02.エステルとリアーナ
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「あなた、明日から私の担当を外れなさい」
無感情に放った言葉に、侍女は小さく肩を震わせた。
「な……お嬢様、一体なぜ……」
「いちいち理由を言わなきゃわからない? 少しはその足りない頭で考えなさいよ」
侍女は蒼白になった顔で、私の髪を梳いていたブラシを強く握りしめる。それを私は取り上げた。
「あ……っ」
「早く下がって」
ブラシに絡まった髪を指で摘み上げているうちに、侍女は静かに退室したようだ。
まったく……こんなにも髪が切れてるじゃない。髪を梳くのも結うのも、あの侍女は下手だ。十日間も猶予を与えたのに、ちっとも上達しやしない。たった一本の後れ毛が、私という作品の完成度を丸ごと台無しにするのだということを、どうしてこの人たちはわからないのだろう。
「エステル様……侍女の仕事を取り上げるのはおやめくださいと、何度も申し上げております。一体何人目でございますか」
傍らで渋い顔を浮かべていた侍女長が大きなため息を吐いたが、取り合わない。代わりに今日着る予定のドレスを抱えた侍女に目を向けた。
「あなたはまさか、そのドレスを私に着せるつもり?」
「えっ……は、その……」
「はっきりおっしゃい」
「は、はい……お気に召さないのであれば、別の――」
「そのドレスは嫌いだと、以前言ったわよね? 二度も同じことを言わせないで。あなたも担当を外れなさい」
侍女は泣きそうな顔で侍女長を振り返る。侍女長はこめかみに指を当て、再びため息を吐いた。
「エステル様がすぐに侍女を入れ替えられる為、そのお言葉は別の侍女に向けられたものと存じます。彼女は知らなかったのですから、今回はご容赦いただけませんか」
「あら。あなたたちは『情報共有』という言葉を知らないの? 侍女が無能なのは長が無能だからかしら」
「エステル様……っ!」
「もういいわ。全員下がって。朝食の準備が出来たら運びなさい」
目元の深い皺を痙攣させる侍女長を、片手を振って黙らせる。彼女はしばらくぶつぶつと文句を言っていたけれど、やがて侍女たちを連れて退室した。
「お父様に頼んで、もっといい侍女を連れて来てもらわないとね」
鏡に向き直り、ブラシで髪を毛先から優しく撫でていく。薄いレースのカーテンの隙間から差し込む朝日に照らされて、髪は蕩けるように柔らかく輝いた。
それからメイクに取り掛かる。鏡台には、厨房の調味料棚のように色とりどりの小瓶が並んでいる。その日の肌のコンディションで使い分ける美容液やマッサージに使うオイル等、常に三十種類ほどを用途ごとに使い分けているのだ。誰も見ていない朝の一時間を、私はこの作業だけに捧げる。これを怠った日の自分を想像すると、それだけで息が苦しくなる。
その中から今日の化粧水を選んだ。肌に馴染ませている間に椅子から立ち上がり、軽く体を動かしてストレッチする。
肌に薄く粉を叩き、先日街で買った赤子の頬のような色のチークを仕込む。長い睫毛はプッシャーで根元から慎重にカールさせ、最後に薄付きの紅を引いた。
お父様が買ってくれたドレスが山のように並んだクローゼットから、今日の私にぴったり合う淡いピンクのドレスを選んだ頃に、台車に朝食を乗せた侍女たちがやって来た。
この人たち、本当に無能だわ。私が支度を終えるのに時間がかかることくらい、わかりきっているはずでしょう。こんなに早く運んできたら、温かいスープが冷めてしまうわ。
「お、お嬢様……朝餉の準備が整いました……」
すっかり萎縮した様子で侍女が声を掛けてくるが、無視した。ドレスに袖を通しながら、ちらりと視線だけを送ってみる。こんなに簡単なことなのに、どうしてわからないのだろう。
「あの……」
三人の侍女たちは、揃ってオドオドとしているだけ。誰も私の視線の意味を考えようとしない。
「ねぇ。一目見て状況が把握できない? 誰か後ろのリボンを結びなさいよ、この役立たず!」
「し、失礼いたしました!」
滑稽なほど慌てて、侍女たちが駆け寄りリボンを結んだ。
「それではお嬢様。朝餉を――」
「今から髪を結えるの。一時間後に運び直しなさい」
「でしたら私にお申し付けください。お嬢様のご希望通りの髪型にいたしますので」
今日は髪を編み込みたい。毎晩寝る前に練習したから、この下手な侍女たちよりも上手にできる自信がある。誰かに任せて崩れるくらいなら、自分の手でやったほうがいい。
「結構よ。早く下がってちょうだい」
