25.おかえりなさい
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「まぁ、大変! この戸棚、真っ黒に汚れているわ! きっとちょっとやそっとの力では落ちない、根強い汚れなのね。私のコルセットを、骨が折れそうな怪力で締め上げてくれるあの侍女なら、落とせるかもしれないわ。ロミ、呼んできてくれる?」
大袈裟な、しかし無垢を装う私の言葉に、周囲の使用人たちの空気が凍りついた。血相を変え、雑巾を握りしめた下女が駆け寄ってくる。
「エステル様、申し訳ございません! すぐに綺麗にお掃除いたします!」
「いいのよ。大きなお屋敷ですもの、手が回らないわよね。あら、この窓枠にもこんなに埃が。ふふっ。こんなにも沢山の埃、生まれて初めて見たわ。ケーストリデン家はベッドにも埃を積み上げる風習があるみたいだから、侍女たちのベッドにも、この埃を運んであげましょう」
まともな食事を出すようにはなったものの、些細な嫌がらせはその後も続いていた。
まともに取り合って傷ついてあげるほど、私は弱くはない。かと言って解雇にはできないので、ひたすら笑顔で応戦している。初めは腹が立ったりしたものだが、次はどんな手を使ってくるのか、それにどう対処するかを考えているうちに、段々と楽しくなってきていた。
下女やロミが止めるのも聞かず鼻歌混じりに埃を集めていると、部屋の入り口の方から低い笑い声が聞こえてきた。
「早速この家に馴染んでいるようだな」
くっくっと笑うリュカは、私が使用人たちからどのような扱いを受けているのか、およそ見当がついているのかもしれない。
「おかえりなさい、リュカ。家を思い出してくださったようで、安心したわ」
「あ……ああ。思いの外抜け出せなくて、悪かったな」
早く早くと私をこちらに呼び寄せておいて、肝心のリュカが帰ってきたのは三日ぶりである。
「これからも、こんな風に家を空けることが多いの?」
「遠征に出れば暫く空けることにはなるが、ここまで忙しいのはあと少しだと思う」
リュカは私の目の前までやって来て、大きな手を私の頭に乗せた。
「俺がいなくて、寂しかったか?」
「ば……っ!」
馬鹿じゃないの!? 貴方がいないと、侍女たちが調子に乗って嫌がらせをしてくるからよ!
喉元まで出かかった言葉を、なんとか無理矢理飲み込んだ。侍女たちとの問題は、かつてロミがそうしたように、私自身の手で解決するつもりだ。リュカには決して泣きつかないと決めていた。そして彼もまた、私の考え方をわかっているはずで、下手な手出しはしてこないだろう。
リュカはくすくすと笑った。
「俺が言うのもなんだが、ケーストリデン家は名家だからな。新しい人間が入ってくる時は、いつも警戒するんだ」
「その人間が『悪女』とあれば、警戒されて当然だわ」
「俺は、悪い女は嫌いじゃないんだけどな」
軽口を叩きながら寝室へ向かうリュカの後に続いて歩きながら、私は彼をジト目で睨みつけた。
「そもそも、人の女を無理矢理奪う趣味はないとか言っていたくせに、舞踏会で私を奪うような真似をしたのはどなたかしら」
「あれはどう考えてもアルベリクが悪いだろ。鉱山に行った時もそうだったが、側から見ていても、あいつが気になってるのはリアーナの方――」
言ってから、しまったと思ったのだろう。リュカは慌てて口を閉ざし、バツが悪そうに頭を掻いた。
「……悪い。デリカシーがないことは自覚しているが、今のは言うべきじゃなかった」
「別に、気にしていないわ」
寝室に入り、受け取った彼の上着を衣服掛けに掛けた。ちなみに、結婚するまでリュカと私の寝室は別である。
夕食はどうするのかと尋ねようと振り返りかけた時、後ろからリュカの太い両腕が私を包み込み、思わず息を呑んだ。
「けっ……結婚するまで、そういうことは――」
「分かってる。ちょっと疲れたから、少しだけでこのままで」
すぐ耳元で声がして、意図せず私の心拍数はどんどん上がっていく。
当然と言えば当然なのだが、私は男性に触れられたことがない。アルベリク様は顔や肩をベタベタと触ってきたが、こうやって抱きしめられることはなかった。あの時は肩に触れられるだけで居心地の悪さを感じていたのに、リュカに触れられるのは何かが違う。少なくとも、嫌ではなかった。
こういう時、どうしたらいいのだろうか。腕は下ろしたままでいいの? 振り返った方がいい? 冷静に判断しようと思うものの、身体はまるで言うことを聞いてくれない。
ガチガチに固まったまま棒立ちでいると、リュカが大きく息を吸うのが聞こえた。
「おかえりなさい、か……」
さっきの私の言葉を、反芻しているのだろうか。しみじみと味わうような、安堵するような、そんな声だった。
「お……おかえりなさい」
思ったよりも小さな声になってしまったが、もう一度その言葉を口にすると、私を包む腕に、ぎゅっと力が込められた。
「ただいま」
嬉しそうなその声に、なんだかこそばゆいような気持ちになっていると、リュカはそっと私から離れ、何事もなかったような顔で着替えを始めた。
「家のことを丸投げしている上にこんな事を言うのは少し憚られるんだが、兄嫁たちがお前に会いたいそうだ」
「セシール様?」
「と、下の兄貴の嫁さんのナディア。上の兄貴たちは俺たちと同じく王都の公爵邸に住んでいるんだが、下の兄貴たちは普段はケーストリデン領の本邸で暮らしている。今度王都に来る用事があるから、その時にセシールと揃ってお前に会いたいんだと」
上の兄エリアス様は、王のお側近くで国政に深く関わっている。下の兄クロード様は、領地にいない兄に代わり、ケーストリデン領の経営が主な役割である。だから私のデビュタントの時も、この前の舞踏会も、クロード様夫妻は領地を離れられず不在だった。優秀な領主であることは間違いないのだろうけれど、その為人や夫人のことは、私の耳まで届いていない。
ちなみにケーストリデン公爵は現在病に臥せておられ、間もなくエリアス様が爵位を継ぐことになっている。公爵夫人も既に他界され、その座は空席のままだ。
「もちろん、喜んでお目通りさせていただくわ」
「一週間後なんだが……引き継ぎに追われていて、俺は同行することができそうにない。エステル一人で行くことになりそうなんだが、大丈夫か?」
「私の心配をしてくれるなんて、珍しいこともあるのね」
「まぁ……エステルなら問題はないとは思うが……」
本当に珍しく、歯切れも悪い。私を兄嫁たちに会わせたくないような、そんな顔をしている。
「ケーストリデンの女は、癖が強いから気をつけろ」




