15.オレアスの置き土産
「……狂人」
ぽつりと溢したのは、アルベリク様だった。リアーナが首を傾げる。
「狂人、とは?」
「俺は実際に前線に立つリュカ様を見たことはないが、噂に聞いたことがある。魔物の群れに臆することなく斬りかかる姿は、まるで狂人のようだ、と」
「勇敢な方のように思いますが……?」
「笑っているそうだ。楽しくて仕方がないというような顔で、魔物を斬り伏せていくらしい」
……それは、確かに怖い。怖すぎる。
「黒馬に跨り戦場を駆ける姿は鬼神の如し、と言われているからどれほど恐ろしい方かと思っていたが……所詮は噂だな」
アルベリク様は小さく息を吐き、通路の向こうへと意識を向けた。彼も騎士だ。本来ならばリュカ様と共に魔物を退治しに行きたかったのだろう。
「……静かになってきましたね」
張り詰めていた緊張が解けてきた頃、耳を澄ましていたロミが呟いた。
魔物は全てやっつけたのだろうか。だったら早く、この薄暗い場所から出してほしい。
じれったい気持ちで通路を睨みつけていると、ふと背後に何か気配を感じた。振り返ってみたが、冷たい岩肌が広がっているだけで、特に何も見当たらない。
「エステル? どうかしたの?」
「……虫でもいたのかも」
周囲に視線を這わせる私に合わせて、リアーナも左右を確認した。
虫かもしれない――自分で言っておきながら、そうではないと頭の奥が叫んでいる。確かに何かがいた。ずるりと壁を這うような、影のような何かが。
あ……どうしよう……息が、上手く吸えない……
「エステル? エステル、大丈夫?」
「どうかしたのか?」
私の異変に気づいたリアーナの声に、アルベリク様がこちらを振り返った。私を見たその目が、そのままゆっくりと天井の方へと向けられていく。
何? どうして上を見上げているの? 何が――
その時、ちょうど私の頭上で水の音がした。深い水たまりに大きな石を投げ入れた時のような、ドプン、という音だ。
アルベリク様の目線を追った視界に飛び込んできたのは、ぼんやりと緑色に発光するゼリー状の何かだった。全体が小刻みに波打っていて、時折トプン、と水のような音を立てる。
霞がかった頭の中に浮かんだのは、スライムという名前の魔物だ。
悲鳴を上げようと、息を吸った。けれど喉の奥が変な音を立てただけで、声にはならなかった。
「……エステル。ゆっくりとこっちに来い」
静かなアルベリク様の声がした。あれが天井にへばりつくのをやめたら、真下にいる私に直撃する。今すぐここを動かなければいけないのに、足が震えて言うことを聞かない。
十年前の湖で見た景色が、一瞬で脳裏に蘇った。湖の中から這い上がってきた、無数の血走った赤い目。リアーナを抱き上げ、走り去って行く父の背中――
頭の血が一気に引いていくのを感じたその時。
「エステル!」
「エステル様!」
リアーナとロミが叫んだ。目の前が濃紺色に包まれて、次いで地面に押し倒される衝撃に襲われる。遮られた視界の向こうで、一際大きなドプン、という音が聞こえた。
そして――静寂が落ちた。
一体何が起きたのかわからない。耳鳴りの奥で、自分の心臓の音だけがやけに大きく響いている。
魔物は? 私に覆い被さっているのは何? 痛みはないけれど、私は無事なの?
恐怖と混乱で頭が真っ白になっていた私の鼻に、これまで嗅いだことのない饐えた臭いが届いた。
「うぉおえぇぇぇ……! くっさ! 何ですかこの臭い……おえぇっ!」
「お、おい! こっちに来るな! 俺にそれを付けたらタダでは済まさんぞ!」
ロミとアルベリク様の声だ。
「そんな事言われても、前がよく見えないんですよぉ! そもそもコレ、何なんですか!? あたし、死にますか!?」
「体に害はないはずだから、大人しくじっとしていろ!」
賑やかな二人のやりとりに、私は恐る恐る顔を上げた。
私に覆い被さっていたのは、リアーナだった。ガタガタと震えた白い顔のリアーナが、私にしがみ付いている。
「お姉様……?」
「エ、エステル! 怪我はない!? 大丈夫なの!?」
「う、うん……」
私の顔を覗き込んだリアーナの目に、今にもこぼれ落ちそうな涙が浮かんでいた。震える手で私の頬に触れ、深い息を吐き出す。
「良かった……本当に良かった……!」
「大袈裟だわ……」
「大袈裟なものですか! また十年前のようなことになったら、私……私は……っ!」
ボロボロと、大粒の涙がリアーナの頬を伝い落ちた。
「あの時、どんな思いをしたことか……! すぐ隣にいたのに……私は貴女のお姉ちゃんなのに、妹を守れなかった! 貴女が死んでしまうんじゃないかと、どれだけ……っ!」
「お姉様……」
