒼い炎が迸った。炎は魔物を丸ごと包み込み、その身を焦がしていく。
「……え……?」
この炎を、私は見たことがある。カレイド鉱山の、武器工房で――
「エステル!」
馬の嘶きと共に、黒馬に乗ったリュカが私の前に現れた。
「……リュカ……」
これは、夢だろうか。それとも、実はもう私は死んでしまっていて、走馬灯のようなものでも見ているのだろうか。
リュカはカレンからひらりと飛び降りると、抜身の剣を構えて次々に魔物を斬り伏せていった。
あれだけの数の魔物が、あっという間に死屍累々となって積み上がっていく。
かつてアルベリク様が、リュカを狂人だと称していたのを思い出した。しかしその顔は、決して笑ってなどはいない。寧ろ激しい怒りを孕んでいた。
「……エステル。エステル!」
どのくらい、呆然としていたのだろう。名前を呼ぶリュカの声に、私はようやく我に返った。
「リュカ……」
「大丈夫か? 怪我はしていないか? あいつらに何か――」
「何もされていないわ」
気丈に答えたつもりだった。助けに来るのが遅いと、彼を罵ってやるつもりだった。けれど言葉の続きは、込み上げる涙と嗚咽に邪魔をされて、紡ぎ出すことができなかった。
「ごめん……怖い思いをさせて、本当に悪かった」
リュカが強く私を抱き締める。
「ごめん。ごめんな……」
何度も謝るその腕の中で、私は言葉にならない声を上げて、ただ泣き続けた。




