34.夜明けから夕暮れへ
ああ……最悪だ……
私はまだ夜が明けきらない薄暗い庭園を、鬱々とした気分で歩いていた。
結局、あれから一睡もできなかった。美容の為に睡眠だけは死守してきた私にとって、人生初の徹夜である。昨夜、せっかく念入りに手入れをした肌も、全部水の泡だ。
それでもこんな時間に庭園を歩いているのは、毎日の日課だから。美しい姿勢と体型の維持、そして体力を付ける為に、毎朝下女たちよりも早起きをして歩いているのである。
頭の中を占有しているのは、ブランシュ様のこと。少しでも油断すると、あの意地悪く歪んだ顔が未来の自分の顔と重なって、私を深い谷の底へと叩き落とす。
「ダメダメダメ! 楽しいことを考えるのよ、エステル!」
両手で頬を叩き、無理やり庭園の花壇へと目を向けた。
庭師たちのお陰で、殺風景だった庭に彩りが生まれつつある。植えられたばかりでまだ土に馴染んでいない花たちだが、結婚式の頃には見事に咲き誇っていることだろう。
そう思うと、少しだけ気持ちが前を向く。今日一日も『クソババア』との攻防戦に負けるものか――そう思い直した時、ふと違和感を覚えた。
やけに、周囲が静まり返っている気がした。
いつもこの時間には、門番と屋敷の周辺を警備する警備員の姿しか見ない。だから静かなのはいつも通りのはずなのに、その彼らの気配すらも、今はまるで感じられない。
気持ち悪い……
得も言われぬ不気味さに、思わず足を止めた。
まだ屋敷は深い眠りの中。どこかに人の気配はないかと視線を巡らせた、その時。侍女たちの部屋の窓に、ぱっと明かりが灯った。
あぁ、良かった。
ほっとしたのも束の間、次の瞬間には、私の意識は真っ逆様に暗闇へと落ちていった。
⭐︎
暗闇の中から私を引きずり戻したのは、ガタガタという不快な振動と、耳障りな音だった。
何だろう……?
いつもの私なら、それがすぐに馬車の揺れと音だと気付いたと思う。けれど今は、まずは目を開くという考えにも至らないほど、頭の芯がひどく重く霞んでいた。
「おい、目が覚めたみたいだ」
頭の上から、知らない男の声が降ってくる。
「思ったより、長く眠っていたな。やっぱり、出力を間違えたんじゃないのか?」
「早く目覚めて、騒がれるよりマシだろ」
「なぁ、もう我慢できねぇよ。このままここでやっちまおうぜ」
「焦るな、猿。ちゃんとシナリオ通りに動かなきゃ、報酬が貰えねぇだろ」
何の話だろう……?
まどろみの中では、何も理解ができない。ようやく目を開けることができたが、白い靄がかかったように視界は判然としなかった。
ゆっくりと、深い呼吸を繰り返す。そうしているうちに、少しずつ頭が動き始めた。
「だ……れ……?」
掠れた声を絞り出すと、黒い大きな影たちが、ゲラゲラと下品な笑い声を上げた。
「俺たちは、あんたの愛人だよ」
……何? どういう意味?
鈍い動きの頭に苛立ちが募り、一度小突いてやろうと手を動かそうとした。しかし、腕は動かない。少し遅れて、自分の両腕が後ろ手に縛られていることに気が付いた。
ざぁっと、顔から血の気が引いていく。それと同時に、ようやく頭の中がはっきりとした。視界の靄も、嘘のように晴れていく。
「何なの……? あなたたち、何者!? 私をどこへ連れて行くつもり!?」
小汚い荷馬車の中だった。私の周りには、見るからに育ちの知れる大柄の男が三人、座り込んでいる。
「ほら、やっぱりまだ眠らせておいた方が良かったじゃねぇか。あの魔導具、もう使えないのか?」
「一回きりだって言ってたから、もうダメだな」
私は屋敷の庭で、この男たちの魔導具によって眠らされ、拉致されている――そこまでは、ようやく理解した。
「質問に答えなさい! どこへ向かっているの!?」
「男好きの悪女様の、独身最後の火遊びに行くんだよ」
何を意味のわからないことを。
私は幌の隙間に目を走らせた。僅かに見える外の景色は、薄暗い。一瞬、連れ去られてからさほど時間が経っていないのだと安堵しかけたが、先ほどの男たちの会話を思い出して目眩がした。
これは夜明けではない、夕暮れだ。半日以上、私は気を失っていたのである。
屋敷から、半日もの距離を離れてしまっている。そして、半日経っているにも関わらず、誰も私を助けに来ていない。
「の……望みは、何なの……?」
震える声で男に尋ねると、彼らは再び笑った。笑うだけで、返事はない。
震える手足を、奥歯を噛み締めて堪える。
私の愛人……男好きの悪女の、独身最後の火遊び……?
それらの言葉が導き出した答えは、公爵家に嫁ぐ身には、決してあってはいけないものだった。
ふざけるなと、叫んでやりたい。しかし開いた口からは、何の言葉も出てはこなかった。
程なくして、馬車が静かに止まった。男たちが荷台から降りて行き、私も乱暴に外へと放り出される。
――薄闇に包まれた、湖の畔だった。