「ごめんね、ごめんなさい……エステル……!」
泣きながら、震えながら、リアーナは私を抱きしめた。その温かい腕の中で、私は自分の過ちに気がついてしまった。
私はリアーナを、勝手に悪者にしていたのだ。愛される努力もしていないくせに、父から守ってもらった狡い女だと決めつけていた。あの時同じ場所に立っていて、一人だけ無傷で逃げ延びた彼女の気持ちなど、考えもしなかった。気持ちを聞く前に、分厚い壁を作り上げてしまっていた。
リアーナは努力をしない人――そう見えていたのは、私の目がそう映していただけだったのかもしれない。
「お姉様……私のほうこそ――」
「あのぉ……いい感じのところ申し訳ないんですけど、一旦ここを出て着替えたいのですが……」
私の言葉を遮ったロミは、全身がドロドロの液体に塗れていた。鼻が曲がりそうな悪臭は、これが原因らしい。
「一体、何が起きたの……? さっきの魔物はどこへ行ったの? 貴女は大丈夫なの?」
「えっと……まずリアーナ様がエステル様を庇うように抱きかかえたんですけど、真上にアレがいて危ないと思ったので、あたしがお二人を力一杯押し倒しました。ごめんなさい」
律儀に、ロミはぺこりと頭を下げる。
「そしたらアレが吐き出したこのドロドロが、あたしに直撃して。その後すぐに、アレは消えちゃいました」
頭が状況を理解し始めると、腹の底から怒りが沸々と湧いてきた。一度は飲み込もうとしたけれど、今朝から思い通りにならないことばかりで、もう限界だった。
私は突っ立ったままこちらを眺めているアルベリク様を睨みつける。
「どうして私を守るべき人が、一歩も動いていないのですか!? 女子供を放置して、それでも騎士ですか!?」
「あ、いや、エステル……違うんだ」
「何が違うとおっしゃるの!? あの魔物を斬り伏せていたならまだしも、あなたは一体何をしていたのよ!?」
もう止められない。さっきの恐怖で、私の中にあった抑止力が弾け飛んでしまったみたいだった。
「北部騎士隊長を期待されるような人が、作り物の笑顔にころっと絆されて! 婚約者をあっさり捨ててまで手に入れた女も守れないなんて、恥ずかしくないの!?」
「エステル、話を聞いてくれ」
「ちょっと席を外していた間に、面白いことになってるじゃないか」
私の勢いに気圧されるアルベリク様の後ろから、呑気な顔でリュカ様が戻ってきた。私の自制のきかない怒りは、あろうことか彼にも向かう。
「そもそも! か弱い女の子をこんな場所に連れて来るんじゃないわよ! 守ると言ったなら、責任を持って側にいなさい! ふらふらと勝手にいなくならないでよ!」
「おぉ……めちゃくちゃキレてる……何が……って、物乞い。お前、その格好――」
「ロミよ! 私の大事な従者を馬鹿にするのもいい加減にして!」
ありったけの力で叫んだ。かつてこんな大きな声で喚いたことがあっただろうか。
しん、と静まり返った空間に、肩で息をする私の息遣いだけが響いた。
「……エステル。もう喋ってもいいか?」
おずおずと口を開いたアルベリク様を再び睨む。一瞬怯んだ様子を見せたが、彼はそのまま続けた。
「さっきのアレは、魔物じゃない。オレアスだ」
「……オレ、アス?」
さっきリュカ様と話していた、魔鉱石の守り人の名前である。父や鉱山夫たちの口からも聞いたことがあるが、都市伝説のようなものだと思って詳しく調べたことはない。
「オレアスは魔鉱石に寄って来る魔物を食べる聖獣で、人間に害はないんだ。だから俺は剣を抜かなかったのだが……怖い思いをさせてすまなかった」
頭を下げるアルベリク様の隣で、リュカ様は目を見開いた。
「オレアスが出たのか?」
「はい。噂に聞いていた通り、スライムのような見た目で、緑色に発光していました。置き土産を落とした後、壁の中へと消えていきました」
「なんだよ、俺も見たかったのにー! 討伐の加勢なんかに行くんじゃなかった!」
本気で悔しそうなリュカ様の前に、ドロドロのロミが立つ。
「あのー……置き土産って、このドロドロのことですか? これって何なんです?」
「それは、あー……知らない方が……」
アルベリク様は気まずい顔で言葉を濁したが、リュカ様はあっさりと言い放った。
「オレアスの排泄物だ。つまり、うんこ」
「うん……!?」
「オレアスの姿を見れただけでもラッキーだが、置き土産まで食らうとは、本当にお前はついているな、ロミ」
……あれ? ちょっと待って。
せっかく戻っていた顔面の血の気が、再び音を立てて引いていく。つい今し方自分の口から飛び出した暴言の数々が、頭の中を駆け巡った。
「っ! 大っっ変、申し訳ございませんでした!!」




