03.婚約破棄と成立
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その日の午後。兄のセレスタンが帰宅するなり、難しい顔をして私とリアーナをお父様の執務室へ呼びつけた。
六歳年上の兄は精悍な顔つきの凛々しい青年で、妹の私から見ても惚れ惚れする。領地の経営手腕も父譲りで、日夜各地を駆け回る仕事人間だ。そんな彼も私を溺愛していて、数日家を空けた後は必ず土産を片手に会いに来る。しかし今日は、どうにも様子がおかしかった。
整理された書類が積み上がった机の前で、父と兄が眉間に皺を寄せて唸り合っている。傍らの母も、どこか困った顔で立ち尽くしていた。
隣に立つリアーナを横目で見たが、どうやら彼女も私と同様、何故呼び出されたのかわからない様子だった。
「一体どうしたの? 何か問題でも起きたの?」
「ああ……まぁ、問題と言うか……」
父はセレスタンに目線を送る。兄の口から語らせるつもりらしい。
「ミラーセン侯爵のアルベリク様のことだ」
リアーナの婚約者の名前だ。リアーナとアルベリク様は貴族学校の学友で、入学前から婚約が決まっていた。卒業と同時に籍を入れる手筈になっている。
「アルベリク様の御身に何か……?」
不安そうな声を上げるリアーナに、セレスタンは一瞬口籠る。逡巡した後、意を決したように顔を上げた。
「リアーナとの婚約破棄を申し出された」
わお……それはそれは。お家の一大事だわねぇ。
幸いパシュテール伯爵領は豊かで、資金繰りに困ってはいない。跡継ぎのセレスタンも優秀で、没落するような危機ではないけれど、娘が上位の貴族に嫁ぐのは生家を確固たるものにするための義務である。
「な、何故ですか!? どうして突然そのような……っ!」
「アルベリク様は、その……他に見初めた方がいらして……」
「それはどなたですか!? 学校ではそのような相手は――」
「……エステルだ」
自分には直接関係なさそうだと聞き流していた矢先、私の名前が呼ばれた。
「はい?」
小首を傾げてみせる私に、全員の視線が突き刺さる。
「先日、エステルが社交界デビューを果たした折に、アルベリク様にご挨拶をしただろう。その時にお前をいたく気に入られたそうだ」
……確かに。将来の義兄にあたる人で、何より侯爵を継ぐ人だ。気に入られて損はないと判断し、愛想を振り撒いておいた。それが思わぬ作用を引き起こしたらしい。
「はあ。それで、私はどうしたらいい? お姉様の代わりに嫁げばいいの?」
「エステル! アルベリク様は、私の婚約者よ!?」
「だから、その婚約を破棄するって言ってるんでしょう? 生憎だけど、私は侯爵家の申し出を拒否できる立場じゃないの。それともお姉様にはその力がおありだと?」
「あ……あなたは嫌じゃないの!? 姉の婚約者を横取りすることになるのよ!?」
「貴族の娘として生まれた時から、結婚相手は大人が決めるものだと思っているわ。周りからすれば私が奪ったように見えるかもしれないけれど、だからといって私に何ができるのかしら」
「……っ!」
珍しくリアーナは激昂し、激しく足音を立てて部屋を飛び出して行った。
もしかしてお姉様ってば、アルベリク様のことが本気で好きだったのかしら。ちょっと愛想良くしただけであっさり妹に乗り換えるような男がいいだなんて、お姉様の趣味は理解し難い。
「エステルはそれでいいのか? お前が嫌だと言えば、なんとかミラーセン侯爵に申し開きを……」
「ミラーセン侯爵家なら、私に不満はないわ。家柄も堅実だし、アルベリク様は馬や剣の扱いに長けた、騎士たちの良き統率者になるお方だと聞いてるもの。お姉様には悪いけど、お父様やお兄様の手を煩わせた上、侯爵様の心証を悪くするのは得策ではないと思うの」
「エステル……」
母は涙を流して私を抱きしめた。
「……お前は本当に聡い子だ。では先方には、そのように返事をしておこう。正式な結婚は、お前が学校を卒業する二年後になるだろう。今日からお前は、ミラーセン侯爵家の婚約者だ」
