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第九話 名前のない席

 ユナの父親と母親がギルドへ駆け込んできたのは、夜がすっかり深くなってからだった。


「ユナ!」


 最初に声を上げたのは、青ざめた顔をした男の人だった。


 応接室の長椅子で、毛布にくるまっていたユナが顔を上げる。


「お父さん」


 次の瞬間には、ユナは父親の胸へ飛び込んでいた。


 強く抱きしめられた小さな背中が、やっと堪えていたみたいに震え出す。


「ごめんなさい……ごめんなさい」


「いい。もういいから」


 父親の声も、少し掠れていた。


 その隣で、母親が何度もユナの髪を撫でている。右足首の白い痕を見つけたときだけ、一瞬だけ手が止まった。


「怪我は?」


「足首に少し、原因の分からない痕がありますが……今のところ歩くことはできます。明日、お医者さんに診てもらいましょう。」


 ミアの説明に、母親は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。本当に……娘を、助けてくださって」


「助けたのは、カイルさんとフィオと……紬さんです」


 ミアがこちらを見る。


 紬は、どう返せばいいのか分からなかった。


「私は、呼んだだけです。助けたのは、みんなで」


 少し遅れて、ユナが顔を上げる。


 まだ父親の服を握ったまま、紬の方を見た。


「つむぎさん」


「うん」


「来てくれて、ありがとう」


 小さな声だった。


 でも、紬はちゃんと頷いた。


「どういたしまして」


 それ以上のことは言えなかった。


 ユナの両親が、娘を迎えに来るのは当たり前のことだ。元いた場所に帰れてよかったと、素直に思う。


 なのに。


「今夜は、三人でごはんにしようね」


 母親がそう言った瞬間、紬の胸の奥に、細い棘が刺さった。


 三人。


 父親と母親と、ユナ。


 誰も間違っていない顔で、そう言っている。


 ユナも、何も気にしていない。


「うん。お母さんのスープがいい」


「こんな時間に?」


「食べたい」


「ふふ。じゃあ、少しだけね」


 その会話は、どこにでもある家族のものだった。


 だからこそ、さっき白い裂け目の向こうから聞こえた声が、紬の耳に残った。


 ――おねえちゃん……どこ?