一度広げた朝食を台車に乗せ直していく侍女たちの顔は、明らかに不服そうだった。
きっと厨房に戻れば、私の陰口で大いに盛り上がることだろう。エステルは性格が歪んでいる。優しさも慈悲もない、氷のような令嬢だと。そして最後はリアーナと比べて、姉妹でどうしてこんなにも違うのかと嘆くのが、彼女たちのお決まりだ。ちなみにこれは被害妄想ではなく、実際にこの耳で聞いたものである。
指の隙間からさらさらと落ちそうになる毛束をしっかりと指の間に掴み、鏡と睨み合いながら指を動かしていく。この時の必死の形相だけは、あまり可愛いとは言えないかもしれない。だからこういう時は、誰も部屋には入れないようにしている。髪を結う時だけではなく、顔に蜂蜜や美容液を塗ってパックしている時や、美しい姿勢や体型を保つ為にトレーニングをしている時も、立ち入り禁止だ。
何もしないで可愛いままでいられるわけがない。私は血の滲むような努力をしている。だがその努力を、決して誰にも見せない。
ヘアアレンジの出来栄えは満足のいくものではなかったけれど、及第点だ。ドレスに合った髪飾りを添えると、一気に華やかになった。
鏡に向かってにっこりと笑ってみた後、肌色の顔料をほんの少し指先に取った。それを左手首に薄らと見える傷痕の上に塗って覆い隠す。
「忌々しい傷……」
これさえなければ、完璧なのに。
――ようやく支度が整い、再び用意された朝餉の席に着いた時、侍女がリアーナの訪室を告げた。朝から見たくない顔だったけれど、渋々頷いて姉を招き入れる。
「おはよう、エステル。たまには一緒に朝食をと思ったのだけれど、迷惑だったかしら?」
「とんでもないわ、お姉様。お姉様とご一緒できるなんて、とっても嬉しい」
わざとではないのだが、少し棒読みになってしまったかもしれない。それでもリアーナは気付いていないのか気にしていないのか、小さく微笑んで向かいに用意された椅子に腰を下ろした。
私は姉の姿をまじまじと見つめる。顔のパーツはそれほど大差があるとは思えないのに、この溢れ出る薄幸感は何なのだろう。ドレスはダサいし、髪にもこだわりが見えない。装飾品で華美に見せてはいるようだが、所詮引っ詰めただけのお団子だ。少し後れ毛を出してカールさせるだけで印象は変わるのにと思うけれど、わざわざ教えてあげるほど私は暇じゃない。
新鮮なトマトにフォークを突き立て、咀嚼する。瑞々しくて美味しいはずなのに、姉の来訪の真意が読めず、味を感じなかった。
こちらから用件を尋ねようか――そう思った矢先、リアーナはあの卑屈に見える笑みを浮かべて口を開いた。
「エステルは今日も可愛いわね。今朝の支度は、全部自分でやったと聞いたわ」
……あぁ、そういうこと。今日もエステルは侍女をクビにしたと、誰かがリアーナに泣きついたのだ。
「あら、ありがとう。手よりも口の方がよく動く侍女よりも、自分でやった方が満足のいく仕上がりになるの」
「エステル……」
リアーナは手にしていたパンを皿に置き、伏し目がちに私を見る。
「彼女たちにも生活があるわ。至らないところがあるのなら、もう少し優しく指導してあげたらどう? 使用人の指導も、いずれ貴女が嫁ぐ先での仕事よ」
「優しく指導、ね」
私は部屋の端に控えた侍女たちの中から、先ほど担当を外した侍女を側に呼んだ。
「あなたは私の担当になってから、何度練習したの?」
「え……? あの……」
「髪を梳く時、根元から強く引っ張るから沢山髪が切れたわ。それに痛かった。私が顔を顰めていたことに、気付いた?」
「も、申し訳ございません……」
「ヘアスタイルの流行りは知ってる? 知ろうとした? 十日間、私は何も言わなかったわよね? あなたには、十日間の猶予があった。その間に一度でも、自分の腕を磨こうとしたの?」
侍女は涙を浮かべ俯いた。
「あなたに生活があると言うなら、お姉様に泣きつく前にちゃんと仕事をしなさいよ」
リアーナが目の前にいなければ、コップの水をぶち撒けてやるところだ。
「お姉様。私には向上心のない者を、どうやって指導したらいいのかわからないわ。どうぞこの役立たずを、お優しいお姉様が指導してやってくださいませ」
「エステル……どうして。お父様たちの前では、あんなにいい子なのに……」
落胆するリアーナを、私は鼻で笑った。どうしてかって? 決まっているじゃない。無能な侍女に愛想を振り撒いたって、何の得にもならないからよ。
私は無言で食事を口に運ぶ。いつもはしっかりと咀嚼するのだけれど、早くこの場を去りたくて、適当に流し込んでいった。