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翌日から、貴族学校での私の立場は『可愛い伯爵令嬢』から『姉の婚約者を簒奪した悪役令嬢』になった。こうなることはわかっていたけれど、この噂の広まり方はちょっと予想外だった。それだけリアーナが怒り狂っているということなのだろうけど。
しかし、あのお人好しの仮面を被った姉が、悪意を全面に押し出してくるとは思えなかった。恐らく口から生まれてきたとしか思えないほど口の軽い、ブルックス子爵令嬢にことの顛末を涙ながらに訴えたに違いない。あとは彼女が面白おかしく噂を広めてくれるだけだ。
でもね、お姉様。きっとお姉様の思い描いた通りには進まないわよ。
「エステル様」
「カミーユ様。ごきげんよう」
噂話が広まった数日後、教室で真っ先に声を掛けてきたのは、子爵令嬢のカミーユ嬢だった。彼女とは初等部からの付き合いで、何かと私の後をついて回る所謂幼馴染である。
「なんだか不穏な噂が流れていますわね……」
「ええ。知っているわ」
「エステル様がリアーナ様の婚約者を奪っただなんて、嘘ですよね?」
「奪った覚えはないけれど、結果だけ見ればそう見えても仕方がないわね」
カミーユ嬢は大きな目をぱちくりさせた。恐らく私が言い訳や経緯をつぶさに話し出すとでも思っていたのだろう。
この件について、言い訳をするつもりはない。だって私は、何も悪い事はしていないのだから。
「どんな色香を使ったんだろうな? あの顔で迫られたら、アルベリク様もそりゃあ陥落するだろうさ」
「おい、よせよ。未来の侯爵夫人だぞ」
「エステル様はお美しいけれど、やはり性格は歪んでいるのかしら……」
「それじゃあ、あの噂も本当かしら。使用人を虐めて辞めさせるって……」
教室の端から漏れ聞こえてくる声。私は背筋を真っ直ぐに伸ばし、前を見据えたままでいた。
不意にカミーユ嬢が動いた。こそこそと噂話に花を咲かせる輪に近づき、にこりと微笑みかける。
「以前エステル様に仕えていた侍女が、今は私の屋敷で働いておりますのよ」
「まぁ。ではやはり、エステル様が虐めて――」
「とても優秀な侍女なんです。なんでもエステル様からは、主人に命じられる前に主人の求めていることを見つけ、動くことを徹底されていたとかで。確かにエステル様は厳しいお方だったけれど、今となってはあの厳しさがあったからこそ向上できたのだと、エステル様に感謝しているそうですわ」
噂話をしていた令嬢たちは、ぽかんと口を開けて私をちらりと見た。
「た……確かに、エステル様は人に厳しい一面もあるけれど、それ以上にご自分に厳しい方ですものね」
「成績だって優秀ですしね」
「そう言えば、社交界のお話は聞きました? エステル様は、参加者全員のお名前と身分を把握なさっているだけでなく、令嬢たちの好みまで事前に調べてご挨拶に回ったんですって!」
「うちの親父も感心していたなぁ」
呆気ないほど、噂の風向きが変わっていった。さらにカミーユ嬢がとどめを刺す。
「美しく聡明なエステル様ですもの。奪うおつもりなんかなくても、お相手が放っておかなかったに違いないわ」
あぁ、カミーユ嬢。あなたって本当に、有能だわ。
一度消えた噂話は、二度と再燃することはなかった。多少リアーナに同情する声は残ったけれど、些細なものだ。
リアーナは平凡な令嬢だ。見た目もぱっとしないし、成績だって中の中。得意なこともないし、これといった努力もしない。伯爵令嬢という地位になんとなく浸かっているだけの、可もなく不可もない女なのだ。
対して私はまず可愛い。可愛くある努力を怠ったことがない。学校の成績が上位一桁なのは、もちろん家で予習と復習を欠かさないからよ。貴族の令息令嬢が揃うこの学校では、私はいつも愛想を振り撒いている。教師にも、嫌いな生徒にもね。
ぬるま湯のようなお姉様と、可愛く社交的で優秀な私。勝敗はもう見えている。日々の見えない努力は、こういう時に私を守ってくれるのだ。