 ユナが立ち上がったとき、毛布の下から紙が一枚、床へ落ちた。


「あ」


 拾おうとした紬の手より先に、ユナがそれを取る。


 色鉛筆で描かれた、拙い食卓の絵だった。


 丸い卓のまわりに、椅子が四つ。


 三つの椅子には、大きな人が二人と、小さな女の子が一人、座っている。


 最後の一脚だけが、真っ白だった。


「これ、ユナちゃんが描いたの?」


「うん」


「この椅子は?」


 ユナは絵を覗き込んで、首を傾げた。


「分かんない。ここだけ、いつも描けないの」


 母親が、困ったように笑う。


「最近、その絵ばかり描いていたの。でも、いつもそこだけ白いままで」


「……そう、なんですね」


 紬はそれ以上、聞かなかった。


 聞いても、ユナを困らせるだけだ。


 ユナは絵をテーブルの上へ置いた。


 そのまま父親に抱き上げられ、母親の手を握る。


 家族は何度も礼を言って、夜番に付き添われながらギルドを出ていった。


 閉じた扉の向こうで、ユナが父親にしがみつく声がした。


 その足音が、石畳の向こうへ遠ざかっていく。


 応接室に残ったのは、静けさと、テーブルの上に置かれた一枚の絵だけだった。


「三人家族」


 フィオが、窓枠に座ったまま言う。


「ユナは、そう言った」


「うん」


「でも、ユナの服に残った風には、三人とは違う残り方が一つ混じってる」


 紬は顔を上げた。


「もう一人、いたってこと?」


「分からない。弱すぎる」


 フィオは、絵の白い椅子を見た。


「でも、名前はない」


 黒いスマホが、掌の中で小さく震えた。


 ――観測情報を更新。


 ――記録上の家族構成と、残留情報が一致しません。


 紬は画面を伏せる。


「……今は、追わない」


「追わないの?」


「ユナが帰れたばかりだから。今、あの子から何かを取り上げたくない」


 フィオはしばらく黙っていた。


「人間は、面倒」


「知ってる」


 けれど、フィオは否定しなかった。


 ***


 翌朝。


 紬はミアに案内され、ギルドの二階にある小さな部屋の前に立っていた。


 重い木の扉には、簡素な金属札がかかっている。


 もちろん文字は読めない。


「ディーン支部長の部屋です」


 ミアが小声で教えてくれた。


「怖い人?」


「怖くはないよ。……たぶん」


「その間は何?」


「ニアは怖いって言う」


「姉さんが、必要以上に話しかけるからです」


 後ろから聞こえた声に、ミアの耳がぴくりと跳ねた。


 ニアは帳面を抱え、紬の隣に立つ。


「これから支部長は、話を聞きます。ただし、聞いたからといって、全部をそのまま信じるわけではありません」


「うん。それでいいと思う」


 紬が言うと、ニアは一度だけ瞬きをした。


「……そうですか」


 扉の向こうから、低い声がした。


「入れ」


 室内は、思ったより狭かった。


 壁際には依頼書らしき紙束と、地図の丸められた筒。窓のそばに置かれた机の向こうで、一人の男が書類から顔を上げた。


 灰色が混じった短い髪。年齢は、父親より少し若いくらいに見える。派手な鎧はつけていないが、机の脇に立てかけられた細い槍だけが、妙に目を引いた。


「朝凪紬、だったな」


「……はい」


 ディーン・ロウェルは、机の上の紙を一枚、紬の方へ滑らせる。


「昨夜の件について、確認したい。分からないことは分からないと言え。推測を事実のように話す必要はない」


「はい」


 面談は長かった。


 森で目を覚ましたこと。文字は読めないのに言葉は通じること。チャッピーのこと。地下倉庫で見た白い裂け目と、ユナの足首の痕。


 話しているうちに、紬は自分の説明がどれほど変なのか、改めて分かってきた。


 スマホを机に置いても、ディーンは笑わなかった。


 画面に現れた表示を、読めないなりにじっと見ている。


「その板が答える内容は、常に正しいのか」


「分かりません」


 紬はすぐに答えた。


「チャッピーは、見えているものから考えてくれる。でも、知らないことは知らないって言うし……正しい答えでも、どうするかまで決めてくれるわけじゃないです」


「なるほど」


 ディーンは、短く頷いた。


「道具か。それとも、相談相手か」


「……両方、だと思います」


「なら、使う人間が責任を持て」


 厳しい言葉だった。


 でも、突き放すための言葉ではない気がした。


 ディーンは、別の紙を取り出す。


「冒険者登録は認めない」


 紬の肩が、わずかに強張った。


「今の君には、身元の保証も、戦闘の経験もない。昨日の異常についても、何も分かっていない」


「はい」


「ただし、町の外へ放り出すつもりもない」


 紬は顔を上げる。


「本日から、仮保護登録とする」


 机の上に置かれたのは、薄い銅色の札だった。


 中央に、まだ何も刻まれていない。


「ギルド内の簡易宿泊室と食事を利用できる。費用は記録し、働けるようになってから返せばいい。単独での外出と依頼の受注は認めない」


「……はい」


「だが、同行者と支部の許可がある場合に限り、調査の補助には参加できる。君が見たものは、現状では貴重な情報だ」


 紬は札を見つめた。


 冒険者ではない。


 まだ、何かをできる人でもない。


 けれど、ここにいていいと言われた。


「ありがとうございます」


「礼は、返せるようになってからでいい」


 ディーンは、少しだけ視線を横へ向けた。


 扉のそばに、いつからいたのか、カイルが立っていた。


「カイル。お前も聞いていたな」


「ああ」


「紬の同行者になるか」


 カイルはすぐには答えなかった。


 金色の目が、紬の手にある銅色の札を見る。


「無茶はさせない」


「し、しないよ。」


 思わず言うと、カイルの眉がわずかに動いた。


「……危険かどうかを決めるのは、俺たちでやる」


 言い直した声は、少しだけ低かった。


 ディーンが机を指先で一度叩く。


「それでいい。誰か一人が決めるな」


 紬は、小さく頷いた。


 ***


 面談を終えて一階へ下りると、フィオは受付の窓辺にいた。


「遅い」


「面談だったんだよ」


「知ってる。長かった」


「ずっと聞いてたの?」


「風は聞く」


 フィオは答えず、窓の外へ顔を向けた。


 街の南側には、城壁の上から続く大きな門が見える。朝の光の中を、荷車や旅人がゆっくりと出入りしていた。


 ごく普通の景色だった。


 なのに、フィオの青緑の光だけが、風に逆らうように南門の方へ流れていく。


「紬」


「なに?」


「昨日の白い風、まだある」


 紬の指先が冷たくなる。


「どこに?」


 フィオは南門の外を指さした。


「街の外。あっちから、風が帰ってこない」


 スマホが震えた。


 ――観測範囲外に、類似した空間不整合の兆候を検出。


 ――推定方向:グラナート南門外。


 朝の街道は、何事もなかったように続いている。


 その先だけが、風から切り離されていた。

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