第八話 白い裂け目の向こうで
錆びた鍵が回る音のあと、地下倉庫の扉はゆっくりと開いた。
カイルが盾を先に入れる。紬は約束どおり、敷居の外に残った。
古い木箱と棚が並ぶ、ただの倉庫。
そう見えたのは、一瞬だけだった。
奥の崩れた石壁の前だけ、床も壁も白く塗り潰されている。白は石を覆っているのではない。そこにあったはずの色も影も、最初からなかったことにしたみたいに、きれいに消えていた。
そして、白の中に小さな影がある。
膝を抱えてうずくまる、女の子だった。
「……いた」
声が出た瞬間、女の子が顔を上げた。
肩までの茶色い髪。大きな目。八歳くらいに見える。服の裾は埃で汚れているのに、血はついていない。
けれど、右足首には白いものが絡みついていた。
絵の具を指で塗り広げたような白が、靴下の端から肌へ這い上がっている。
「お姉ちゃん……?」
女の子の声は震えていた。
「違うよ。ごめんね」
紬はすぐに答え、それから自分の声を少しだけ落とした。
「助けに来たの。動ける?」
女の子は頷こうとして、固まった。
白い亀裂の奥で、何かが鳴いた。
低く、湿った音だった。
白の中から、獣の形をした影が這い出してくる。犬より大きい。けれど足も胴も輪郭だけが白く、内側には夜のような黒が滲んでいた。目のあるはずの場所に、何もない。
「カイル」
「下がれ」
カイルが倉庫へ踏み込む。
同時に、フィオが扉の上まで飛び上がった。
「風を入れる。紬、あの子から目を離さないで」
「うん」
淡い青緑の光が、倉庫へ細く流れ込む。
風は白い床に触れた途端、見えない壁にぶつかったように散った。けれど、その一瞬だけ、女の子の足首に絡んだ白が薄く揺れる。
紬はスマホを握り直した。
「チャッピー。あの白い影は女の子を狙ってる? カイルが近づく道はある?」
――観測情報を受信。
――対象は少女の足首に付着した白色領域へ反応しています。
――推奨:少女と白色領域を引き離し、亀裂から遠ざけてください。
「足首の白いのを、離せばいいの?」
――方法は特定できません。
――ただし、風との接触により反応の低下を確認しました。
「フィオ、もう一回。あの子の足元だけ」
「言われなくても」
フィオは短く答えた。
いつもの軽い調子はなかった。
風が今度は細く、女の子の足首へ絡む。白い痕が、煙のように揺らいだ。
獣の影が、音もなく跳ねた。
カイルの盾が前へ出る。
白い爪が盾に触れた瞬間、金属ではなく、記憶を引っ掻くような嫌な音がした。
紬の頭の奥で、母の声が一瞬だけ遠のく。
夕飯ができた、と呼ばれた声。
「……っ」
何を忘れかけたのか、分からない。
けれど、忘れたくないと思った。
「カイル、盾に触らせないで!」
「分かってる」
カイルは盾を引き、半歩だけ横へずれた。白い影の爪が空を切る。その隙に、剣が黒い胴を薙いだ。
斬られた場所から、白い紙片のようなものが舞う。
影は声を上げず、再び亀裂の方へ体を縮めた。
「今だ」
カイルが言う。
フィオの風が、女の子の足首の白を押し戻した。完全には消えない。けれど、白と床のつながりが切れた。
「走れるか」
女の子は、恐怖で動けなかった。
紬は敷居の外から両手を伸ばす。
「大丈夫だよ。ここまで来れる?」
「でも、あれが」
「カイルがいる。フィオもいる」
自分だって怖い。
それでも、女の子が一人で白い場所に残るよりはましだ。
「だから、お願い。こっちに来て」
女の子が、紬を見た。
そして、震える足で一歩を踏み出した。
白い影が動くより早く、カイルが女の子を抱き上げた。大きな盾で背後を塞ぎ、そのまま三歩で敷居を越える。
紬は女の子の肩を受け止め、床へ座り込んだ。
倉庫の奥で、白い影が亀裂へ引き戻されていく。
けれど消える寸前、目のない顔だけがこちらを向いた気がした。
白い亀裂は、細く縮んだ。
消えなかった。
その直後、廊下の向こうから複数の足音が近づいてきた。
「ミア、ニア!」
カイルの声に、双子と革鎧姿の夜番が駆け込んでくる。
ニアは倉庫の奥を一度見て、すぐに夜番へ指示を出した。
「地下倉庫を封鎖。今夜は誰も近づけないでください」
「南通りのフェル家へ使いを。この子は応接室へ移します」
「記録は私が取る。ミアはこの子を診てもらえる場所へ」
「分かった」
ミアが女の子のそばに膝をつく。
「怖かったね。もう大丈夫。お名前、言える?」
女の子は、しばらく紬の袖を握っていた。
やがて、小さな声で答える。
「……ユナ。ユナ・フェル」
「ユナちゃん。おうちはどこ?」
「南通り。お父さんと、お母さんがいる」
答えは、ちゃんとしていた。
だからこそ紬は、さっきの声が気になった。
ミアが湯気の立つ布を取りに行ったあと、紬はユナの目線に合わせてしゃがむ。
「さっきね。お姉ちゃんって呼んでたよね」
ユナの顔から、わずかに色が消えた。
「……分からない」
「分からない?」
「お姉ちゃんなんて、いないもん」
言い切ってから、ユナは自分の手を見た。
「でも、呼ばなきゃって思っただけ」
右足首には、まだ消え切らない白い痕があった。
スマホが、紬の掌で震える。
――発話記録に、参照先不明の家族呼称を検出。
紬は表示を伏せた。
今は、ユナに見せてはいけない気がした。




