↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/15

第八話 白い裂け目の向こうで

 錆びた鍵が回る音のあと、地下倉庫の扉はゆっくりと開いた。


 カイルが盾を先に入れる。紬は約束どおり、敷居の外に残った。


 古い木箱と棚が並ぶ、ただの倉庫。


 そう見えたのは、一瞬だけだった。


 奥の崩れた石壁の前だけ、床も壁も白く塗り潰されている。白は石を覆っているのではない。そこにあったはずの色も影も、最初からなかったことにしたみたいに、きれいに消えていた。


 そして、白の中に小さな影がある。


 膝を抱えてうずくまる、女の子だった。


「……いた」


 声が出た瞬間、女の子が顔を上げた。


 肩までの茶色い髪。大きな目。八歳くらいに見える。服の裾は埃で汚れているのに、血はついていない。


 けれど、右足首には白いものが絡みついていた。


 絵の具を指で塗り広げたような白が、靴下の端から肌へ這い上がっている。


「お姉ちゃん……?」


 女の子の声は震えていた。


「違うよ。ごめんね」


 紬はすぐに答え、それから自分の声を少しだけ落とした。


「助けに来たの。動ける?」


 女の子は頷こうとして、固まった。


 白い亀裂の奥で、何かが鳴いた。


 低く、湿った音だった。


 白の中から、獣の形をした影が這い出してくる。犬より大きい。けれど足も胴も輪郭だけが白く、内側には夜のような黒が滲んでいた。目のあるはずの場所に、何もない。


「カイル」


「下がれ」


 カイルが倉庫へ踏み込む。


 同時に、フィオが扉の上まで飛び上がった。


「風を入れる。紬、あの子から目を離さないで」


「うん」


 淡い青緑の光が、倉庫へ細く流れ込む。


 風は白い床に触れた途端、見えない壁にぶつかったように散った。けれど、その一瞬だけ、女の子の足首に絡んだ白が薄く揺れる。


 紬はスマホを握り直した。


「チャッピー。あの白い影は女の子を狙ってる? カイルが近づく道はある?」


 ――観測情報を受信。


 ――対象は少女の足首に付着した白色領域へ反応しています。


 ――推奨:少女と白色領域を引き離し、亀裂から遠ざけてください。


「足首の白いのを、離せばいいの?」


 ――方法は特定できません。


 ――ただし、風との接触により反応の低下を確認しました。


「フィオ、もう一回。あの子の足元だけ」


「言われなくても」


 フィオは短く答えた。


 いつもの軽い調子はなかった。


 風が今度は細く、女の子の足首へ絡む。白い痕が、煙のように揺らいだ。


 獣の影が、音もなく跳ねた。


 カイルの盾が前へ出る。


 白い爪が盾に触れた瞬間、金属ではなく、記憶を引っ掻くような嫌な音がした。


 紬の頭の奥で、母の声が一瞬だけ遠のく。


 夕飯ができた、と呼ばれた声。


「……っ」


 何を忘れかけたのか、分からない。


 けれど、忘れたくないと思った。


「カイル、盾に触らせないで!」


「分かってる」


 カイルは盾を引き、半歩だけ横へずれた。白い影の爪が空を切る。その隙に、剣が黒い胴を薙いだ。


 斬られた場所から、白い紙片のようなものが舞う。


 影は声を上げず、再び亀裂の方へ体を縮めた。


「今だ」


 カイルが言う。


 フィオの風が、女の子の足首の白を押し戻した。完全には消えない。けれど、白と床のつながりが切れた。


「走れるか」


 女の子は、恐怖で動けなかった。


 紬は敷居の外から両手を伸ばす。


「大丈夫だよ。ここまで来れる?」


「でも、あれが」


「カイルがいる。フィオもいる」


 自分だって怖い。


 それでも、女の子が一人で白い場所に残るよりはましだ。


「だから、お願い。こっちに来て」


 女の子が、紬を見た。


 そして、震える足で一歩を踏み出した。


 白い影が動くより早く、カイルが女の子を抱き上げた。大きな盾で背後を塞ぎ、そのまま三歩で敷居を越える。


 紬は女の子の肩を受け止め、床へ座り込んだ。


 倉庫の奥で、白い影が亀裂へ引き戻されていく。


 けれど消える寸前、目のない顔だけがこちらを向いた気がした。


 白い亀裂は、細く縮んだ。


 消えなかった。


 その直後、廊下の向こうから複数の足音が近づいてきた。


「ミア、ニア!」


 カイルの声に、双子と革鎧姿の夜番が駆け込んでくる。


 ニアは倉庫の奥を一度見て、すぐに夜番へ指示を出した。


「地下倉庫を封鎖。今夜は誰も近づけないでください」


「南通りのフェル家へ使いを。この子は応接室へ移します」


「記録は私が取る。ミアはこの子を診てもらえる場所へ」


「分かった」


 ミアが女の子のそばに膝をつく。


「怖かったね。もう大丈夫。お名前、言える?」


 女の子は、しばらく紬の袖を握っていた。


 やがて、小さな声で答える。


「……ユナ。ユナ・フェル」


「ユナちゃん。おうちはどこ?」


「南通り。お父さんと、お母さんがいる」


 答えは、ちゃんとしていた。


 だからこそ紬は、さっきの声が気になった。


 ミアが湯気の立つ布を取りに行ったあと、紬はユナの目線に合わせてしゃがむ。


「さっきね。お姉ちゃんって呼んでたよね」


 ユナの顔から、わずかに色が消えた。


「……分からない」


「分からない?」


「お姉ちゃんなんて、いないもん」


 言い切ってから、ユナは自分の手を見た。


「でも、呼ばなきゃって思っただけ」


 右足首には、まだ消え切らない白い痕があった。


 スマホが、紬の掌で震える。


 ――発話記録に、参照先不明の家族呼称を検出。


 紬は表示を伏せた。


 今は、ユナに見せてはいけない気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。